体育館裏で
翌朝、賢人は玄関で待ち構えて春日を捕まえた。予想通り、彼女の隣に雛姫の姿はない。
「ちょ、舘君?」
彼女が靴を履き替える暇も与えず腕を掴んで歩き出した賢人に春日は抗議の声を上げたけれども、構わずに歩く。
向かったのは、教師も滅多に来ることがない体育館の裏手だ。そこなら、話が済むまで邪魔は入るまい。
「舘君、何なの? ホームルーム遅れちゃうよ?」
足を止めて春日を放すと、彼女はムッと唇を尖らせて賢人を睨み付けてきた。それに答えず、彼は昨日から気になって仕方がなかった問いを発する。
「雛姫の様子は」
「おはようの一言くらいあってもいいと思うんだけど……まあいいや。雛姫ちゃんは家に連れて帰っても寝てたよ。一回も起きなかった。ずいぶん眠れてなかったみたい」
「ずいぶんって、一週間か?」
言外に駅前で突然逃げ出したあの日からかと問いかけると、春日は一瞬唇を引き結び、そして頷いた。
「そう」
悔しそうにうつむいた彼女に、賢人は間髪入れずに続ける。
「中二の時もこんなふうになったのか?」
瞬間、パッと春日が顔を上げた。眼鏡の奥の目は、大きく見開かれている。デカデカと「どうして知っているのか」と書いている顔で見返してくる彼女に、彼は更に言葉を重ねた。
「そのこと、知りたいんだけど」
至極真面目な顔と声でそう頼んだが、春日は口を開かない。窺うような色を含んだ眼差しを、無言のまま賢人に注いでいた。
(オレに話していいか迷ってるって感じだな)
多分、その話をするには『雛姫が親友の彼氏を盗った』という件にも触れなければいけなくなるからなのだろう。雛姫の友人として、あんな話はしたくないはずだ。
だったら、先にそこを踏んでやる。
賢人は体育館の壁に寄り掛かり、横目で春日を見遣った。
「雛姫が友達の彼氏横取りしたって本当か?」
反応は早かった。『横取り』の『り』の字を言い終える前に、春日が目を光らせて噛みついてくる。
「誰がそんなこと!?」
名前を教えたら、速攻殴りにでも行きそうな勢いだ。
賢人は肩をすくめて答える。
「お前たちと同じ中学だったって奴から。ま、そいつも信じてなかったみたいだけど」
「当たり前でしょ」
投げ付けるようにそう言って、春日は大きく息をついた。一番言いにくいところが知られていると知って、多少舌が動き易くなったらしい。ほんのわずかな逡巡の後、話を切り出す。
「盗った、なんて、全然違う。雛姫にはそんな気全然なかった。でも、そういうことで色々あったのは、事実だよ」
そこでまた、春日はため息をこぼした。そうして、次の言葉を待つ賢人を見上げ、彼の目を真っ直ぐに見つめながら、続ける。
「その話を聞いたんなら、前の雛姫が今とは別人ってことも、聞いたよね?」
「ああ」
うなずいた賢人に、春日はためらうように唇を噛んでから、またその口を開く。
「一週間前に駅で会った女の子。あの子を見てから雛姫ちゃんがおかしくなったのは、判るでしょ?」
「そりゃ、まあ」
「あの子がその『友達』なの。木下美紗っていって、雛姫ちゃんとは幼稚園の頃からずっと仲が良かったんだって」
「春日は違うのか?」
「わたしは中学からの編入だから。親の転勤で中一から聖藍に入ったの」
「へぇ」
相槌を打つ賢人に、春日が肩をすくめた。
「聖藍って、ほとんどの子が幼稚園からずっと一緒でしょ? グループなんてガッツリできちゃってるし、それまで公立の共学にいたわたしなんて浮きまくりで、正直、どうしようかと思った。高校卒業するまで友達なんてできないんじゃないかって」
そこで、ふと彼女の顔が和らぐ。
「でも、ボッチでお弁当食べてたら雛姫ちゃんが声をかけて来てくれてね。そこから一人じゃなくなったんだ」
良い思い出を手繰った春日だったが、束の間明るくなっていた顔が、また、曇った。
「あの頃の雛姫ちゃんはすごく屈託がなくて、誰にでも気軽に声をかけてたよ。特に仲が良かったのは美紗ちゃんだけど、ほとんどの子と仲良くしてた。誰からも好かれる子って、ホントにいるんだなって思ったよ。いっつもニコニコしててね」
そのあたりは、昨日山根から聞いた話と同じだ。
今とはかけ離れた、朗らかな雛姫の姿。
