君の笑顔を見たいのに
体育の授業、体育館を半分に分けて男女それぞれでバレーをしている時だった。皆、ほとんど遊び半分で、真面目にやっている者など誰一人としていない。
そんな中にわかに女子側が騒がしくなって、賢人は飛んできたボールを片手でキャッチした。
「なんだ?」
シャツの袖で額の汗をぬぐいながら人だかりの方に目を向けた彼に、女子側に近いところに立っていた男子生徒が答える。
「なんか、女子が一人倒れたっぽい」
(まさか)
閃いたのは、たった一人の少女のことだ。
その瞬間、賢人は駆け出していた。
一か所に集まった女子を掻き分け、その中心に向かう。
思った通り、そこに倒れ伏しているのは雛姫で、隣では春日が彼女を覗き込んでいた。横向きの上にいつものように前髪でほとんど隠されているから目を確認することはできないが、ピクリとも動かないところをみるとどうやら完全に意識を失っているらしい。
雛姫を挟んで反対側に膝を突いた賢人に、春日は半泣きの顔を向ける。
「舘君、雛姫ちゃんが……」
「倒れた時、頭を打ったっぽいか?」
「え、え――っと、たぶん、大丈夫。こう、へなへなって崩れたから。打ったとしても、そんなに強くないと思う」
「そっか。じゃぁ、オレが雛姫を保健室に連れていくから、春日は先生に説明しといて」
「あ、うん、判った」
淡々と指示を出されて、春日はホッとしたようにコクリとうなずいた。そんな彼女にうなずき返し、賢人は雛姫の背中と膝裏に腕を挿し入れる。冷静な態を装ってはいるが、内心、心臓はバクバクだ。どこか変なところを打ったりしていなければいいのだがと思いながら、賢人はそっと彼女を抱き上げた。そして、眉をひそめる。
ずいぶんと、軽い。ぐったりしている人間は重く感じるそうだけれども、そんなふうに思えないほど、意識を失っている雛姫の身体は軽かった。
(ていうか、痩せたよな)
もともと雛姫は華奢だったが、痩せていると感じたことはなかったのだ。まともに触れたのは春日が女子たちに吊し上げを喰らったときと、路地で抱き締めたときくらいだが、あのときの雛姫は細いけれども柔らかくて、正直、滅茶苦茶抱き心地が良かった。それが今は、下手に力を入れたらどこか折ってしまうのではないかと不安になるレベルだ。
(これってやっぱ、アレからだよな)
賢人は眉間に刻んだ溝を、いっそう深くする。
アレ、とは、もちろん駅での出来事のことだ。
もう一週間が過ぎているが、あの一件以来すっかり雛姫の表情は暗くなり、春日といる時でさえ顔を伏せて押し黙っていることがほとんどだった。ましてや賢人の前ではなおさらで、まるでアプローチし始めた頃に戻ったかのように、ろくに眼も合わせてくれない状態が続いている。
「せっかく、亀の歩みであそこまでこぎつけたってのによ」
保健室に着いてそのドアを足で開けて中に入りながら、賢人はぼやいた。声に出したが、蒼白い顔で目を閉じている雛姫には全然届いていないようだった。
保健室には誰もおらず、取り敢えず、賢人は雛姫をベッドに寝かせる。半袖短パンの体操着だからそのままでもそれほど苦しくないだろう。
毛布を被せてから、起こしてしまわぬように細心の注意を払って前髪を上げてみた。
色白の頬は白を通り越して蒼褪めていて、目の下にはくっきりとしたクマがある。
賢人はため息を一つこぼしてから椅子を持ってきてベッドサイドに置き、枕元で頬杖を突く。吐息を感じることができそうなほど間近でじっくり雛姫を見つめる機会など、そうそうないことだ。
だが、せっかくのその機会がこんなことでは、とうてい嬉しいとは思えない。
「オレ、ホントに雛姫のことが好きなんだけど?」
いつになったら、この気持ちを受け入れてくれるのだろう。
受け入れてくれさえすれば、雛姫の為に何でもできる――何でもする。賢人が近づくことを許してくれるのなら、好かれているということがどんなものなのか、あの手この手で示してやって、落ち込む隙など一ミリたりとも与えてやらないのに。
一週間前までは、わずかとはいえ、手応えを感じ始めていたのだ。
雛姫は賢人の前でも表情を和らげるようになっていたし、彼の言葉に反応を見せるようになっていた。
