彼女の、好きな人
「蛍ちゃん、ホント、料理上手だよねぇ」
小振りのちゃぶ台いっぱいに並んだ料理を片っ端からパクつきながら、翔がしみじみとした口調でそう言った。ここは聖人のアパートで、その場にいるのは彼と翔、そして蛍の三人だ。
聖人が家を出てから早一年、蛍は時々こうやって食事を作りにやってくる。確かにそれは嬉しいが、嬉しいだけではいられないのが実情だ。狭いワンルームで彼女と二人きりになるのを回避するために、聖人は毎回翔を呼び出していたのだが。
蛍は嬉しそうに頬を染め、翔に笑顔を返す。
「ありがとうございます。おばさんに――お兄ちゃんのお母さんに教えてもらったんです」
「へぇ」
翔は相槌を打つ暇も惜しむように箸を伸ばしている。
(別に、そんな奴に愛想笑いなんぞ返す必要ないっての)
二人の遣り取りを横目で睨みつつ、聖人は内心でそんなぼやきを漏らした。
ある意味、聖人の方から頼んで翔に来てもらっているわけではあるが、調子の良い彼と楽しげにしている蛍を見ていると、面白くない。実に、面白くない。
むっつりと口をつぐんで、聖人は蛍の手による肉料理を突いた。
確かに、美味い。
何という名前かは知らないが、母の奈美もこれと同じようなものをよく作っていた。あの味に、近い。
レシピでも残されているのか、蛍の作る料理はどれも奈美のものに似ている。初めのうちは簡単なものしかできなかったり、失敗続きだったりしたけれど、今の蛍は母に引けを取らない腕前だ。
「そういや、蛍ちゃん、この間十五歳になったんだっけ? もうちょっとでお嫁に行けるじゃん。あ、そだ、オレと結婚する? ほら、まだ学生やってるこいつと違って、オレ、もう社会人だから。いつでもオッケーだよ?」
どさくさ紛れにテーブル越しに手を伸ばし、翔は蛍の手を握った。寸分たりとも間を置かず、聖人は彼の後ろ頭を平手でしばく。
「ってぇな! 口で言えよ、口で!」
目を剥いた翔を無視し、蛍に顔を向けた。
「こいつの口は下半身に直結してるからな? 調子のイイこと言われても本気にするなよ? いいか? こいつは俺と同じ年、お前からすればもうオッサンの域だからな? お前みたいな子ども、本気で相手にしたら立派な犯罪なんだからな?」
くどいほどの聖人の念押しに彼女は幾度か目をしばたたかせ、そしてふわりと笑う。
「やだなぁ、判ってるよ」
その笑みはどことなく翳を感じさせて、聖人は眉をひそめた。
(蛍?)
どうしてそんな顔になるのか、何がそんな顔をさせるのか――問おうとしたところで、翔の邪魔が入る。
「ったく、蚤並みの心の狭さだよな」
ブツブツとつぶやいていたかと思ったら、翔は一瞬聖人に目を走らせてから蛍に向けて二カッと笑った。
「でもさ、蛍ちゃんって可愛いし、実際モテるんじゃない? なんか休みのたんびにこいつの世話しに来てるけど、マジで彼氏とかいないの?」
思わず、聖人は箸を止めた。全身を耳にして蛍の返事を待ってしまう。
確かに蛍は、数時間とは言え日曜はほぼ毎週のようにここに来ている。付き合っている相手がいれば、そんな暇はないはずだが。
(いや、ここにいる時間以外に、会っているとか?)
そう思った瞬間、聖人の口の中がやけに苦くなった。
実家にいる時は蛍もまだ十四歳だったから、そんな気配は微塵もなかった。だが、彼女ももう十五歳――この春から高校になって、もうじき夏休みになろうとしている。そろそろ浮ついた野郎どもが行動を開始する頃合いだろう。
(だが、だからといって、何ができるっていうんだ?)
聖人は肉の塊を口に突っ込み、やけくそ気味に噛み締める。
蛍にとって『兄のような』聖人だが、実際に家族ではない彼に、彼女の交友関係に口出しする権利はない。
権利はない、が。
「ねぇ、どうなの? 彼氏はともかく、好きな男の一人や二人くらい、できたんじゃない?」
目を丸くしている蛍に、翔が更に追い込みをかけた。
答えを、聞きたい。いや、聞きたくない。
聖人が横目で窺う中、蛍は一度瞬きをし、そしてわずかに目を伏せた。淡く微笑み、答える。
「好きな人は、いますけど……一方通行ですから」
(マジか?)
聖人の思考はものの見事に停止した。思考も動きもピタリと止まって、固まる。
基本、蛍は小さなころから聖人に何でも話してくれていた。
その日できたこと、できなかったこと、嬉しかったこと、悲しかったこと。
うるさくまとわりつくことはなかったが、聖人の方から話しかければ嬉しそうに顔を輝かせ、はにかみながら答えてくれた。
そんな蛍だったのだから、好きな男ができたなら、真っ先に打ち明けてきそうなものだが。
(いや、俺が訊かなかったからか? 訊けば、教えてくれたのか?)
