壁の中の彼女
迷子センターを出た二人は、春日が待つ観覧車へと足を向けた。
できる限りのんびりと歩いたが、元々十分もあれば事足りる距離に二十分も三十分もかけることはできない。
(くそ、もう着いちまうのか)
見る間に巨大な観覧車が近づいてきて、賢人は内心で舌打ちをこぼす。
せっかくつなげた雛姫の手をできるだけ離さずにいたくてそれまで以上に足の運びをゆっくりにしていると、隣からおずおずとした声がかかった。
「……舘くん?」
「何?」
「えっと、そんなに遅く歩かなくてもだいじょうぶだよ?」
「ん? ああ、そっか」
引き延ばすのも、限界か。
渋々ながら、賢人は少しばかり速度を上げる。
(クッソ、着いちまったな)
あっという間に観覧車の順番待ちの列の前まで来てしまったが、嬉しいことに、春日と決めておいた待ち合わせの看板前に彼女の姿はなかった。
(あとどれくらい時間があんのかな)
観覧車を見上げても、当然、春日が乗っているのだがどのゴンドラかなど、賢人には判る筈もなく。
眉をしかめつつ試しに春日にメールを送ってみると――
「春日はまだ下りてきそうもないぜ? まだ天辺くらいだってさ。あと十分くらいはかかるかな」
「え……」
雛姫はひと言漏らしてゴンドラを見上げた。
と、思わず、賢人は彼女から目を逸らす。
雛姫は目いっぱい頭を反らしているから、桜色をした唇が薄っすらと開いていた。それはあまりに無防備で、賢人がちょっと頭を下げただけで、簡単に奪えてしまうだろう。
(あんまり隙を見せられても、逆につらいかも)
賢人はこっそりとため息を漏らした。
たとえ隙があったとしても、それを衝くことは許されていないのだから。
「あ――っと、雛姫?」
呼ぶと彼女は頭を元に戻して賢人に目を移した。
首をかしげるようにして賢人を見上げてくる雛姫に、彼は親指で例の看板を示した。
「春日とは、あれの前で待ち合わせてるんだよ。あそこで待ってよう」
「あ、うん」
もうすぐ春日が合流すると思って気が楽になったのか、こくんとうなずくその様も、なんともあどけなくて可愛い。
これが通常運転になってくれればな、と願いつつ、賢人は雛姫の手の引き看板の前に連れて行く。そこに置かれたベンチに彼女を座らせて、通りの斜め向かいにある自販機を指さした。
「オレ、あそこで何か飲むものでも買ってくるから、ちょっとここで待ってて」
「じゃあ、私も――」
「や、走ったらすぐだし、雛姫は何がいい?」
雛姫を一人にしておくのは嫌だが、観覧車に並び始めてからずっと立ちっ放しだったから、少し休ませてやりたい。
目顔で答えを求める賢人に彼女は何か言いかけて、やめる。言い合うよりも、逆らわずに従う方がいいと思ったようだ。
「……紅茶がいいな」
言いながら彼女が差し出した百円玉二枚を無視して、賢人は踵を返した。
「了解。ちょっと待ってて」
賢人は人込みを擦り抜け、自販機に急ぐ。まず、自分の分のコーヒーを買い、次に雛姫の為の紅茶を押す。そこで何気なく振り返って彼女の様子を確認しようとした。
が、目に入ってきた光景に歯ぎしりする。
「あ、くそ」
ほんの数分だというのに、雛姫が座っているはずのベンチの前には二人組の男が立っていた。
「ホント、油断も隙もない」
賢人は缶ジュースをポケットにねじ込み、全力疾走でそちらに戻る。
「――ねぇ、そのお友達も一緒でいいからさ」
「そうそう。あそうだ。夕飯、夕飯おごるから」
にやけた声は、そんなことを言っていた。
賢人はその二人の真後ろに立って、声をかける。
「ちょっと、その『お友達』って、オレのことだけど?」
「はぁ?」
胡乱げな声と共に振り返った野郎二人は、最初賢人の喉元に置いた目線をツイと上に滑らせた。自分たちよりも頭半分は背が高い彼に、若干怯んだ顔になる。多分、威嚇を含んだ笑みも、その一因だろう。
「あ、えっと……そうなんだ」
「や、邪魔して悪かったね」
ナンパ男どもはしどろもどろにそう言って、そそくさと立ち去っていく。
すがめた目でそれを見送り、完全に消え失せるのを待って、賢人は雛姫の前にしゃがみ込んだ。彼女の表情は、少し、硬い。
(くそ、せっかく緩んでたのに)
あいつらのせいで、また、殻に閉じこもってしまいそうだ。
「ごめん」
ポケットから取り出した紅茶の蓋を開け、それを渡しながら謝ると、雛姫の眉が微かに寄る。
「何で、舘くんが謝るの?」
「や、一人にしたから」
「そんなの……舘くんが悪いことなんて、何もないよ」
ほんの少し、本当にほんの少しだけ、雛姫のその頬が綻んだ気がした。
賢人は、グッと息を詰める。
(今、笑ったか……? いや、違うか……?)
