アンバランスな想いの行方
心地良いとは言い難い軽トラックのエンジン音が、車内に響く。普段乗っている車とは違って、ブォンブォンとやけに騒々しい。
だが、その騒音も、翔の口を閉ざしたままにしておく役には立たなかったようだ。
バックミラーの中の蛍の姿が消えてから、さほど間を置かず。
「オレ、単にお前の女の子の好みはフワフワロングなだけかと思ってたよ」
「……」
「あの子、蛍ちゃんも、フワフワロング、だよなぁ」
「……」
「あのさぁ。鶏と卵、どっちが先なんだ?」
「……」
だんまりを決め込んでいる聖人に、しばしの沈黙を経て。
「お前って、ロリ――」
「違う」
反射的に、聖人はそう返していた。反応があったことに翔は一瞬ニヤリとして、また真顔になる。
「でもさぁ、実際のところ、あの子、いくつ? 十二? 十三?」
「……十四だ」
むっつりと答えた聖人は、それ以上何も言うなという意味を込めて、運転席の翔をじろりと睨み付ける。が、それは功を奏さない。
翔はこれ見よがしなため息をつく。
「蛍ちゃん、泣いてたじゃん。かわいそ。ホントは、家出る必要なんてないんだろ?」
「うるさい」
ぴしゃりと一言翔に向かって投げ付けた聖人だったが、その脳裏に浮かんでいるのは蛍の泣き顔だ。彼は硬く目を閉じ、それを消し去ろうとした。
だが、うまくいかない。
聖人だって、彼女のことを泣かせたくなどなかった。断じて、そんなことを望んではいなかった。
なのに、泣かせた。
震えていた細い肩を、濡れていた丸い頬を思い出すと、聖人は心臓を握り潰されたような気分になる。
蛍が泣くのを目の当たりにしたのは、家の玄関先でうずくまっていた彼女に声をかけた時以来だ。あれ以来、蛍はいつでも笑顔だった。彼女がその顔でいられるように、常に聖人は心を砕いていた。
――無邪気なその笑顔を向けられると微かな胸の疼きを覚えるようになったのはいつ頃からか。
(いつから、彼女のことをこんなふうに想うようになったのだろう)
妹のような存在から一人の少女へと変わってしまったのは、いつだったのか。
思い返してすぐに浮かんでくるのは、あの冬の日だ。
凍り付くような夜、誰も――父さえも、支えになってくれなかった、あの夜。
蛍だけが彼に温もりをくれた。
温もりをくれた彼女を、聖人は守りたいと思った。
あの時は、それだけだと思っていた。彼のことを救ってくれた幼く儚い少女に対して、単に、庇護欲を抱いただけなのだと。
だが、月日を重ねるほどに、聖人は、自分の心の奥底に潜むそれだけではない想いに気付いてしまう。妹のようなものだと自分をごまかそうとしても、ダメだった。
守りたい。
愛おしい。
慈しみたい。
――触れたい。
欲は次第に膨らみ、そして、利己的なものを含み始めた。そうなれば、なおさら触れられない――触れてはいけない存在になってくる。
さっきも翔に否定の答えを返したように、聖人は、別に年端も行かない少女が好きなわけではない。蛍と同じ年頃の少女を見て、普通に可愛いとは思っても、蛍に抱くような込み上げる衝動めいた気持ちは抱かない。
蛍だから、この心が動いてしまうのだ。
(せめて、もう少し――あと二年でも三年でもいいから、年の差が減ってくれればいいのに)
そうなれば、ためらいの気持ちのいくばくかは減らすことができるかもしれない。
――そんな実現不可能なことを、つい、考えてしまう。
「好きになる相手がちょうどいい年である確率ってのは、どれだけなんだろうな」
胸のうちの問いが、声になって口からこぼれた。
あるいは、誰かを好きになる時点で、無意識のうちに年齢やその他色々の都合を考えて選んでいるのだろうか。
蛍への想いをはっきりと自覚するまでは、聖人も何人かの女子と付き合った。
クラスの女子や、下級生。
自覚はせぬまま微かな不安めいたものを抱いていたせいもあってか、告白されたら即オーケーした。
付き合ってみれば、どの子とも、それなりに楽しんでいたと思う。
だが、彼女たちに対する気持ちと蛍に対する気持ちとは全く違っていた。だからこそ、余計に、自分の想いに気付くのに時間がかかってしまったのかもしれない。
彼女たちは『彼女』、つまり恋人で、恋愛対象なのだと。蛍に抱いているのは違う気持ちだから、これは恋愛感情ではないのだ、と。
そんなふうに思っていたから気付かぬうちに胸の奥で想いを育て続け、後戻りできないほどになってしまったのだ。
もっと早くに気付けていれば、自分の中でこじれる前に、気持ちを切り替えることができていたのかもしれない。
それでも、気付いてからも、悪足掻きのように女性と付き合った。
初めのうちは、他の女性に目を向けていれば、いずれ蛍への想いの方が変わっていくだろうと期待して。
やがてそれは不可能なことだと思い知り、女性との付き合いは身体だけの割り切ったものへとなっていった。
蛍が笑っていてくれるのならば、自分のこの気持ちは封印して彼女の傍にいようと聖人は思っていた。
だが、そんな決意も脆くも崩れ去る。まるで薄い衣を脱いでいくように日に日に蛍は幼い子どもとは言えなくなっていって、いよいよ傍にいることが難しくなってきたのだ。
彼女の信頼しきった屈託のない笑みや、無防備に向けられた背中。
そんなものに遭遇するたび危うく彼女へと伸びそうになる手を、もう何度握り締めたことか。
いっそ、望みを叶えてしまえと誘惑に負けそうになったこともある。
特にこの一年は、自制心をフル稼働させていた。
フル稼働させた末に限界を感じてのこの引っ越しだ。そして挙句に蛍の涙。
(何やってんだろうな、俺は)
思わずため息をこぼした時だった。
「別にいいんじゃないの? 確かに今の十四歳はさすがにアレだけど、年の差八歳ってのは、許容範囲内じゃね?」
能天気な翔の台詞に、聖人はむっつりと答える。
「俺は良くてもあいつは良くないんだよ。あいつにとって俺は『兄』なんだから」
「へえ?」
翔は相槌で先を促してきたが、聖人はそれを無視して窓の外に眼を向けた。
本当に。
年齢と、性別と、想いと。
そんなものが全てピタリと噛み合う相手に巡り合える確率は、いったいどれほどのものなのだろう。
聖人のように、想った相手と年が離れ過ぎていたり、想いの形が違っていたりしたときは、他の者はどう対処しているのだろう。
そう、聖人と蛍とでは、年齢よりも何よりも、『想い』が違う。
それは、蛍が彼を呼ぶときにはっきりと表れていた。
彼女は、舘家の兄弟のうち、末弟は『優人くん』、次男は『賢人くん』、そして聖人のことは『お兄ちゃん』と呼ぶ。彼のことだけ――聖人のことだけ、『お兄ちゃん』だ。
つまり、蛍にとって、聖人は兄以外の何ものでもないということで。
年の差だけならまだしも、自分のことをそんなふうに思っている相手に、逃げる以外にどうすればいいというのか。
思わずまた溜息をこぼした聖人に、翔はもう声をかけてくることはなかった。