明るい月の裏側は、暗い
手にした箸の先で皿に残った魚の骨を突きながら、ポツリと唯香が呟く。
「それは、ダメなんです」
優人は唯香の顔を見つめ続けていたが、彼女は視線を伏せたままだ。見せようとしてくれないその眼の中にどんな色が浮かんでいるのかとジリジリしながら、彼は彼女の言葉を繰り返す。
「駄目?」
「そう、ダメなの」
妙な返事だった。普通は、必要ないとか興味がないとか、そういう答えになるのではないのだろうか。『駄目』という言葉は、誰かに禁じられているときに用いられるものだ。
(だが、いったい、誰が許さないというんだ?)
優人は内心で深々と眉間にしわを刻む。彼女が声を発するごとに、疑問ばかりが増えていく。
酔っているから、支離滅裂なことを言っているのだろうか。
そう思った優人の前で、唯香が訥々と続ける。
「わたしは、ダメなんです。わたしには、その権利がないんです」
やはり、優人には彼女が言っていることが理解できない。彼は顔をしかめて唇を引き結んだ。
「人が楽しんだり好きなことをしたりすることに、権利も何もないと思いますが?」
そんなことは至極当然、自明の理のはずだというのに、唯香は頑迷にかぶりを振る。
「あります。あるんです。わたしは、ダメなんです」
彼女は、また、その言葉を吐いた。その言葉だけを。
どう導いたら、その『駄目』の理由を引き出すことができるのか。こんな訳が解からないことを言われて、そのままなかったことになどとうていできやしない。
(こうなったら、何としてでも、訊き出してやる)
優人の決意はますます固くなったが、とは言え、それを果たすにはいったいどうしたらいいのやら。兄たちや岩崎だったら、うまくやれるのだろうが、元より会話のキャッチボールというものがうまくない彼には、さっぱり見当もつかない。
難儀する優人の前で、不意に、唯香の身体が揺れた。は、と顔を上げると、彼女は眠そうに目をしばたたかせている。
眠りに落ちてしまうのか、と思ったら、唯香はまたグラスを口に運び、半分ほど残っているリンゴ酒を一口二口飲み下した。
そして、舌足らずな口調で言う。
「何だか世界には、わたしよりももっと生きる価値がある人がいるような気がするの。もっと必要とされて、もっと愛されて、もっと幸せにならなきゃいけないような、人が」
それは、優人に聴かせるというよりも、自分自身に押し付けようとしているような呟きだった。だが、一体全体、どこからどうしてそんな台詞が出てくるのか。唯香のことを知ろうと思って質問したのに、彼女から出てくるもの全てが、彼には理解不能だ。
混乱する優人の耳に、また、声が。
「何かをしてる拍子に、ふと、申し訳なくなるの」
唯香を見ると彼女は笑っていたが、その顔はまったく楽しそうでも幸せそうでもなく、寂しさと孤独だけが伝わってきた。
唯香の台詞は一文字たりとも受容も理解できない。
だが、その顔を目にした瞬間、優人の中に間欠泉のように強い想いが噴き出した。
――彼女を引き寄せ、腕の中に閉じ込め、力の限りに包み込みたい。
心の底からそう切望し、ソレに背を押されるようにふらりと立ち上がりかけたところで、優人はハタと我に返る。
(僕は、今、何をしようとした?)
もちろん、この上なく不適切なこと、だ。
「ちょっと、失礼」
浮かせた腰のまま立ち上がった優人をぼんやりとした眼差しで見上げてきた唯香に短く残し、彼は部屋を出た。ほとんど逃げるようにして真っ直ぐトイレに向かい、個室にこもって鍵をかける。
そうして、扉に額を押し付けた。
(なんだ、今のは)
唯香の台詞も、それに続く我が身の行動も。
――理解不能の一言に尽きた。
『何かをしている拍子に、ふと、申し訳なくなるの』
唯香の最後の台詞が優人の頭の中でリピートする。
「何だ、それは」
申し訳ない。
何に?
彼女が生きていることに?
