変わるべきというより、変わって欲しいから
その日の授業はまるで時間が止まっているのかと思うほど長く感じられた。
放課後を迎えるなり賢人は春日の腕を引っ掴んで学校を出て、今は梁川家の玄関前にいる。
「雛姫ちゃんには舘君も一緒だってメール送ってあるけど、イイともヤダとも返事ないんだよね……」
言いながら、春日が玄関のチャイムを押す。奥で軽快な音が響いて、少しして、扉が開いた。中から現れたのは三十代半ばかそこらの女性だ。雛姫にそっくりで、彼女の母親だというのが一目で判る。
「小春ちゃん、いらっしゃい……あら?」
雛姫の母親は満面の笑みを春日に向けてから、彼女の後ろに立っている賢人に気付いて小首をかしげた。彼は笑顔を浮かべてぺこりと頭を下げる。
「初めまして、雛姫さんの同級生の舘賢人と言います。お見舞いに来ました」
振り返った春日が妙なものを見る目を向けてきたが、無視する。雛姫の母親は一瞬目を丸くして、それからさっき以上の明るい笑みになった。
「あらあら、まあまあ。どうぞ、入って? 雛姫はお部屋よ」
それはまさに、雛姫が笑えばこんな感じなのだろうなと思わせる、笑顔だ。
「おじゃまします」
早く本人のものも見られるようになりたいものだと心の底から願いつつ、賢人はもう一度頭を下げて、春日の背中を押すようにして梁川家の玄関へと足を踏み入れた。
雛姫の部屋は二階らしく、春日は勝手知ったるという様子で階段を上がっていく。そうしてドアの一つの前で立ち止まると、拳の背でそっとノックをした。
「雛姫ちゃん、入るよ?」
小さな声での返事が、聞こえたような、聞こえなかったような。
少し間があってから、内側からドアが開く。
「小春ちゃ――舘くん?」
賢人に気づいた瞬間雛姫の口から出てきたのは、喜んでいるのとは程遠い、怯んでいるといってもいいような声だった。
春日がためらいがちに訊ねる。
「えっと、メールで舘君も連れてくよって送ったけど――読まなかった?」
「……ごめんね。携帯、電池切れちゃってて、見てないの」
(家にいたら充電なんてすぐにできるよなぁ)
賢人は心の中でそうツッコミを入れたが、そんな彼をよそに春日と雛姫の遣り取りは続く。
「そっか……その、帰ってもらう?」
雛姫が賢人に目を向ける。そこに迷う光が走るのが見て取れた。
(ムリかな)
嫌だと言われたらどう言いくるめようかと賢人が頭を巡らせつつジッと見つめていると、その視線から逃げるように雛姫はうつむいた。そして小さくかぶりを振る。
「ううん、いいよ。入って」
身を引いた雛姫は部屋の奥へと戻り、春日、賢人の順で続く。
雛姫の部屋は、いかにも女の子の部屋という感じだった。男所帯の舘家とは全然違う。淡い水色がベースになっているけれども、柔らかくて可愛らしい色合いだ。
中に入ると春日はさっさとベッドに座り、雛姫は勉強机の椅子に座る。賢人は少し考えてから、部屋の真ん中に置かれているラグの上に胡坐をかいた。多分、彼を見るのに目線が下になる方が雛姫も少しは気が楽だろう。
取り敢えずそれぞれの位置が決まったはいいが、誰も口を開かない。
雛姫を見ると、賢人に身体を向けてはいるが、顔は深く伏せられていた。
(顔色は昨日までよりマシだよな)
少なくともそこはプラス要素だ。昨日までのようなしなびれぶりだったら、言おうと思っていたことも言えなくなってしまう。
さて、どう話を切り出そう、と賢人が考えているときに、不意の電子音が部屋の静寂を破った。春日と雛姫が同時にビクッと身体を跳ねさせる。更に動いたのは春日の方で、鞄の中を探って携帯を取り出した。
「お母さんから電話だ。ちょっと、ごめん」
そう言って、画面を操作しながら部屋を出て行く。
(おいおい、二人っきりかよ?)
