雛姫の決意
賢人はひとまず自転車をしまい、鞄を玄関の中に放り込んでから雛姫たちに向き合った。
「えっと、で、話って? あ……ここじゃあれか」
家に上がってもらってもいいが、雛姫は気詰まりだろう。どうしようかと少し考え、思いつく。
「近くに公園があるから、そこに行こう。ついてきて」
彼女たちを促して賢人は歩き出した。少し遅れて、何も言わずに続く二人の足音が聞こえてくる。
公園は、入り口に立ったら端まで見渡せてしまえそうな、小さなものだった。置いてあるのも、賢人の背丈とどっこいどっこいのジャングルジムにブランコ、滑り台――そのくらいだ。空が紅く染まったこの時間、子どもの姿はない。
賢人はひとまず雛姫たちをベンチまで連れて行き、柵を乗り越えてその外側にある自販機でジュースを仕入れて戻ってくる。
「で、ホント、どうしたの?」
並んでベンチに座っている雛姫たちの前の地面に腰を下ろして、賢人は二人を見上げた。雛姫と春日は顔を見合わせ、次いで、春日だけが立ち上がる。
「わたし、あっちにいるから」
「え?」
「雛姫ちゃんが話したいことは、もう知ってるの。あ、ジュースありがと」
そう言うと、春日は賢人には有無を言わせず走っていってしまった。呆気に取られた賢人が見送る中で彼女はブランコに陣取り、それを揺らしながらジュースを飲み始める。
「えっと……ホントに一人でいいの?」
雛姫に目を戻して確認すると、彼女は頷いた。賢人は少し迷ってから雛姫の隣に尻を移す。
拳二つ分の隙間を開けて座った彼に、ほんの一瞬、雛姫の肩が緊張した。けれど、すぐにそれが緩んだのが判る。
その距離は、触れてはいないけれども体温は伝わってくる距離だ。
ほんの数ヶ月前までは、雛姫は、彼がこれほど近くに寄ろうものならガチガチに身体を固くしていた。けれど、いつの間にか、それがなくなっていた。
一日一日の変化は目に付きにくくても、確かに雛姫と賢人との距離は、変わってきているのだ。
他の男がこんなことを言っていれば、賢人は笑ってしまうだろう。そんな些細なもので満足するなんて、と。
だが、賢人は、その些細な変化がこの上なく嬉しい。嬉しくてたまらない。
二人きりで話したいと言ったのは雛姫だったが、彼女は、なかなかその口を開こうとしなかった。とはいえ、賢人は彼女といられれば満足なので、急かす気はない。
(ていうか、死ぬまでこうしててもいいかも)
そんなバカなことすら考えてしまうくらいだ。
視線だけを隣に流せば、そこに雛姫の横顔がある。
やっぱり、とても可愛いと思った。
大きな目。
小作りだけれども形の良い鼻。
小ぶりでふっくらした唇。
柔らかく丸みを帯びた頬。
それらが絶妙なバランスをとっている、可愛い、顔だ。
けれどそれは雛姫を構成するもののうちの一つに過ぎない。
誰も気づいていない小さな声に気づいて、助けたいと思うけれどもそれができない自分に泣けてしまうところが可愛い。
傷に呑まれて人の全てが怖くなって、誰にも近づけなくなってしまうような弱さが可愛い。
けれど、そうやって人と距離を置こうとしているのに、誰かが困っていれば考えるより先に身体が動いてしまうようなところが可愛い。
つまり、雛姫の何もかもが可愛いのだ。
直感から始まった気持ちが、雛姫の傍にいればいるほどドンドン塗り固められていって、今では何をもってしても崩れない山のようになっている。
(これ、きっと一生微動だにしないんだろうな)
雛姫を好きになった時の直感以上に、賢人にはその予感は間違いないという確信があった。
ふと見ると雛姫の手の中にある缶ジュースはまだ蓋が開いていなくて、賢人はそれを取り、プルタブを引いて渡す。
「ありがとう」
雛姫はジュースを受け取ると、さっきまでと同じように両手でそれを包み込み、ひと口含んだ。それから、ほ、と小さく息をつく。
それが呼び水になったのか。
「あのね」
うつむいたままで一言口にしてから、雛姫はふと何かに気づいたように顔を上げ、身体ごと賢人に向き直った。彼はと言えばずっと彼女を見ていたから、真正面から視線が絡む。
雛姫は軽く目蓋を伏せて一度深呼吸をしてから、また賢人を見つめた。
「私、美紗に会いに行こうと思うの」
「そっか」
賢人は何の戸惑いも疑問もなくうなずいた。なんとなく、彼女がそう言うような気がしていたから、その一言はするりと口から出ていた。
雛姫は手元のジュースに目を落とす。
「あのね。お見舞いに来てくれた時、舘くんが『美紗と話をしたのか』って、私に訊いたでしょう?」
それは問いかけの形をとりながら、賢人の答えを求めているようには聞こえなかった。彼の予想通り、返事をきかないまま、彼女が続ける。
「私、美紗と話をしなかった。ただ、美紗が泣いたことが怖くて、私が泣かせてしまったことが苦しくて、そこから逃げたの。三年間、逃げっ放しだったの」
そこで彼女は口をつぐむ。
賢人は両腕を脚の間に垂らして身体の力を抜き、雛姫がまた話し出すのを待った。群青色に染まりつつある東の空に目を向けて、もうじき日が暮れるな、と思いながら。
ふと隣で雛姫が動く気配がして、賢人がそちらを見ると、彼女も上げた顔を彼の方に向けたところだった。
「私は逃げて、小春ちゃんやお兄ちゃんが守ってくれることに甘えているだけだった。自分だけが安全な中に閉じこもって、美紗のこと、考えていなかったの。美紗が私のこと怒っているなら、ちゃんとそれを受け止めなければいけなかったのに」
