その顔は好きじゃない
それからしばらくして春日が戻り、賢人たちは帰路に就くこととなったが、途中、彼女が本屋に寄りたいと言い出した。もちろん、賢人は大賛成だ。その分、雛姫といられる時間が増えるのだから。
本屋は駅前にあって、結構大きく品揃えが豊富だ。まあ、本を読むことが滅多にない賢人にはあまり縁がない場所だが。
店に着くと春日は真っ直ぐ参考書の棚に行き、賢人と雛姫は別のコーナーに向かった――まあ、雛姫が行くところに賢人がついていっただけともいうかもしれない。
雛姫が足を運んだのは小説が並ぶ棚で、ジャンルは海外ミステリーだ。何というか、もっとこう可愛らしい話が好きなのかと思っていたから、彼女が手を伸ばすのが黒々しいタイトルばかりなのが、賢人には意外で面白かった。
文庫を引き出しては戻し、また次を引き出した雛姫の手元を、賢人は覗き込む。
「オレもたまには何か読んでみよっかな。何かおススメある?」
「私が好きなのは、あるけど……」
「雛姫が好きなのを読みたいんだ」
彼女が何を好きだと思うのか、何を楽しいと思うのか、それが知りたい。
笑顔でそう答えると、雛姫は少し顔を紅くして、うつむいてしまった。それからいくつか文庫を取って、賢人に渡す。どれにも『血』とか『殺』とか入っているのが、何だか新鮮だ。
全部で五冊、受け取ったまま小脇に抱えると、雛姫が首をかしげるようにして見上げてきた。
「全部買うの?」
「ん? ああ」
「私、持ってるから貸すよ?」
「あー……いいや」
かぶりを振ってから、ニッと笑いかけた。
「これ持ってたら、雛姫とお揃いになるだろ」
「……他にも、たくさん持ってる人いるし」
「雛姫が薦めてくれたってオプション付きは、これだけだよ」
彼女は目をしばたたかせ、何かを言いかけて、やめる。
「……私、レジに行ってくる」
「オレも行くよ」
書棚の間を行く雛姫の足は、いつもよりも早い。賢人はのんびりとその後を追いかけた。
会計を済ませてレジの脇で待っていると、やがて春日が戻ってきた。
「あれ、雛姫ちゃん。なんか顔紅いけど、大丈夫?」
「だいじょうぶだよ。何でもない」
フルフルとかぶりを振る雛姫から目を移し、春日は賢人を胡乱げに見上げる。
「舘君、何かした?」
「何も」
サラッと答えた賢人を春日は目をすがめて見つめてきたが、実際、何かというほどのことは何もしていない。
春日はもう一度雛姫を見てから、まあいいやというように小さく肩をすくめた。
「帰ろっか」
そう言って、春日は雛姫を連れて店を出る。二人の後について、春日が何か語りかけるのへうなずいたりなんだりする雛姫を眺めながら賢人は歩く。ときどきクスリと笑うのも見えて、彼は春日をどかしてその場所に取って代わりたくなるが、そうしたところで同じ顔は向けてくれないのは重々承知だ。
こうやって一緒に歩けるのは駅までで、その距離はさして長くない。
とりあえず今のところは、こんなふうに彼女が楽しそうにしているところを眺めていられるだけで満足しておくべきなのだろう。
いっそ隣に住んでいるとかならいいのにと思いながら、賢人は視界に入り始めた駅にこっそりとため息をついた。雛姫と春日が乗る電車と賢人が乗る電車とは別方向だから、このひと時もそこでおしまいになる。
(付き合ってりゃ、家まで送ってけるんだけどな)
さすがに、友人としての立場すら確率できていない今の賢人では、それは無理というものだ。図々しさにはが自信があるが、雛姫相手に発揮してドン引きされるのは避けたい。
(早くオレのものになったらいい)
そうしたら、あれやこれや、できるのに。
長い髪を揺らしながら歩く雛姫の背中を見つめながら、賢人はため息をこぼした。
そうこうするうちにとうとう駅に着いてしまって、歩みを緩めながら雛姫と春日が定期を取り出そうと鞄を探り出す。先にそれを改札にかざそうとした雛姫が、ふと足を止めた。
「雛姫ちゃん?」
まだ鞄の中をごそごそと引っ掻き回していた春日が顔を上げ、定期を手にしたまま身じろぎ一つしない雛姫を覗き込む。彼女はそれにも答えようとせず、真っ直ぐに前を見つめていた。
「どうし――」
雛姫の視線を追って駅の構内に目を向けた春日が、固まる。二人揃って強張った顔をして、同じ方向を見つめていた。
「雛姫?」
賢人は数歩足を速めて雛姫の横に立ち、さっき春日がしたように、彼女の顔を覗き込んだ。前髪の隙間から見える目は大きく見開かれていて、少し、頬の色が悪い。隣の春日を見れば、同じような顔をしていた。
(何なんだ?)
