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舘家の三兄弟  作者: トウリン
博愛無私のお姫様

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放っておけない

 水族館で過ごした時間は、まずまずうまくいったと思う。そのはずだ。

 あの日の優人(ゆうと)は、確かにその手応えを感じていた。それは決して彼の驕りでも勘違いでもなかったはず。


 だが――


(この状況は、何なんだ?)

 小児科病棟のプレイルームで年長児に算数を教えながら、優人は胸の内でぼやいた。

 この状況、とは、唯香(ゆいか)に避けられているという状況だ。

 いや、避けられているというのは、少々強過ぎる言葉になるかもしれない。

 別に、彼が傍に寄っていったら逃げていくとか、電話やメールに応えてくれないとかいう訳ではないのだから。

 会ってくれるし、目を合わせてくれるし、笑いかけてくれるし、話しもしてくれる。


 だが、やはり、彼女に避けられている。


 今も少し離れたところで就学前の子どもたちに絵本を読んでいる唯香に、優人は、そう感じていた。


 病院ボランティアは、言ってしまえば雑用係だ。

 季節に応じで病棟内を飾ってみたり、この間のクリスマス会のように、何かイベントがあるならその手伝いをしたりもする。あるいは、身動きできない入院患者の買い物や洗濯を代行したり、散歩に付き添ったり。少々特殊なのは、小児科での役割で、そこでは、他病棟と同じようなことの他に、子どもの相手というものが入ってくる。親が留守にしている間の子守や、学校に通っているような年齢の子の勉強の相手などだ。

 特に学生ボランティアではこれが一番需要が高い。出逢ったときの唯香も小児患者の相手をしていたし、そして今も、優人たちは小児科病棟のプレイルームにいるのだが。


 少し前の唯香なら、優人の隣で他の子に勉強を教えていた。

 だが、ここ数日の彼女は、優人と同じ部屋にいても、同じ作業をしようとしない。一緒に同じことを始めても、すぐに他の用があるからと離れていってしまう。

 プラス方向で考えれば、優人も慣れてきていちいちやることに指図をしなくても良くなったから付きっ切りでいる必要がなくなっただけ、なのかもしれない。だが、それにしても変化が唐突過ぎるし、もしもそう考えたのならば、唯香はひと言そう断ってから行動を変えるだろう。

 となると、シンプルに、彼女は彼の近くにいたくないと思うようになったのだということになるのだが……


 その理由として思い当たるのは、あの水族館しかない。

 なぜなら、あの翌日から始まったことだからだ。


 三日ほどは、気のせいだろうと思っていた。だが、一週間続けばそれが希望的観測に過ぎないと判ってくる。

(水族館では、問題なかったはずなんだ)

 確かに、最初のうちは唯香からひしひしと緊張が伝わってきていた。だが、帰る頃にはそれも解けていたし、「また明日」と駅で別れた時にはいつも通りの彼女だった。となると、帰って、家で一晩過ごした間に彼女の中で何かが起きたということになる。

 優人もそこまでは当たりを付けたのだが、では、何が起きたというのかというところになると、お手上げだ。


 唯香は家族のことに触れると妙な顔になるから、そこ絡みで何か思うところがあったのかもしれない。家族との思い出に引っかかったとか。

 だが、彼女はあの水族館に家族と一緒に行ったことはないと言っていた。そうなると、思い出も何もない。

 となると、優人とも水族館とも全く関係なく、別れてから何かが起きたのかもしれない。

(だったら、僕を避けることはないはずだ)

 唯香は、そんな筋が通らないことをする人ではない。まあ、相談してくれるような人でもないのだが。


 そんなこんなで一週間、優人はあれやこれやと考え――結局、答えを見いだせなかった。

(これは、もう本人に確認するしかない)

 一週間経っても答えが判らず、唯香の態度も変わらない。きっと、これ以上待ってもこの膠着状態が続くだけなのだろう。

 優人はこのままではいられないしいたくもないから、状況を打開するには直接本人に訊くしかないのだ。


「ねぇ、ここわかんない」

 ツイツイと袖を引かれて、優人は隣の子どもに目を向ける。彼が開いているのは、小学校五年生の算数ドリルだ。

「ああ、それは……」

 敏い子で、少しヒントを教えてやると、すぐにパッと顔を輝かせる。

「あ、そっか」

 頷き、また課題に専念する子どもを少しの間見守ってから、優人はまた唯香に目を走らせた。

 彼女は一見いつものように明るく朗らかだ。何か思うことがあるようには、見えない。


 あの女性に比べれば、数学というものは、何と単純で明快なものか。


(彼女のことも、こんなふうに答えが出るものならいいのに)

 優人はため息を押し潰し、胸の中でしみじみと呟いた。

(とにかく、今日ははっきりさせよう)

