これのことか
取り敢えず優人は、改めて、唯香を観察することから始めた。
今までも何となくは唯香のことを目で追っていたが、もう少し視野を広げ、彼女だけでなくその周りの様子も眺めることにしたのだ。
そうして、気付いたことがいくつかある。
唯香には、友人がいない――それが、その一つだ。
もちろん、当たりが良い彼女の周りには人が集まる。必ず誰かがいると言ってもいい。だが、特定の人物は、いない。
たいてい、人は二、ないし三人の定まったメンバーで動く。それが友人であったり、恋人であったりするのだろう。名称は何であれ、とにかく、特に親しくする何者かがいる。
だが、唯香にはそれがいないのだ。
人は入れ代わり立ち代わり、何かというと唯香の傍に寄ってくるが、それは個人的、感情的な関りではなく何らかの意図があってのことだ。
優人ですら利害関係がなくても付き合っている者が数人はいるというのに、少なくともこの数ヶ月間で見る限り、唯香にはそういう存在がいなかった。
二つ目。
気付いた二つ目の事柄は、唯香は他人に使わ『れ』ているのではない、他人に自分を使わ『せ』ているということだ。そのたった一文字の違いには、大海を隔てるほどの差があった。
さして唯香と親しくもない者が、毎日誰かしら彼女に仕事を押し付けていく。そんな光景に、優人は何度苛立ちを覚えたことか。しかも唯香が「してやっている」感を全く出さないから、相手も当然のこととして享受しており、彼にはそれが一層腹立たしい。
優人が目にするのはボランティア部内でのことだけだが、きっと、授業などの時でもそうなのだろう。
一度どうにも腹に据えかねて、いつものように唯香に用を投げにやってきた輩に優人が暗にプレッシャーをかけて追い返したことがあった――気付いた彼女には、叱られたが。
そして、最後にもう一つ。
唯香の笑顔は、感情を反映していない。
もちろん、皆に振りまく屈託のない笑顔が偽りのものだとは優人も思ってはいない。だが、彼女自身が楽しんで、その感情の発露として笑っている、ということはおそらく数えるほどしかないだろう。優人が彼女の笑顔を見ていて時々モヤモヤするのは、その為なのだと思う。
ましてや、そんな作った笑いを他の者と同様に投げかけられると、彼が抱くのは嬉しさではなく苛立ちばかりだった。
そんな諸々に気付いた優人は、唯香を『外』に連れ出すことにした。彼女を利用しようとする者がいない、彼女が自分を取り繕う必要もない、『外』へ。
休日にどこかに行こうと言った優人に、唯香は当然すぐに頷いてはくれなかった。土日も病院に行くから、と。
それは充分予測していた返答で、優人はここぞとばかりに彼女が酔い潰れて寝てしまったときのことを持ち出した。
「埋め合わせをしたいと、言っていましたよね?」
そう切り出した優人に、唯香はウッと言葉に詰まる。
「言いました、けど……」
彼女は顎を引き、上目遣いで彼を睨み付けてくる。迫力は、皆無だ。
「ホントに、わたし、酔ってあんなことになるなんて、ないんですからね」
それは、遠回しな了承と受け取って良いのだろうか。
「僕の前でなら、どんなふうになっても構いませんが。じゃあ、土曜日の昼十二時から夕の六時まで、時間をいただいていいですね?」
数十分の寝落ちの代償としては釣り合いが取れていないが、唯香がそこに突っ込んでくるわけがない。それを見越して、優人はシレッと提案した。
自分の落ち度に付け込まれて唯香が拒否できるはずもなく。
無事、優人は望みの約束を取り付けたのだ。
唯香が誰かに用を言いつけられることがなく、彼女自身が楽しいと思って笑ってくれる――そんな状況を作るべく優人が選んだ場所は水族館だ。動物園やテーマパークほど騒がしくないだろうし、それなりにイベントはあるし、昔蛍を連れて三兄弟で足を運んだ時は、彼女に好評だった。多少年齢の違いはあるが、悪くない選択のはずだ。
