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舘家の三兄弟  作者: トウリン
博愛無私のお姫様

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あなたの声を、聴かせて欲しい

 優人(ゆうと)が病院に着いたのは、もうじき病棟の昼食時間が始まろうとしている頃合いだった。

 昔はボランティアが食事の介助をしていたそうだが、介護士という職種が病院のスタッフに入るようになってから、それはなくなったらしい。なので、あと二十分もすれば、唯香(ゆいか)は手隙になるはずだ。


(彼女はどこにいるだろう)

 エントランスホールに立った優人は取り敢えずスマホを覗いてみた。いつもなら、九時に部室で唯香と落ち合って、連れ立って病院に来る。たまにそこで会えない時は、メールでどこにいるのかを教えてくれるのだ。


 が、しかし。


 昨日からこちら、唯香からのメールは一通も届いていない。

 優人がもう来ないだろうと思ったのか、それとも、彼女の方が、会いたくないと思っているのか。

 ――恐らく、後者か。

 最後に会った時、唯香が口にしたのは謝罪だった。多分、その謝罪で、優人を拒絶した。メールが届かないのが、その証拠だ。


『空気を読む』なら、もう彼女と関わらない方が正解なのだろう。だが、生まれてこの方、優人は空気など読んだためしがないし、そうする必要を感じたこともない。


(そうはいくか)

 スマホをしまい、彼は声に出さずに唸った。


 唯香がいる可能性が一番高いのは小児科病棟で、優人はまずそこから当たってみることにする。


 ひとまず、エレベーターに。

 そう思って踵を返した彼は、前方をよぎろうとしている姿に気付いてその足を止めた。

 唯香、と、散歩帰りなのだろうか、車椅子の患者だ。小柄だから子どもだろう。入院中だというのに、帽子を被っている。進む方向からして、病棟に戻ろうとしているところと思われた。


 このままついていって、患者を手放したところで捕まえよう。

 そう思って、優人がまた歩き出した時だった。目にした光景に、ふと彼は眉をひそめる。

 患者が肩越しに振り返って会話をしているときの唯香は、いつもの彼女だ。だが、子どもが前を向いた途端に、その完璧な笑顔が曇る。


 まるで、その患者の相手が苦痛であるかのように。


 感覚的にそう思ってから、優人の頭に一つの記憶が閃いた。

(あの表情は、見たことがある)

 あれは、クリスマス会の時だ。はしゃぐ子どもたちを眺めて唯香が浮かべていた笑顔が、ほんの一瞬、消えた時があった。あの時彼女が見ていたのは、帽子にマスク――今、車椅子に乗っている患者ではなかったろうか。


(あの子と、何かあるのか?)

 だが、患者の方は屈託なく、双方向のトラブルがあったようには全く見えない。となると、唯香の方に何か思うところがあるのだろうが、それなら、無理に相手をしなければいいのにと、優人は眉間にしわを寄せる。

(どうせまた、頼まれて断れなかったのだろうが)

 無償奉仕なのだから、自分の不快さを押してまでやる必要はないはずだ。


 そういうところが、苛々する。


 気持ちを落ち着かせてじっくりと唯香と話をするつもりだったのに、幸先が悪い。

 ムゥと唇を引き結んだ優人の視界からは、いつの間にか二人の姿が消えていた。どうやら、エレベーターに乗られてしまったらしい。


 タイミングを逃したら、唯香はまた別の作業に移ってしまう。

 その前に捕まえなければと、優人は急いで後を追った。


 優人が病棟に着くと、丁度唯香が患者を看護師に引き渡したところだった。彼女は笑顔で看護師に何かを言い、看護師は何かを答えた。そして、患者が唯香に手を振り、彼女が振り返したところで、部屋に向けて動き出す。

 二人の背を見送る唯香の顔は、晴れやかとはほど遠かった。


 優人は両手を握り締め、一歩を踏み出す。特に足音を忍ばせているわけでもないのに、離れて行く患者に気を取られているのか、唯香は振り返らなかった。

 手を伸ばせば触れられる距離まで近づき、そして。


「どうして、そんな顔になるんですか?」

 優人が声をかけた瞬間、唯香の肩がビクリとはねる。

 振り返って彼を視界に納めた唯香の顔は、瞬きほどの間だけ強張り、そしてすぐに笑顔に取って代わられた。

「優人さん。来てくれたんですね」

 笑っていて、朗らかな声でそう言ったけれども、唯香のその態度を鵜呑みにすることはできなかった。ほんの一瞬見せた強張った顔こそ、彼女の心中を物語るものだったはずだ。


(やはり、僕に会いたくなかったのか)

 その事実が、チクリと彼の胸を刺す。

 しかし、目的を果たさない限り、逃げ帰るつもりはさらさらなかった。


「さっきの顔は、どういう意味なんです?」

「顔? 何?」

 唯香は優人の隣を擦り抜けながら、変なことを言いますねと笑っている。

 明らかに、彼女はごまかそうとしていた。そうでなければ、足を止め、ちゃんと優人と真正面に向き合って、目を合わせているはずだ。


 優人は奥歯を噛み締め身を翻す。不自然さを感じる速足で彼から離れて行く唯香は、エレベーターではなくその向かいにある非常階段のドアノブに手を伸ばそうとしていた。

「唯香さん、ちょっと待って」

 らしくなく荒くなった声で呼ばわると、それに打たれたように唯香が固まった。一呼吸置いて、彼女は振り返る。


「何ですか?」

 笑顔――だが、よそよそしい。

 その『笑っている』顔にイラつきながら、優人は唯香との距離を縮めた。彼女は、まるで、野良猫のように肩を強張らせて優人の動きを見つめている。

 あと三歩というところまで近づいたところで、ドアノブを握る唯香の手に力がこもるのが見て取れた。それ以上、一ミリでも距離を縮めたら即座にドアの向こうに消えてしまいそうで、優人はそこで立ち止まる。束の間、言葉を探して逡巡した。