 病院から解放されたら、すぐに。


 だが、ジリジリする優人の焦りなど関係なく、時間はいつもと同じ速度で流れる。

 何度も時計をチラ見して、ボランティア時間が終わった時、彼は三年ほども我慢していたような気分になった。


「じゃあ、帰りましょうか」

 子どもたちを病室へ送り返し、そう声をかけた優人に、唯香がほんの一瞬ためらったのが感じ取れる。

「あ、わたし、少しやることがあるので……」

 彼から視線を逸らした微笑みで言う彼女に、優人は目を細めた。

「手伝いましょうか?」

「あ、ううん、いいの」

 ぶんぶんとかぶりを振る彼女のその素振りは、かなりアヤシイ。

 無言で唯香を見下ろすと、彼女はチラリと優人を見てから、またその目を伏せた。そんな唯香をひたと見据えながら、優人は前置きなしに単刀直入に切り出す。


「……僕が何かしましたか?」

 刹那、パッと顔を上げた唯香が、目を見開いて彼を見た。

「え」

「何かあなたを怒らせるようなことをしましたか? 僕は言われなければ気付かないタイプだと、あなたは知っているはずだ。僕の何かに腹を立てているなら、その何かを教えて欲しい」


 淡々と告げる優人の前で、唯香の顔は次第にうつむいていく。彼が口をつぐんでからややして、彼女は顔を上げた。

「ごめんなさい」

 短い一言だった。それだけで止まった唯香に、優人の中に微かな苛立ちが生まれる。

 彼は謝って欲しいわけではない。彼女の不可解な行動の理由を知りたいだけだ。


「その謝罪は、何に対してですか?」

「優人さんに嫌な思いをさせたことに対して。でも、優人さんは何も悪くないです」

 唯香ははっきりした声でそう言ったが、彼女のその台詞は優人が求めた答えにはなっていなかった。


「唯香さん」

 焦れる気持ちを隠さず読んだ優人から、唯香が一歩後ずさる。その仕草が彼女の拒絶を表しているようで、彼の心と身体が強張った。更に優人の気を削ごうとするかのように、彼女が口早に言う。

「ごめんなさい。本当に。でも、これは、わたしの――わたしの中だけの問題だから。優人さんは気にしないで」


 そう言われて放っておけるようならば、二ヶ月前に彼女との縁が切れていたはずだ。


 その時優人は、唯香が作った物理的な距離を、縮めたかったのかもしれない。

 知らず彼の手が上がり、彼女の頬に伸びる。だが、その指先が届いた瞬間、彼女はビクリと肩を震わせた。その反応に我に返り、優人はパッと手を下げる。


「すみません」

 目を見開いて固まっている唯香に掠れる声でかろうじてそう言って、優人は手を握り込む。指先に残る彼女の温もりが、皮膚を焦がすようだった。

「ですが、水族館に行った後からですよね。あの日は楽しんでもらえたと思っていましたが、本当は、そうではなかったのですか? 僕が、何か不快にさせるようなことでもしましたか?」

 低い声で優人が吐き出したその台詞に、弾かれたように、唯香の顔が上がった。


「違うよ! あの日は楽しかった! すごく、すごく――……」

 その先は言葉にならず、唯香は苦しそうに顔を歪ませる。

 半ばで途切れた彼女の声にも顔にも、偽りはないと思われた。

 優人をごまかそうとする色はない。その色の代わりに、見え隠れしているものは。


(罪悪感、か?)


 その言葉に行き当たった時、酔った時の唯香の言葉がゆらゆらと浮かび上がるように優人の脳裏によみがえった。


『何かをしてる拍子に、申し訳なくなるの』

 酔っていたからこそ零れ落ちた、彼女の心の奥に潜んだ思い。

 そこから導き出される答えは――


(楽しんだことが、許せないのか)


 だが、どうして。

 優人は唯香のことを楽しませたかった。ただ、それだけだった。

 なのに、それが彼女を苦しませるのか。


 握り締めた手のひらに爪が食い込むのが感じられる。その痛みが、暴走しそうになる感情の手綱を取ってくれていた。


 肩を強張らせている優人の前で、唇を噛んでいた唯香が半歩後ずさる。それが引き金になったように、血が滲みそうなほどに噛み締めていた唇を解いて、彼女が囁いた。

「わたしのことは、気にしないで。放っておいてくれて、いいんです」

 その台詞に、優人は奥歯を食いしばる。

 そんなの、無理だ。放ってなど、おけるわけがない。


「僕は、あなたに関わりたい。僕はあなたの笑顔を見たいんだ」

 反射的にそう口走ると、怯んだように唯香が顎を引いた。


 だが、発した言葉を、なかったことにはできない。声に出して言ってしまえば、自分の気持ちが一層はっきりと見えてくる。


 そう、優人は唯香に笑って欲しかった。彼女の笑顔が見たかった。本心を隠す鎧としてのものではなく、楽しいと、嬉しいと感じたことで心の底から溢れる、ものを。


 今なら判る。


 どうして、初めて唯香に逢った時、彼女の笑顔であんなに心が揺れたのか。

 どうして、同じ笑顔のはずなのに、時に違和感を覚えることがあったのか。


 自然なものと、作ったもの。

 その違いを、優人は感じ取っていたのだ。


 彼はうつむいたままの唯香を見つめた。何か答えてくれることを、待ち望んだ。


 静寂。

 そして。


「ごめんなさい」


 優人が欲しかったものではない一言を投げ付けて、身を翻した彼女は優人に一瞥もくれることなく走り去った。


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