午前中は唯香のボランティアに付き合い、軽く昼食を摂ってから、電車で五駅分離れたところにある水族館へと向かう。
「結構人がいますね」
水族館のエントランスに立った優人は、サッと唯香の肩に手を回し、前も見ずに駆けてきた子どもから避けさせつつ、言った。
そこそこの人気スポットではあるこの水族館は、休日ということもあって、家族連れ、友人グループ、恐らく恋人同士――そんな様々な組み合わせの人々でにぎわっている。
もう少し空いている方が良かったが、と思ったが、仕方がない。それに、あまりしんと静まり返っているよりも、このくらいの騒がしさはあった方が唯香もリラックスできるかもしれない。
ただ、この人の多さでは、うっかり水槽に気を取られているとはぐれてしまいそうだと、優人は周囲を見回した。
そうならないようにするには――
「手を」
優人は唯香の方に回していた手を、そのまま彼女に差し出した。唯香はポカンとそれを見つめている。
「手……?」
「つないでいたら、はぐれないでしょう?」
自明の理と言わんばかりに優人がそう返すと、唯香はそれからたっぷり三秒は彼の手を見つめてから、そろそろとそこに彼女の指先をのせてきた。優人は、うっかり力を入れたら潰してしまいそうなほど華奢で柔らかなそれを手の中に包み込む。
彼は、結ばれた手をまじまじと見つめた。
手をつなぐなど子どもがするようなことのはずだが、なんというか、妙に、しっくりくる。
ふと唯香の顔に視線を移すと、やはり子どもっぽいと思っているのか、彼女の顔は紅く染まっていた。それを見ていると、何故か、優人の頬が勝手に緩んでくる。
「……じゃあ、行きましょうか。二時からペンギンの行進、三時からイルカショーがあるようですから」
小さな咳払いと共にそう言って、優人は彼女の手を引き歩き出した。
ここは開館してから三十年は経っているはずだが、途中で改装されたこともあって、結構見ごたえがある。大小の水槽を回るうち、微妙に緊張が伝わってきていた唯香の手から、力が抜けてきた。
「すごいですねぇ」
この水族館の目玉の一つである水中トンネルに足を踏み入れ、ガラス張りの天井を見上げた唯香が声を上げる。
「そうですね」
水中を舞うように泳ぐ魚ではなく、目と口を丸くしている唯香を見ながら優人は答えたのだが、彼女は気づいていない。
子どものような顔でグルグルと首を巡らせている唯香は、まるで初めてここに来たかのようだ。その様は、実に微笑ましい。こんな彼女を見られるなら、多少周囲がうるさく煩わしくても、また来たいと思う。
しかし、そう思う一方で優人の中には疑問も湧いた。この水族館はこの辺りではそこそこネームバリューのある娯楽施設で、たいてい、子どもの頃に一度や二度は連れてこられている。舘家でも優人が就学前だった頃は両親と一緒に、聖人が高校生になってからは子どもたちだけで、何度か訪れた。
だから、唯香の感心ぶりは、少々大げさに見える。
「子どもの頃、来たことがありませんか?」
優人が何気なくそう尋ねた時、一瞬、彼女の動きが止まった。が、すぐに彼に笑顔を向け、答える。
「うちは両親とも忙しくて」
「……そうですか」
頷きは返したものの、優人は彼女のその笑みを『偽物』だと思った。
(つまりこの話題は触れて欲しくないものだということか)
更に突っ込んで訊きたくなるのを抑え、彼は唯香から目を逸らす。
「そろそろ、ペンギンの行進が始まります。行きますか?」
「あ、はい」
浮かぶ笑みが自然なものになったのは、多分、話が変わったことに安堵したためなのだろう。
こんな反応は、前に彼女が妹のことを口走った時にも見られたことだ。