少し、声が震えた。
けれど雛姫は一度奥歯を噛み締め、それをこらえる。
「この間、駅前で美紗と会って、あの時のことを……気持ちを、全部思い出したの。すごくつらかった。つらくて――また、逃げたの。逃げて、美紗のことなんて、考えようとしなかった。また、全部薄れてしまうまで、閉じこもろうとしていたの」
元から華奢なのにいっそう小さくなった肩を、賢人は抱き締めたくてたまらない。けれど、彼はそうしなかった。今はそうするべきではない、雛姫もそれを望んでいないと、判っていたから。
彼は膝の上で両手を握り込んで、不規則な雛姫の息遣いに耳を澄ませる。
長く待つことはなかった。
雛姫が真っ直ぐに賢人の目を覗き込んで、一度、瞬きをする。
「お見舞いに来てくれた時、舘くんに言われて、考えようとして美紗のことを考えたの。それまでは、考えたくなくても考えてしまってたけど、そうじゃなくて、ちゃんと美紗のことを考えようと思って、考えた」
缶を持つ雛姫の手に力がこもって、指先が白くなる。
「そしたら、美紗の言葉を全然聞こうとしなかったことに、気がついたの。私は自分が辛くて逃げて、同時に、私が傷つけた美紗からも、逃げたんだって……」
賢人は否定の言葉を吐き出しそうになって、息を詰めた。
それは、雛姫が負うものではない。
百歩譲ってちゃんとその時話し合っていればよかったのにとは思うけれども、雛姫が木下美紗を傷つけたというのは、違う。彼女が金谷浩史に傷つけられるのは、最初から決まっていたことだったのだから。
けれど、賢人がそれを伝えたところで、やっぱり雛姫は自分のせいだと思うのだろう。
(やっぱ、千発殴ってやったら良かったな)
こんなにつらそうな雛姫を見せられることになると知っていれば、奴のことをタコ殴りにしていたのに。
賢人はゆるゆると息を吐き、何とか気持ちを落ち着かせる。
彼のそんな素振りに、雛姫は気づかずにいてくれたようだ。軽く首をかしげて、目を合わせてくる。
「舘くんは私のことを好きだって言ってくれるよね? でも、私には、どうしてそう言ってくれるのか、全然解らないの」
「それは、オレの気持ちなんだから雛姫に解らないのは当然だろ?」
「そうじゃなくて。私は、自分が嫌いなの。だから、そんな私のことを好きだと言ってもらっても、全然、解らないし、受け入れられないの」
きっぱりと言った雛姫は、今までで一番、真っ直ぐな眼差しをしていた。
そこに、ふと、苦笑めいたものがよぎる。
「私ね、舘くんのことが少し羨ましかったの」
唐突な『告白』に、賢人は眉をひそめた。
「……え?」
「舘くんはいつも笑っているから。私は、笑うのが怖いから」
「そんなの――」
笑いたければ、いつだって笑わせてやる。
そう言おうとして、やめた。
口をつぐんだ賢人の言葉を横取りするように、雛姫が続ける。
「でも、私は、今の自分が嫌い。美紗のこと傷つけた自分は嫌だけど、あの時の自分よりも、今の自分の方が、もっと嫌い。このままで、いたくない――私も、また、笑えるようになりたい」
その宣言は、いつかの賢人の言葉に対する答えのように聞こえた。
いや、きっと、そうなのだろう。
思いつくまま彼が投げた言葉を、雛姫は、ちゃんと受け止め、考えていてくれたのだ。
(なんで、これでオレが雛姫のことを好きになるのかが解からないとか言えるんだ?)
こんなにも、彼女には好きになるしかない要素が溢れているというのに。
今、この瞬間、君のことが好きなんだと、言いたい。
賢人は心の底からそう思った。
けれど、今は、ダメだ。
「うん、オレも見たい」
好きだの代わりに同じくらい強く思っていることを口にすると、雛姫は華奢な背中をピンと伸ばした。
「メールでね、美紗に、明日会いたいって送ったの。そしたら、『わかった』って。それだけだからどう思ってそう返事してくれたのかは、判らないのだけど」
最初のうちははっきりと出ていた声が、最後の方は口の中に消えていく。
「……怖い?」
答えが判っていることを、賢人は敢えて声に出して訊いた。
雛姫は一度顔を伏せ、また上げる。
「怖いよ。でも、やめない」
澄んだ声でそう言った彼女の目の中に、迷いの色はない。
そんな雛姫は、もう、胸が苦しくなるほどキレイで。
「やべぇ」
「え?」
「やっぱ、好き。雛姫が自分のこと嫌いでも、オレは好き。抱き締めたい。でも今は我慢しとく。いつか絶対オレのものにするから、その時は覚えとけ」
つらつらと頭の中を吐き出した賢人に、雛姫が目を丸くする。その顔がまた可愛くて、彼は笑った。
「ホント、好き。だから、明日、オレも一緒に行っていい?」
雛姫のことが好きだから。
春日や梁川と違う形で、彼女のことを守りたいと思っているから。
だから、明日、また傷つくかもしれない雛姫の傍にいたい。
ジッと見つめる賢人の前で、雛姫は目をしばたかせた。そして、おずおずと言う。
「来て、くれるの?」
「行きたい」
きっぱりとそう答えると、雛姫の大きな目が潤んだ。そこから雫が零れ落ちる前に、彼女は顔を伏せた。そして、小さな声が続く。
「ありがとう」
ああ、クソ。
(なんでオレはあんなことを言っちまったんだ?)
震える肩を前にして、賢人はさきほどの『我慢する』発言を死ぬほど後悔していた。