二人が凝視している方へと目を向ければ、ちょうど電車が来たところなのか、ぞろぞろと改札に向かってくる人の波が。その中で、雛姫たちと同じように立ち止まっている少女がいた。彼女も、顔を強張らせている。
「知り合いか?」
二人に問いかけても、反応がない。
訳が解からず改札のこちらと向こうに視線を行き来させる賢人の前で、見知らぬ少女が、動いた。
一歩を踏み出しかけた彼女に、雛姫がビクリと身をすくませる。まるで、いや、どこからどう見ても、怯えているとしか思えない。
「雛姫――」
一体何なんだと眉をひそめつつ賢人が呼びかけた、瞬間。
まるで、彼の声に頬をひっぱたかれでもしたかのように、突然雛姫は身を翻して駆け出した。
「え?」
思わずポカンとその背を見送ってしまった賢人に、鋭い声が飛ぶ。
「追いかけて!」
「は?」
とっさに反応できずにいた賢人に、もう一度、春日が尻を叩く。
「さっさと行ってよ!」
「あ、ああ」
訳が解らないままうなずいて、賢人は雛姫を追って走り出した。
多少距離は開いていたが、鈍足の彼女に運動が得意な賢人が追いつけないわけがない。人の間を縫いながらみるみる距離を詰め、手を伸ばして雛姫の腕を捕まえた。
「雛姫!」
グイ、と引くと、後ろによろめいた彼女が賢人の胸の中に倒れ込んでくる。それを抱き留め、近くの路地に連れ込んだ。
腕の中に雛姫を抱き込んだまま、賢人ははぁ、と大きく息をつく。そうしてから、小刻みに震えている彼女の肩に手を置いて身体を離した。
「いったい、どうしたんだよ?」
賢人は身を屈め、表情のほとんどを隠してしまう長い前髪をそっとよけながら雛姫の顔を覗き込む。そうして目にしたものに、息を呑んだ。
泣いては、いない。
震える唇は嗚咽を漏らしておらず、見開かれた両目も涙をこぼしていない。けれど、彼女のその顔は、限りなく泣き顔に近かった。
思わず賢人は再び雛姫を腕の中に引き込んだ。細いうなじに手を置いて、自分の胸に押し付ける。
(なんで……)
彼は胸の中で呻いた。
初めて雛姫に惹かれた時の彼女は、泣いていた。ぐちゃぐちゃになって涙を流す彼女に、一目で恋に落ちた。
けれど、今の彼女の顔は全然好きじゃない。今の雛姫の顔は、見ていたくない。見ていて、ただ胸が痛くなるだけだ。
何が、雛姫にこんな顔をさせているのか。
もちろん、駅の構内に佇んでいたあの少女が原因なのだろう。それまでは、楽しげに春日と笑み交わしていたのだから。
あの少女は雛姫たちと同じ年頃で、着ているのはこの近辺では有名な女子高の制服だった。
(中学時代の知り合い、とか?)
そう言えば、雛姫たちがどこの中学から来たとかは、まだ訊いたことがない。今まで、どんな日々を過ごしてきたのかも。まだ、そんなことを訊けるほどの時間を、過ごしていなかった。
――知らないままでいたことに、賢人は後悔の念を覚える。
賢人の腕の中で、雛姫の華奢な身体はまだ震えを帯びていた。それを止めたくて腕に力を込めても、一向に治まらない。
いや、多分、今この震えを止めたところで、根本的な解決にはならないのだ。
その為には――
「あれは、誰なんだ?」
低い声で尋ねると、ピクリと雛姫の肩が跳ねた。
返事はない。
が、賢人は彼女を抱き締めたまま、待つ。
ずいぶん、経った気がした。
彼の胸元で、囁くような小さな声が。
「……私が、傷付けた人」
それだけで、雛姫は口を閉ざした。そうして、溺れる者が藁にすがるかのように、賢人のシャツを握り締めてくる。
もっと食い付けば、もう少し何か教えてくれるのかもしれない。だが、賢人はそうしなかった。ほんの数語を発しただけの彼女の声が、あまりに苦しそうだったから。
だから賢人は言葉を発する代わりにいっそう腕に力を込めて、できる限り彼女を深く包み込む。
伝わってくる雛姫の震えが、どうしようもなく賢人の胸を締め付けた。それを止めてやりたいのに、どれだけ包み込んでも、変わらない。
無力な自分が腹立たしくて、悔しい。
たとえ雛姫の方からすがり付いてきてくれているとしても、こんな彼女は、嫌だった。こんな雛姫を抱き締めているより、五メートル離れて笑っている彼女を眺めている方が遥かにいい。
(絶対、なんとかしてやる)
何をどうしたら良いのかさっぱり判らないが、とにかく、何とかする。
賢人は闇雲にそう心に誓った。そうして雛姫の頭に頬をのせ、きつく彼女を引き寄せる。
やがて二人を探し当てた春日が声をかけてくるまで、ただ黙って、そうしていた。