そんな彼をよそに、会話は続く。
「へぇ? どんな奴?」
「――ないしょ、です」
「えぇ? ちょっとくらいイイじゃん」
「えっと、やさしい人、ですよ」
「また無難な返事だなぁ」
「でもホントのことですから」
今度は目を上げ、蛍はニコリと笑った。そこはかとなく、それ以上はツッコむなというオーラを感じる。
「あ、空いたお皿、片付けちゃいますね」
彼女は小首をかしげ、それまでの遣り取りなどなかったような顔になった。そうして、立ち上がると皿を持って洗い場の前に立つ。
いつも通りに手際よく食器を洗い上げていく様を見ていると、ついさっきの会話などただの世間話に過ぎなかったかのようだ。
だが、聖人にとっては、世間話とは程遠い。
(知りたい)
蛍の背中を見つめながら、聖人は、心の底から思った。
蛍が好きになった男が、どんな奴なのか。
彼女を大事にしてくれるやつなのか、幸せにしてくれるやつなのか――蛍を任せられるやつなのか。
(いや、違うな)
そんなキレイごとじゃない。
単に、知りたいだけだ。知って――潰してやりたいのだ。
自覚して、聖人は奥歯を噛み締める。
(自分のものにはできないからといって、他の男にも渡さないつもりか、俺は?)
己の狭量さを嫌悪しながらも、彼女を誰かに委ねる寛容さを見せることもできそうにない。
「うわぁ、怖い顔」
ボソリと、隣から呟き声が聞こえた。そちらを睨み付けると、頬杖を突いた翔が呆れたような眼差しを投げてくる。
「うるさいな」
「ったく、どこが『お兄ちゃん』だよ。もっとうまくやらないとバレちゃうぜ?」
「黙れ」
一言で翔の反論を封じ、聖人は立ち上がった。
「蛍、そろそろ帰る時間だろ? 皿はいいよ。送ってくから支度しろよ」
蛍がキョトンと彼を見上げてくる。
「え、でも、わたし自転車だし」
「いいから。翔、鍵はポストん中落としとけよ」
「はいはい。蛍ちゃん、またね」
ヒラヒラと手を振る翔にペコリと頭を下げた蛍を、ほとんど引っ立てるようにして家から連れ出した。
聖人は蛍の自転車のサドルの高さを調節し、またがる。
「乗れよ」
「え……」
「歩いたら一時間以上かかるだろ」
「だから、送らなくていいのに。いつも一人で帰ってるんだから大丈夫だよ。それに、二人乗りはいけないんだよ?」
「いいから、ほら」
促すと、それでもまだためらいを見せながら蛍は後ろの荷台に腰を下ろす。
小さな両手が聖人のわき腹の辺りに触れたかと思うと、それがするりと前に回ってきた。
それは、仔猫か何かがしがみ付いてくるような感触だった。背中が、やけに熱い。
「……行くぞ」
振り返りもせずにそう声をかけると、背中の真ん中あたりに触れている彼女の頭がコクリと上下するのが伝わってきた。
フッと息をつき、聖人はペダルを踏む。
「……重くない?」
走り出してしばらくした頃、背中からそんな声がした。
「重いわけないだろ。乗せてるの忘れそうだからしっかり掴まっとけよ」
思ったままに言った台詞に、何故か蛍がクスリと笑う。次いで、わずかに彼女の腕に力がこもった。
また、しばし沈黙。
そして。
「ねぇ、お兄ちゃん?」
「何だ?」
声をかけてきたのは蛍の方だというのに、すぐには反応がなかった。返事が聞こえなかったのかと聖人がもう一度促そうとしたとき、彼女の声が。
「……わたしが好きな人の話、聞きたい?」
グッと、聖人は返事に詰まる。
聴きたい、とは、答えられなかった。
背中にしがみつかせたままつらつらとその男の良さを挙げられたら、自転車を放り投げたくなるに違いない。
「別に、いい」
心中を暴露しないよう端的に答えると、聖人の腹の辺りに置かれた蛍の手がわずかに力を増した。
「……そっか」
つぶやき声に、元気がない。
「蛍?」
聖人は思わず自転車を停めて肩越しに振り返ったが、蛍の顔は彼の背中に押し付けられていて、どんな表情を浮かべているのか見て取ることができなかった。
(もしかして、ろくでもない奴なのか?)
妙な彼女の態度に実はその男について相談でもしたかったのかもしれないと思い至ったが、たった今、聴きたくないと言ってしまったばかりだ。
「蛍、その……」
「お家帰るの、遅くなるよ」
蛍の台詞は問いかけようとした聖人を遮るようなタイミングで、彼は出鼻をくじかれる。
「ああ」
憮然と答え、またペダルをこぎ出した。
風を切って走りながら、聖人は蛍の態度をモヤモヤと思い返していた。
(こいつの好きな男ってのは、どんな奴なんだ?)
優しい振りをした浮気者か?
それとも、優しい振りをした軟弱男?
あるいは、優しい振りをしたDV野郎とか……?
最後の可能性には、ゾッとした。
(クソ)
さっき、素直に聴きたいと答えておけば良かったと心底から悔やんだが、もう遅い。
無意識のうちに脚に力がこもり、おのずと自転車の速度が上がる。
「お兄ちゃん、スピード出し過ぎ。危ないよ」
気付けば、聖人の腹を掴んでいる蛍の手に、力がこもっていた。
「悪い」
謝り足の力を抜いて速度を落とすと、蛍が安堵の吐息を漏らしたのか、背中が一瞬温かくなる。
(こいつを、守ってやらないと)
聖人は決意を新たにする。
仮に誰か他の男に渡さなければならないとしたら、その男は完璧な奴でなければいけないのだ。
舘家への道を走りながら、聖人は、賢人と優人のどちらに探りを入れさせようかと頭を巡らせた。