賢人は嬉しいが、見るからに雛姫の緊張は強まった。
やれやれと彼は小さく息をつき、笑顔を浮かべて雛姫に呼びかける。
「雛姫?」
ピクリと肩が震え、少し顔が上がった。
「調子、どう?」
「うん、だいじょうぶ。明日からは学校行くよ」
「そっか」
コクリとうなずき、また雛姫は顔を伏せてしまう。
会話終了。
(いや、終わらせて堪るかよ)
むしろ、二人きりなのは都合がいいかもしれない。春日がいたら横やりが入ること間違いないことを、今日は言いに来たのだから。
「梁川先生と春日から、あんまり眠れてないって聞いたけど」
「え、ううん。そんなことないよ」
口ではそう言ったが、雛姫の目は逸らされたままだ。そしてそれきり、続きはない。このまま時間切れになりそうで、賢人は眉間にしわを寄せる。
どうやら、ちょっときつい一発が必要らしい。
「木下美紗」
彼がその名を口にした瞬間、パッと雛姫が顔を上げた。
「何で……、――小春ちゃん、が?」
前髪に隠された目が大きく見開かれて、真っ直ぐに賢人に向けられているのが判る。彼は肩をすくめた。
「そ」
うなずき、彼女の様子を窺いながら、賢人は続ける。
「駅前で会った子だよな? 昔、色々あったってことも聞いたよ。まあ、これっぽっちも信じられないけどな」
そこで一度言葉を切って雛姫を見つめたが、彼女はふいと目を逸らした。当然だが、雛姫から何か説明とか釈明とかは、望めそうにない。
賢人は小さく息をついてから、続ける。
「で、雛姫は、その諸々があった後、彼女に会ったのか?」
「え?」
「その木下美紗って子と、ちゃんと話をした?」
うつむいて唇を噛み締めたことが、その返事なのだろう。
賢人は雛姫との距離を詰め、そっと髪のひと房を引っ張って彼女の注意を引いてから、その顔を覗き込む。
「一度、会うべきじゃないのか?」
と、そこでガチャリと扉が開いた。賢人はチラリと肩越しに振り返り、入ってきた春日に声を投げる。
「なあ、春日、どう思う?」
「え、何が?」
その声だけで、春日がポカンとしているのが伝わってくる。賢人はまた雛姫を見つめながら、言う。
「木下美紗に会いに行くって話」
「舘君!?」
ギョッとしたように春日が声を上げた。そんな彼女には構わずに、賢人は雛姫の手を取る。
「髪も切ってさ、ちゃんと目を合わせてその子の言い分を聞いてみろよ。本当に、今も怒ってるのかどうなのか」
雛姫はきつく唇を噛み、そして唐突に手を引いた。元々それほど賢人は力を入れていなかったから、手は容易に振りほどかれる。彼女は一層深く顔を伏せ、自由になった両手を膝の上で固く握り合わせた。
そして、ひと言だけ。
「ムリ」
「雛姫」
覗き込んで名を呼ぶと、彼女はパッと顔を上げた。
「ムリだよ。だって、美紗は怒ってたんじゃない。泣いてたんだもの。どんなことがあったって泣いたことなんてなかったのに、すごく泣いてた」
そう言った雛姫の方こそ、今にも泣き出しそうだった。けれど実際に涙がこぼれることはなく、彼女はグッと奥歯を噛み締める。
「私のせいで、私が、泣かせたの」
「雛姫ちゃん……」
「小春ちゃんだって、知ってるでしょ? 美紗は泣かないの。でも、私が泣かせたの。……私が、美紗を傷つけたの」
やっぱり、そこなのか。
賢人は胸の中でつぶやく。
雛姫がその木下美紗ともあるいは他の者とも距離を取ろうとするのは、自分が傷つくのが怖いからじゃない。傷つけることを、恐れているのだ。
(だが、だからといってこのままじゃいられない。このままでいいわけがない)
人と触れ合えば傷つけることも、傷つくこともある。
それは避けられるものじゃない。
大事なのは、その後どうするか、だ。
賢人は膝の上で拳を固めた。
「それで、これからもずっとこんなふうに引きこもって生きてくのか? 顔も隠して、誰とも関わろうとしないで、何かあるとぶっ倒れて?」