何とも言えない。
何とも言えないので、賢人は願望充足を兼ねて笑ってくれたことにした。
見上げると、春日が乗っていると思しきゴンドラはまだ十時の辺りにある。下りきるには、もう少しかかりそうだ。
雛姫を緊張させずに残り時間を二人きりで過ごすにはどうしたらいいだろう。
んーと考え、賢人はすぐに最高の手を思いつく。
「そう言えばさ、あの猫のこと覚えてるか?」
「猫?」
「ほら、雨の日の」
どうやらネタ振りとしては最高のものを選べたらしい。
次の瞬間、パッと雛姫の顔が明るくなった。
「うん、覚えてる。元気?」
「うちでは飼ってないんだけど、兄貴の友達がもらってくれたんだ。たまに写真送ってくれる」
言いながら賢人はスマホを操作してフォルダーに保存しておいた写真を出した。いつか必ず雛姫に見せられる時が来ると思っていたから、パソコンに移すこともせずに入れっぱなしにしてあったのだ。希望を信じていて良かったと、賢人はにんまりする。
写真は新しい順に保存しているから、真っ先に出たのはほんの数日前に送られてきたばかりのものだ。
「わぁ、大きくなってる」
声を上げた雛姫は目を輝かせたままクルリと首を巡らせて賢人を見る。
それは、破壊力抜群、だった。
危うくスマホを放り投げて雛姫のことを抱き締めそうになったが、ギリギリのところで、彼女の声が正気を取り戻させてくれる。
「他に、ある?」
「あ、ああ……あるよ」
期待に満ち満ちたその眼差しに押されるように、賢人はぎこちない動きで画面をスワイプさせた。雛姫の目がまた彼の手元に落ちたが、スマホを覗き込むようにして身を寄せてくるから、彼の理性は崖っぷちに置かれた平均台を歩いているにも等しい状態に陥った。
ふわりと漂う甘い香りが、ヤバ過ぎる。
指先で軽く小突かれたら、真っ逆さまにピンク色をした底なし沼に落ちてしまうだろう。
――そうならないように、賢人はとにかく淡々と指を滑らせる。
新しい写真が映し出されるたびに声を上げる雛姫の横顔を見つめながら、ふと彼は思った。
(これが、本来の雛姫なんだろうな)
春日が言っていた、屈託のない、朗らかな少女。
三年前にあった何かのせいで分厚い壁の向こうに隠れてしまった雛姫の、本当の、姿。
きっと、今賢人の隣に座っているのが、そうなのだ。
ジッと見入っているとその視線に気付いたのか、ふと雛姫が目を上げる。
(あ、しまった……)
視線が絡んだ瞬間、スッと彼女の中でシャッターが下りたのが判った。
「写真、ありがと」
つぶやくようにそう言って、雛姫が離れていく。ジリジリずれて人一人が座れるほどの距離を取った後、何かをごまかすように彼女は紅茶を飲み始めた。
そんな雛姫を横目で眺めながら、賢人もコーヒーをすする。
多分、今日はもうあの彼女を見せてくれることはないだろう。
しかし、再び閉じこもってしまったことは残念ではあったけれども、ほんの束の間とはいえ彼女の本来の姿を見られて良かったと賢人は思った。ただ単に引っ込んでいるだけで、いなくなったわけではない――それが、判った。
隠れただけなら、また引っ張り出せばいいだけだ。
だが、それにはどうしたらいいのだろう。
(やっぱり、三年前にあったこと、だな)
いずれ、それを訊き出さなければならない。
訊き出さなければならないが、無理やりにはしたくない。
(いつか、雛姫の方から話してくれるかな)
できれば、そうして欲しい。自分の中の傷を見せてくれるほど、彼のことを信頼してくれるようになって欲しい。
賢人はコーヒーを口に運びながらそっと雛姫のことを窺った。
表情を消した、その、横顔。
彼の目には、もう一つの彼女の顔が、そこに被って見える。
やがて観覧車を降りた春日が能天気な声をかけてくるまで、賢人は、いずれ雛姫が浮かべることになるはずの満面の笑みを心に思い浮かべていた。