そんな雛姫を想像しようとしても、彼女の素顔すら数えるほどしか見ることができていない賢人には、難しい。はっきり言って、うらやましいし、その笑顔を知っている春日に妬ましささえ覚える。
だが――
(知っているだけに、今の雛姫を見ているのは辛いんだろうな)
そうも、思う。
賢人の頭の中などつゆ知らず、春日は伏せていた目蓋を上げ、また彼を真っ直ぐに見つめてきた。
「雛姫ちゃんはね、美紗ちゃんのこと、大好きだったの。絶対に、あの子のこと、傷付けたくなんてなかったんだよ」
「だろうな」
賢人は肩をすくめるようにしてうなずいた。
念を押されなくても、雛姫がそんなことをするとは思っていない
美紗という少女がたとえ親友ではなかったとしても、雛姫が誰かのことを傷付けるなど想像もできない。彼女には、そんなこと、しようと思ってもできやしないだろう――捨て猫のことであんなにぐちゃぐちゃにボロ泣きするような彼女には。
春日は賢人をジッと見つめてから、再び口を開く。
「雛姫ちゃんには、全然、そんな気なかった。でも、アイツは、ニコニコして優しい雛姫ちゃんに、勘違いしたの」
「アイツ、って、その、美紗って子の彼氏?」
「そう。中二の秋に、向こうから声かけてきたんだって。付き合い始めて一週間くらいして、美紗ちゃんがわたしたちに紹介してくれたの。見た目は、まあ、悪くない方だったかな。でも、中身は最低。それから二、三回顔合わせたかな。しょっちゅう、聖藍の前に美紗ちゃん迎えに来てたから。でも、ひと月もしないうちに、雛姫ちゃんの方を好きになったからって、美紗ちゃんを振ったのよ」
「それ、雛姫のせいじゃないだろ」
「そうだけど、美紗ちゃんの気持ちもわかるよ。アイツに告られたとき、スゴク喜んでたから。まあ、アイツのこと好きっていうより、単に、初めて付き合ってって言われたからだったんだろうけど」
ボソボソとそう言って、春日は、ハァ、と息をつく。視線は地面、だ。
「美紗ちゃんは怒って、雛姫ちゃんは自分のせいだって落ち込んで部屋から出られなくなっちゃって。あんなに皆の間で笑ってたのに、人に会えなくなっちゃったの。外に出られたとしても、あんなふうに前髪長くして、うつむいて。三年生になってもダメで、梁川先生が高校からは自分のところに通おうって言って、ここを受験することになったんだ」
「その美紗って子とは、全然連絡取ってないのか?」
「あの駅の時が三年ぶりの再会。あの時は、もう、怒ってなかったみたいだけど……」
言われて、賢人はおぼろげな記憶を探る。
はっきりとは覚えていないが、彼女の雛姫を見る目は、怒りどころか、それとは全く別のものを浮かべているように見えた気がする。
「試しに、一度ちゃんと話をしてみたら?」
「うん……でも、会って、またあんなふうになったらって思うと……実際、ちょっとばったり顔を合わせただけでこんなことになっちゃったし。部屋を出られているだけ、あの頃よりはマシなんだけどさ」
確かに、今の雛姫でも見ていてかなりハラハラするのは事実だ。部屋に閉じこもって出てこない彼女など、賢人だって耐えられない。
が、しかし。
(本当にこのままでいいのか?)
その自問の答えは決まっている。
賢人には、一ミリたりともそうは思えない。
確かに三年かけて少しはマシになったのかもしれないが、三年経ってもこんな状態ともいえる。
(このままじゃ、いつまで経ってもオレのものにはならないじゃないか)
そんなこと、あってたまるか。
「……今日の放課後、雛姫のところに寄りたい」
「え?」
「オレだけで行くよか、春日が一緒の方がいいだろ? それに、どうせ行くんだろうし」
「それは、そうだけど……」
「じゃ、帰りにな。逃げるなよ?」
念を押すと、春日は諦めたように息をついた。
「わかったわよ」
「よし、じゃ、教室行こうぜ。遅刻で放課後居残りとかなったら困る」
そう言って踵を返した賢人の隣に、一拍遅れて動いた春日が小走りで並ぶ。
「舘君ってさ、もうちょっと慎重とか遠慮とか持てないの?」
「え、充分気ぃ使ってるだろ。オレの我慢、もうギリギリだから」
「……どこが?」
「全部。なんも考えてなかったら、とっくの昔にあれやこれややってるって」
「あれやこれやって、何よ……」
春日は諦め混じりの声でそうつぶやいたけれども、そこにはここに来て話し始めた時にはなかった軽さがあった。