きっと、もう少ししたら笑顔だって見せてくれていたはず。
せっかく、そうなっていたというのに。
それなのに、下手したら、前よりも壁が分厚くなっている。
一目惚れしたのは泣き顔でも、見たいのは――賢人の隣にいる時に浮かべていて欲しいのは、笑顔だ。花開くような彼女の笑顔を、見てみたい。
「早くオレのものになってよ。そうしたら、一生笑わせ続けてやるから」
そう告げて、賢人は指先でそっと雛姫の頬に触れる。それはびっくりするほど柔らかくて、そして少しひんやりしていた。
あまりに心地良くて、手放しがたい。
抑えが利かず、手のひらを広げて彼女の頬を包み込んだ。そうしていても、まったく目覚める気配がない。
「キスしてもバレなそうだな……」
つい、そんなつぶやきが口からこぼれた時だった。
「へぇ?」
背後から聞こえた低い声に、賢人はパッと手を浮かせる。振り返ると、戸口に春日を連れた梁川潤一が立っていた。彼の眼差しは声に負けず劣らず冷やかで、その隣に立つ春日の眼もどっこいどっこいだ。
梁川はスタスタと歩いてくると、猫の仔にでもするように賢人の襟首を掴んで引っ張り上げた。
「ちょ、先生」
「やかましい。眠っているのをいいことにべたべた触り倒しやがって」
心底から忌々しげに言いながら、梁川はさっきまで賢人が座っていた椅子を奪ってシッシと手を振ってよこす。その目はもう賢人を見ておらず、一転温もりに満ちた眼差しになって昏々と眠り続ける雛姫に向けられていた。
仕方なく反対側に回って向かいのベッドに腰を下ろした賢人は、しばらく口を閉じていてから、問いを放つ。
「雛姫、最近、調子悪いよな?」
チラリと賢人に目を走らせた梁川は、愛おしさが溢れんばかりの手付きで優しく雛姫の髪を掻き上げた。彼女のこめかみの辺りを親指で撫でてから、つぶやくように言う。
「ここのところあまり食べないし、多分、あまり眠れていない」
「理由は? 先生には何か言ったんですか?」
「いや」
言葉が少ないのは、雛姫が口を閉ざしていることに不満を抱いているからだろうか。ベッドの足元の方に立っている春日に目を遣れば、彼女もむっつりと唇を引き結んでいた。
二人の態度は、雛姫が倒れたことや調子を崩していることを心配しているだけではないような気がする。何か、他にも心に引っかかっていることがあるように思われた。
賢人は雛姫を見つめる。疲労の色は濃いが、ベッドに寝かせた時に比べれば、少し顔色は良くなっているような気がした。
(でも、根本的な解決じゃない)
何とかして、その『根本的な解決』を手に入れたかった。今回のことだけでなく、もっと、雛姫の中に深く根差したもの。それを手に入れられれば、もっと雛姫に近付くことができる。今は壁の中に閉じこもってしまっている彼女を、引っ張り出すことができる。
――根拠はないが、賢人はそう確信していた。
その為には何をしよう。
と考えたところで、さっぱりだ。
正直、賢人は悩むのも考えるのも苦手だし嫌いだ。まともにできたためしがない。
(ま、取り敢えずはやるしかないよな)
バリバリと頭を掻きつつ彼が内心でそう自分を叱咤した時。
「あの時と同じにならなければいいけど」
それは、賢人の耳に届くかどうかというほどの小さな声でのつぶやきだった。
パッと春日を――そのつぶやきの主を見たけれど、彼女はさっきと同じようにうつむきがちに唇を噛んでいる。
(あの時?)
いったい、いつのことだろう。
少なくともこの六月以降のことではないと思う。賢人が雛姫という存在に気付いてからずっと目を離さずに来たけれど、ある意味安定していて、こんな彼女になったことはなかったはずだ。
目をすがめて春日の様子を窺ったが、それ以上のヒントはくれそうになかった。
賢人は膝の上に肘をつき、雛姫の寝顔を眺める。
差し当たって、今できることはない。
と思うと目下の要求が意識の表面に浮かんでくる。
(こいつらが来る前に、もっと触っときゃ良かった)
余計な奴らがいなければ思う存分雛姫に触れられるのになどと、ここにいる二人にバレたら袋叩きに遭いそうなことを考えつつ、賢人は小さくため息をこぼした。