 訊きたいことは数あれど、何からどう切り出していいのかが判らない。

 取り敢えず、唯香を引き留めておくためにも何か会話を始めなければ。


「……どこか具合でも悪いんですか?」

 そうではないということは百も承知だが、優人は唯香の顔をジッと見据えながらそう訊いた。彼女の眼が、ツイと逸れる。

「え、なんで? 全然、元気ですよ」

「でも、さっきはおかしな態度でした」

「さっき? いつ? 別に、何も……」

 優人の方を見もせずに、唯香は口の中でもごもごと呟いた。そんな彼女に優人は目をすがめる。

「気分が悪いのでなければ――あの子が嫌いなんですか? 何か嫌な事でもされましたか? すごく性格が悪いとか?」


 刹那、首が外れそうな勢いで唯香が顔を上げる。


「違うよ! そんなことない! ナナちゃんはいい子だから――ッ!」

 目論見どおりに優人と目を合わせた唯香を、彼は軽く首をかしげて見返した。そうして、彼の目に映った事実を口にする。

「ですが、あなたは彼女を見る時、顔を曇らせていました。他の子に対しては、あんな表情にはなりません。あなたは、あの子の相手をしたくなかったはずだ」

 淡々と述べた優人の前で、唯香は唇を噛んでいる。


 その沈んだ顔を見つめながら、どうして他の者は誰も気づかないのだろうと、彼は思った。

 この女性は、明るく朗らかなだけの人じゃない。その表面的な顔の裏にはもっと暗く深いものがあって、それこそがこの人を形作るものなのだ。

 優人はそこに沈む唯香を引きずり上げ、彼女が隠そうとしている彼女の姿を見たかった。


 その思いに駆られ、彼の口が動く。

「僕は、……僕は、あなたのことを知りたいんだ」

 唯香の、全てを。

 彼女の声で、彼女の全てを教えて欲しい。

 優人は、強く、そう望んだ。

「僕は、何があなたを喜ばせ、何があなたを苦しませているのか、知りたい」


「苦しむ、なんて、そんなこと……」

 唯香が、笑った。

 その笑みは歪んでいて、彼女の否定を否定していた。


 いや、もしかしたら、唯香自身も気付いていないのかもしれない。

 気にくわないその笑顔を見遣りながら、優人は思った。


(だったら、気付かせずにいる方がいいのか?)

 彼女の為には、そうすべきなのか――そうなのかもしれない。

 今まで、唯香の人生はそれで進んできたのだから。


(だが、僕は嫌だ)

 優人は両手を握り締め、顔を上げる。


「あなたは、確かに良く笑う。でも、時折、そこに偽物が混じる。僕はその笑い方が好きじゃない。僕は、あなたにその笑い方をして欲しくないんです」

 優人は一歩、前に進む。と、唯香が少しでも彼から遠ざかろうとするかのように扉に身体を押し付けたから、彼はそれ以上動けなくなる。

 その場で足を踏みしめ、ほとんど睨みつけるようにして、唯香を見る。彼女も優人を見返してきたが、その眼は深い虚のようだった。


「……あなたのその不自然なほどに他者に尽くそうとするその態度は、僕には――何かを証明しようとしているように見えます。あるいは、何かの代償か」

「違う!」

 優人の台詞を切り伏せるかのような唯香の声。

 口をつぐんだ優人の前で、彼女の視線が揺れる。

「そんなこと、ないよ。わたしは、したくてしてるだけなんだから……」

「そうですか? したい、というよりも、しなくてはならない、というように見えますが」

 静かに切り返した優人に、唯香はグッと息を詰めた。反論は、ない。


「何があなたをそうさせているんですか?」

 その正体が判れば、それから唯香を守ることができるのだ。

 優人は彼女を見つめ、返事を待った。

 唯香の唇が震え、開きかける。


 しかし。


 キュッと引き結ばれた後、そこからこぼれた言葉は。


「本当に、何も――」

 揺らぐ、笑顔。


 そして次の瞬間。


 コロリと彼女の頬を転げ落ちた雫に、優人の全てが固まった。

「ゆい――」

 呼びかけようとした声は、震える声で遮られる。

「もう、放っておいて」

 決して強い口調ではなかった。むしろ、震えていて、頼りなくて。

 だからこそ、優人は咄嗟に動けなかった。

 その一言を残し、唯香は非常階段への扉を引き開けて姿を消してしまう。


 放っておいて。


 その言葉を投げられたのは、これで二度目だ。

 彼女の声に潜んでいたのは、懇願だった。心の底から、それ以上の追及を拒んでいた。一度目の時よりも、強く。


 だが、優人は自問する。


(僕は、放っておけるのか?)

 ここまではっきりと拒絶されて、二度も拒絶されて、まだ、追いかけるのか?


 ――答えは、決まっている。


(ああ、追いかけるとも)

 他人のことなどどうでもいい。

 優人は、確かに今までそういうスタンスで生きてきた。


 だが、唯香のことはどうでもよくない。どうでもいいとは、思えない。


 彼は重い扉を開く。その耳に、階段を駆け下りていく足音が届いた。


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