まさか。
だが、唯香がそう思っているというならば、彼女の利他さ加減に納得がいく。時折優人が抱く、彼女は自分をないがしろにしているというあの感覚に間違いはないということになる。
もしもそうなのだとしたら、いったい何があって、誰に何を言われて、そんなことを思うようになったというのか。
もしも、唯香に対して「生きる価値がない」などと言った輩がいるのならば。
――捜し出してぶちのめしてやりたい。
知らず、優人の肩には力がこもった。
今の彼の中に満ちているものは、多分、怒りだろう。
未だかつて覚えたことのない激しい感情がコントロールできなくて、優人は両手を固く握り締める。
唯香のことを追い詰め苦しめた者がいるならば、地上から抹殺することも辞さない気分だった。
いったいどれほどの時間、そうしていたのか。
不意に、外からドアをノックされ、優人はハタと我に返る。
「すみません、出ます」
優人は戸を開け、外で待つ客に頭を下げて、手を洗った。長々と冷たい水を手首にかけて、多少なりとも頭が冷えたところで唯香が待つ部屋へと戻る。
障子の前で一呼吸入れてから、それを開けた。
「すみません、中座して――藤崎さん!?」
彼の謝罪は、途中で止まった。何となれば、唯香が座卓に突っ伏していたからだ。慌てて彼女の隣にひざまずいて様子を確かめる。
唯香は卓の上に片手を上げて、その上に頭を乗せて顔を横に向けている。その頬は真っ赤だが、寝息はすぅすぅと穏やかだ。
「寝ている、のか……?」
ホッと安堵の息をこぼしたところで、戸口に店員が姿を現した。
「最後の甘い物は――あら?」
彼女は言いかけて、唯香の様子に気付いて首をかしげる。
「酔ってしまわれましたか?」
「はい。しばらく寝かせてあげても構いませんか?」
唯香の家の住所は知っているが、独り暮らしのはずだし、勝手に優人が上がり込むわけにはいくまい。ホテルというのもちょっとどうかと思うし、舘家は遠い。
優人の頼みに、店員は快く頷いてくれる。
「果実酒は口当たりがよいですが、結構アルコールは強いんですよね。大丈夫ですよ。次のお客様もおられませんし。一時間ほどであれば構いません」
「ありがとうございます」
「いいえ。では、お目覚めになってデザートをお食べになるようであれば、また呼んでください」
「はい」
優人が頭を下げると、店員はにこりと笑って去って行った。
「さて」
どうしよう。
彼は昏々と眠る唯香を見下ろし、思案する。
この格好のままでは、腕は痺れるだろうし、あちこち痛くもなるだろう。
そうなってしまう前に、もっと楽な姿勢を取らせてやりたい。
優人は華奢な背に手を添え、膝裏に腕を回して抱き上げる。小さく声を漏らしたから目を覚ましてくれるのかと思ったが、ダメだった。もっとも、彼も、酔っ払ったときに岩崎にバーから家に移されたことを覚えてもいないのだ。恐ろしいことに、その時に話したことも、記憶にない。きっと、唯香もさっき吐露した言葉のことを、忘れてしまうのだろう。
優人は壁際に行き、壁に背を預けて腰を下ろした。そのまま唯香を抱いていても良かったが――むしろ彼的にはそうしていたい気がしたが――彼女にとってはあまり快適ではないだろう。優人は足を伸ばし、その膝の上に唯香の頭を乗せ、彼のコートを身体に掛けてやる。
唯香にとってはだいぶ大きいそのコートでしっかりと包み込み、優人のことを悩ます言葉を吐いたことなどなかったことのようにすやすやと安眠を貪る寝顔を、ジッと見下ろした。あどけないその顔は、子どものようだ。見るからに柔らかそうな頬に触れてみたくて指が疼いたが、流石にそれはまずいだろうと自制する。
触れられない代わりとばかりに、ただ、眺める。
そうしていると、また、彼女の声が脳裏によみがえった。
『わたしは、ダメなんです』
『わたしよりももっと生きる価値がある人がいるような気がするの』
『何かをしてる拍子に、ふと、申し訳なくなるの』
とことん自己を否定する、その台詞。
素面では、絶対に聞かせてくれなかっただろう。
「僕は、一つもそれに賛同できない」
優人は奥歯を軋らせる。身体の脇に突いた両手を固く握り締め、呟いた。
唯香は、いつでも笑っている。だが、きっと、笑わせていてはいけないのだ。少なくとも、その笑いの後ろにあるものを見過ごしたままでは。彼女が見せる明るい部分の裏側にあるものを、知らなければいけないのだ。
「あなたは楽しむ権利がある。自分自身の為に生きる権利がある」
囁いて、頬にかかる柔らかな髪を指先でそっとよけた。
「僕にとっては、他の誰よりも価値がある人だ」
摘まんだ髪を、無意識のうちにもてあそぶ。
「僕は、笑顔以外のあなたを知りたい」
切実な思いを込めてそう呟いた時、唯香の目蓋が微かに震えた。優人が見守る中で、ゆっくりとそれが持ち上がる。
ぼんやりとした眼差しが束の間彷徨って、彼の目で止まった。
瞬きを、一つ、二つ。
「あれ……? 優人、さん?」
甘い声で舌足らずに呟き、次の瞬間、唯香は弾かれたように起き上がった。
「え、あ、うそ、すみません!?」
若干悲鳴じみた声を上げながら、乱れてもいない髪を、唯香はワタワタと手ぐしですいている。毛づくろいをするハムスターみたいで微笑ましいなと思いつつ、優人は問うた。
「デザートはどうします?」
「デ、ザート?」
目を丸くして繰り返した唯香に、彼は淡々と頷きを返す。
「そう、デザート。最後のメニューです。抹茶のアイスだとか」
優人がそんな態度でいるからか、彼女は拍子抜けしたようにパタリと両手を膝の上に落とした。そうして、頷く。
「食べ、ます」
優人は呼び鈴に手を伸ばして押しながら、ふと思いついたように唯香に顔を向けた。
「あの」
呼びかければ、彼女は少々困惑気味の眼差しで優人を見返してくる。
「あなたのことを、名前で呼んでもいいですか?」
「え?」
優人の申し出に、唯香はしばしばとまた瞬きをする。そんな彼女を真っ直ぐ見つめ、もう一度繰り返した。
「あなたのことを名前で呼びたいです。いいですか?」
「え、あ、えっと、――はい」
呆けた様子でコクリと頭を上下させた彼女のその様を評すのにふさわしい言葉は、きっと、『可愛い』で良いのだろう。
優人はそんなことを思いつつ、自ずと唇が綻ぶのに任せていた。