突き放したような口調で賢人がそう言えば、雛姫の唇が微かに震えた。
「……だって、判らないの」
それだけでやめてしまった雛姫の顔を覗き込み、賢人は促す。
「何が?」
雛姫は一度唇を噛み、そして、震える声で。
「どんな顔をしていたらいいか、判らないの」
「そんなこと、考えて作る必要ないだろ?」
眉をひそめて賢人は言ったが、雛姫はかたくなに口をつぐんでしまった。少し待ってみたが、それ以上何か言ってくれそうにない。
彼が小さく息をつくと、雛姫は微かに身をすくめた。ビクついているかのような彼女に、苦笑する。
「……今の雛姫が自分に満足してるならいいけど、オレにはそうは見えないよ。全然楽しそうじゃないし、なんか、無理してるようにしか見えない。いつまでもこのままでいいとは、思えない」
「舘君!」
春日がとがめるような声を上げたが、賢人は彼女を一瞥して素っ気なく返す。
「大事に包み込んでりゃいいってもんじゃないだろうが」
そうして彼は、膝の上できつく握り込まれた雛姫の小さな拳に自分の手を重ねた。
「バカの一つ覚えみたいだけど、ちゃんと届くまで何度でも言うからな? オレは雛姫が好きだよ」
「舘くん……」
血の気が失せていた雛姫の頬に、微かに色がつく。賢人の言葉は彼女の心にまでは到達していないかもしれないが、間違いなく耳には入っているようだ。
二ッと笑って賢人は続ける。
「だから、雛姫が笑ったところを見たい。他の奴らが知ってるのにオレは知らないとか、我慢できない。このままじゃ、オレが嫌なんだ」
雛姫は頑なに唇を結んでいる。それは彼の言い分を拒んでいるようにも、彼女自身が言いたいことを喉の奥に留めようとしているようにも見えた。
もしも後者なら、この際全部ぶちまけて欲しい。
そう思って待つ賢人に、別方向からの横やりが入る。
「なんか、心狭くない?」
「そうか? 正直だと言ってくれよ」
春日にはそう返し、賢人はもう一度雛姫の目を覗き込んだ。
その奥には、何かがあるような気がする。沸騰する寸前の湯のように、一見穏やかでも、ほんの少しの刺激で一気に噴き出すような、何かが。
(まあ、でも、取り敢えず今日はここまでかな)
賢人は内心で独り言ち、膝に両手を置いて立ち上がる。
「そろそろ、オレは帰るわ」
その台詞に雛姫が顔を上げ、その口が何か言いたそうに微かに開いた。賢人は少し待ってみたが、彼女は唇を結んで顔を伏せてしまう。
束の間雛姫を見つめてから、賢人は春日に顔を向けた。
「……その男の名前、覚えてるか?」
「え?」
突然の問いかけに目を丸くしている彼女に、賢人はもう一度繰り返す。
「くそ野郎の名前」
「えっと……美紗の……?」
「そ」
うなずいた賢人の前で彼女はしばし考えこみ、そしてかぶりを振った。
「ごめん、覚えてない」
「そっか」
まあ、三年も前の、友達のエセ彼氏のことなど、覚えていられないだろうし、覚えていたくもないだろう。
内心舌打ちを漏らした時、小さなつぶやきが届く。
「かねやひろし、くん」
「え?」
雛姫を見下ろすと、彼から目を逸らしたままもう一度その名を口にした。
「かねや、ひろしくん」
「そっか。サンキュ」
二ッと笑い返した賢人に、教えた後で気になったのか、雛姫がおずおずと続ける。
「知って、どうするの?」
「別に、知りたかっただけ。あ、そうだ。今すぐその名前記憶から消去しとけよ」
賢人の台詞に雛姫が小首をかしげた。
「え?」
「そんな奴の名前が雛姫の中に深々根を下ろしてるのかと思うと、胸糞悪い」
きっぱりとそう告げると、雛姫が目をしばたたかせた。その横で春日が顔をしかめる。
「うわぁ……やっぱり心狭くない?」
「狭くない。オレの心は宇宙よりも広いよ。な、雛姫?」
笑顔でそう返すと、彼女は気持ち目を逸らした。




