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舘家の三兄弟  作者: トウリン
博愛無私のお姫様

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引き返すには遅過ぎる

「あれ、優人(ゆうと)くん、今日は出かけないの?」

 日曜十時にリビングに下りてきた彼に、キッチンで洗い物をしていた(ほたる)が目を丸くした。


 優人はタブレットからチラリと目を上げ、ムスリと答える。

「……行かない」

「ふぅん?」

 蛍の反応はそれだけだ。また、カチャカチャと音をさせて食器を片付け始める。

 彼女にもっと突っ込まれると思っていた優人は、若干拍子抜けしてソファに向かい、ドサリとそこに腰を落とした。


 唯香(ゆいか)のことを蛍に話してみたら、何と答えるだろう。目はタブレットに、耳は彼女が立てる物音に向けながら、優人はそう考えた。

 ……そんな考えが頭をよぎるほど、今の彼は八方手詰まり状態だったのだ。


 正直言って、もう何をどうすればいいのかが判らない。

 今までの優人の人間関係は、相手が去って行けば、相手に拒まれたら、それで終わりになっていた。彼はそれで一向に構わなかったし、むしろその方が気楽でよかった。どうやったら引き留められるのかなど、頭の片隅をよぎったこともなかったのだ。


(今回も、同じでいいじゃないか)

 所詮、優人には人の気持ちなど――唯香の気持ちなど、解らない。解らないのだから、彼女のことだって引き留めようがない。


 優人は、唯香に楽しいと思って欲しかった。それは彼女にとって良いことなのだと思っていた。唯香は楽しむことを知らないだけで、それを知れば、もっと彼女が幸せになるのだと思っていた。


(だが、そうじゃない)


 唯香は、楽しいとつらいのだ。

 どうしてそう思うのか、どういうふうに考えればそうつながるのか、優人にはさっぱり理解できない。


 優人が誰かのために何かをしたいと思って動いたのは、多分、初めてだ。その初めての試みは、空振りどころかむしろマイナスの効果をもたらした。

 その事実は、彼を大きく凹ませた。同じ轍は、もう二度と踏みたくない。

 人生初と言ってもいい特大の挫折を噛み締めている優人の指はタブレットの上を滑って画面をスクロールさせているけれど、そこに映し出されているものは何一つ彼の頭に入ってきていない。


(僕は彼女に近寄るべきじゃない)

 その事実が、変わる画面の代わりにグルグルと優人の頭の回路を回っている。


 唯香の傍にいたら、また、彼女に何かしたいと思ってしまうだろう。そうしたら、また、彼女に辛い思いをさせることになる。


 軋むほどに奥歯を噛み締めた優人の脳裏に、最後に目にした唯香の顔が浮かぶ。

 笑顔とは程遠い、苦しさばかりがあった顔が。

 あんな顔は、もう見たくない。

 あんな顔をさせたのが自分だということが、耐えられない。


 自分の望みと、彼女の安寧。


 そのどちらを優先するかなど、火を見るよりも明らかだ。


(明らか、なんだ)

 胸の内でそう繰り返した優人の口から、我知らず深いため息が漏れた。

 と、横から湯気が立つコーヒーカップがそっと差し出される。


「蛍」

 顔を上げると、首をかしげて優人を見つめている彼女と目が合った。

「何だか、難しい顔をしてるね。珍しい」

 優人は蛍に唸り声だけを返してコーヒーに手を伸ばす。思いのほか熱かったそれに舌を焼かれて、彼は顔をしかめた。

 蛍の視線が自分に注がれているのはひしひしと感じていたが、それを無視してコーヒーをすする。


 彼女も自分の分のカップを持っていて、少し考える素振りを見せてから、優人の前に腰を下ろした。


 互いに無言で、カップの中身を減らしていく。

 多分、時間にして十分か二十分か。


「優人くんって、頭がいいよね」

 不意に、蛍が呟くように言った。彼女に目を向けると、ニコリと笑顔が返ってくる。

 蛍は大きな目で真っ直ぐに優人を見つめてきた。


「優人くんは頭がいいから、ほとんどのことに答えを出せるよね。でも、他の人の心の中って、考えても解るものじゃないんじゃないかな。こんなふうに考えているだろうって、こっちが思うだけで、それが本当に正しいかは、結局、相手の人に訊かないと判らないの」

 言葉を探るようにゆっくりと、彼女は言った。

「蛍」

 返す台詞が見つからず、ただ名前だけを口にした優人を、彼女が覗き込む。

「せっかく見つけた大事な人は、諦めちゃいけないと思うな」

 まるで、優人の頭を開いて中を覗き込んでいるかのような台詞だ。だが、蛍には、こういう、優人とは違う敏さが幼い頃からあった。『解らない』と言いつつ、人の心を正しく読み取れるような、敏さが。

 今もあまりに的確に問題を言い当てられ、呆気に取られてただ見返すしかない彼にフフッと笑うと、蛍はカウンターの向こうへ戻っていった。


 また一人になって、優人は手の中にあるマグカップに目を落とす。半分ほど残った黒い液体に、自分の顔がぼんやりと映った。


(情けない顔だな)

 自嘲の思いと共に、そんなふうに思った。

 途方に暮れた、実に、情けない顔だ。


 ――唯香のことを、諦める。


 優人は胸の内で呟いた。

 確かに、数分前まで彼が考えていたことは、まさにそれだ。


(僕は彼女を諦めるのか?)

 そして、彼女と出逢う前の、安定して平穏な日々に戻るのか――戻れるのか。


 その生活をもはや思い浮かべることもできない自分に、愕然とする。

 そして、無理だと思った。

 唯香が存在しない世界では、自分の時間は流れていかないだろう、と。


(だとすれば、僕はどうすべきなんだ? 彼女といるためには、どうしたらいい?)

 理解できないと足踏みをする以外に、するべきことは何なのだろう。


 優人は、考えた。多分、今までこれほど脳みそを回転させたことがないというほどに。

 他人が考えていることは、解からない。その通りだ。唯香が何を考えているのか、優人にはさっぱり解からない。

 だが、蛍も、たった今言っていたではないか。それはきっと、優人に限ったことではないのだ。


 それに。


(前に、唯香が何て言っていた?)


『言葉にしなければ、伝わらない』

 そう、彼女もそう言っていた。


 自分は、自分の考えを充分に唯香に伝えただろうか。あるいは、充分に、彼女の考えを知ろうとしただろうか。

 優人は自問した。


 していない。

 あれやこれや勝手な推測はしたが、彼女自身からは答えを得ていない。


 優人はすっかり冷えたカップを、きつく握り締める。


 それをせずして、諦めて良いのだろうか。


(いや、そもそも、諦められない。引き返すには、もう遅いんだ)

 なかったことにするには、彼女のことを知り過ぎた。

 諦めようにもそのやり方が判らない。


 優人は冷めたコーヒーを一気に飲み干して立ち上がった。その勢いの良さに、蛍が目を丸くする。


「ちょっと、出かけてくる」

 大股にリビングを通り抜けながら蛍にそう残し、優人は玄関に向かった。


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