優人は唯香を理解するための情報の一つとしてそれを頭の中のスペースに留め、ペンギンが歩くという通路を目指す。
よたよたと不器用に歩くペンギンの列を見送って、飲食コーナーで一息入れてから、二人はイルカショーが開かれるプールへと足を運んだ。
入り口で係員から渡されたビニール製の雨合羽に、唯香が首をかしげる。
「雨なんて降ってないのに」
優人はパンフレットに目を走らせてから、それを彼女にも見せた。
「水しぶきを避けるためみたいですよ」
「でも、客席はプールから結構離れてますけど?」
「どのくらい濡れるか、着ずにいて試してみますか?」
「……やめときます」
おとなしく合羽に腕を通す唯香に、優人は小さく笑った。そして自分も身に着ける。
少し早めについたから、席はたっぷり空いていて選び放題だ。せっかく合羽も着たことだしと、二人は最前列に陣取る。
アシカがいくつか芸を見せた後、プールの中にどこからともなく三頭のイルカが現れた。イルカたちは、まるでシンクロナイズドスイミングのように音楽に合わせて水中を、そして空中を舞う。その様に、優人の隣で唯香は歓声をあげっ放しだ。
(これは、楽しんでいるよな?)
頬を上気させた唯香の横顔を盗み見て、優人は内心で拳を握る。
今、彼女の顔にある満面の笑みは、いつもの笑顔と明らかに違っていた。まさにそれは、見ているだけで楽しくなれる、笑顔だ。
自分がそんなふうに感じていることに気付いて、ああそうか、と、優人は思った。
(兄さんたちは、これのことを言っていたのか)
ただの『笑っている顔』じゃない。
彼女が喜び、楽しんでいるときに浮かぶ、笑顔。
兄たちは、想う相手のそんな顔を見たいと切望し、見られた時には彼ら自身が幸せになる――今の優人のように。確かに、これの為なら何でもしてやろうという気になるかもしれない。
と、優人の凝視を感じ取ったのか、唯香がクルリと彼の方を向いた。
「何ですか?」
バチリと視線が合って、彼は咄嗟に言い訳を思い浮かべることができなかった。
「いや……」
優人が口ごもったところで、まるでそれを救うかのように、周囲からひと際大きな歓声が上がる。何事かと思った瞬間、派手な水音と共に飛沫が降りかかってきた。
「何だ!?」
「キャッ」
合羽を着ていたから助かったものの、そうでなければバケツで叩き付けられたようにずぶ濡れになっていたに違いない。どうやら、フィナーレでこれまで以上に高く跳んだイルカが、思い切り水を跳ね上げたらしい。
「唯香、さん?」
呆然としている唯香に呼びかけると、彼女はゆるゆると優人の方を向き、目をしばたたかせ、次の瞬間弾けるように笑い出した。
「びっ……くりした!」
笑いで息を切らしながらそう言った彼女は、どうしようもなく――そう、どうしようもなく、可愛い。
目にしたものに意識の全てを奪われ、呼吸すら、優人は忘れていた。
「え、と、優人さん?」
瞬き一つできずに見つめていると、唯香の笑みが小さくなり、そして、気まずそうに目を逸らされてしまう。もっと見ていたかったが、望み過ぎてはいけないのだろう。
消えてしまった笑みを惜しみながらも、取り敢えず目的は果たせたのではないかと、優人は今回の計画に一定の評価を下す。
「そろそろ帰りましょうか」
「……はい」
うつむきがちに頷いた唯香の頬は、紅い。
そうなった時の彼女の顔は優人に奇妙な影響を及ぼすようで、彼は無性にそこに触れたくなる。
そんな自分に戸惑いながら、それを押し隠して立ち上がり、唯香に手を差し伸べた。
「行きましょう」
唯香は束の間彼の手のひらを見つめ、そしてそこに自分の手を重ねる。優人は小さなその手をまたしっかりと握り締め、彼女をそっと引き上げた。




