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舘家の三兄弟  作者: トウリン
絶対聖域のお姫様
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春は別れの時期だから

 高校卒業後、聖人(まさと)は地元国立大学の医学部に進んだ。

 実家から通うことも可能な距離だったから、まだ小さい弟たちのこともあって、進学後も彼は家に留まった。


 (たち)家の四人と、(ほたる)

 その五人で、変わらぬ日々を送った。


 それが変わることになったのは、聖人が五年生になった春。

 彼は家を出てアパート暮らしを始めることを決める。

 一番下の優人(ゆうと)も高校に入って落ち着いたし、聖人自身、これから実習やら何やらで忙しくなるからだ。


 ――少なくとも、家族や、そして(ほたる)には、そう説明した。


 皆、その理由で納得したと思う。


 だが。


(何が、実習だよ)


 最後の箱を借りてきた小型のトラックに積み込み、聖人は心のうちで自分を嗤う。

 優人が成長したからだとか、実習だとか、それが建前に過ぎないことは己が一番良く知っていた。


 本当は、彼女から逃げるためだ。

 あるいは、彼から彼女を逃がすため、か。


 軽トラックの後アオリを上げてそこに肘を置き、聖人はため息をこぼした。

 と、そこに声がかかる。


「よう、聖人。それで終わりか?」

 顔を上げると、(かける)が立っていた。その隣には、蛍も。

「お疲れさま、お兄ちゃん」

 そう言って、蛍は聖人に翔が持っているものと同じスポーツドリンクのペットボトルを差し出した。笑顔だが、その笑みはいつも彼女が浮かべるものとは、違う。


「サンキュ」

 蛍の表情の裏にある翳は見て見ぬふりをして、聖人はペットボトルを受け取った。


 蓋を開け、中身をあおる聖人の耳に、ポツリと、ついこぼしてしまったという風情のつぶやき声が届く。


「今日から、いないんだね」


 わずかに、その語尾が震えていた。


 聖人はペットボトルから口を離し、蛍を見下ろす。


 彼女はこの春、十四歳――中学二年生になった。

 この九年間でもちろん背はずいぶんと伸びたけれども、まだようやく聖人の胸に届くくらいだ。母親の恵子(けいこ)は女性にしては長身な方だから蛍もこれから大きくなるのかもしれないが、どうだろう。すらりとした蛍は、あまり想像できない。全体的に華奢だから、小柄なままなのかもしれなかった。

 子どもの頃からあまり変化が感じられない蛍の中で、一番大きく変わったのは、髪かもしれない。三年ほど前から伸ばし始めたらしい色素の薄いその髪は、背の半ばを越えている。もう滅多に触れることはないけれど、聖人は、それが柔らかな猫毛であることを知っていた。


 時折、彼は無性にそれに触れたくなる。


 だが。


(まだ、十四、か)

 蛍はまだ子どもで、当然のことながら、蛍が一つ年を取れば、聖人も一つ年を取る。二人の間の八年は、変わらない。


 それに、問題は年の差だけではない。


『おにいちゃん』


 蛍が聖人のことをどう思っているかは、その呼び方に表れていた。


 ――それが、つらい。


 そんな気持ちを押し隠し、聖人は笑う。

「いないったって、ここからそう遠くないだろ、俺のところは」

「うん……」

 うなずきはしたけれど、受け入れはしていない、そんな顔だ。蛍はわずかに面を伏せて、その眼の中にあるものを聖人から隠してしまう。

 見えない糸に引かれるようにして上がった聖人の手が危うく蛍の頬に伸びそうになり、ハタと我に返った彼は、寸前でそれを握り込んだ。


「土日は、できるだけ帰ってくるから」

 恐らく果たされることのない約束を、聖人は口にした。


 それでも、彼の心中など知る由もない蛍は顔を上げ、ニコリと笑う。

「うん、待ってる」

 が、そう言った次の瞬間、ホロリと雫が丸い頬をこぼれ落ちていった。


「あ」

 小さく声を上げ、蛍がパッと顔を伏せる。だが、それで涙は隠せても、震える肩は、隠せない。


(ああ、くそ)


 胸の中で呻いた聖人は、頭で考えるよりも先に両手を伸ばして蛍の柔らかな頬を包み込んでいた。そっと彼女の顔を上げさせ、またこぼれた涙を親指で拭う。

「泣くことないだろ?」

 わざと明るく、呆れたような声を作った。

「自転車で三十分もあれば来られるじゃないか。会いたかったら来いよ」


「……いいの?」

 蛍の大きな目が瞬いた。

 期待に満ち満ちた眼差しで見上げられ、聖人は奥歯を噛み締める。


 良くない。

 家を出るのは、何より、蛍から離れるためだ。

 良くない――が。


「もちろん、いいに決まってるだろ。ああ、前もって連絡はしろよ? 家にいるとは限らないからな」

 聖人の頬にはここ数年ですっかり板についた『穏やかな笑顔』が浮かび、気付けば口が勝手にそんな台詞を吐き出していた。


(やばい)

 これは、どでかい墓穴を掘った。

 家を出るのは、毎日蛍と顔を合わせることに限界を迎えつつあるからだ。限界を迎えつつも何とか自分を制御できていたのは、他の連中の目のお陰だ。舘家にいれば、必ず誰かしらが一緒にいた。


 だから、辛うじてもっていたというのに。


 それなのに、独り暮らしのところに来ていいとか。


(馬鹿だろ、俺)

 内心で呻きながら、聖人はすっかり明るい顔になった蛍の頬から手を離す。


(できるだけ、マメにこっちに帰るようにしよう)

 結局、あまり今と変わることはないのではなかろうかという予感を覚えながら、聖人は翔に向き直った。目が合うと、彼は意味ありげに片方の眉を持ち上げる。

 そんな翔の視線を無視して、聖人はトラックを回り込んだ。


「じゃあ、行こうぜ、翔」

「はいよ。……じゃあね、蛍ちゃん。またね」

 ヒラヒラと片手を振った翔に、蛍がペコリと頭を下げる。


 走り出したトラックを追いかけようとするかのように蛍が一歩を踏み出したのがバックミラーに映ったが、聖人はそのままシートに身を沈め、ミラーの中で小さくなっていく彼女を見守った。


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