腕の中の小さな温もり
やがて現れた警察は、歩道を歩いていた奈美に、凍結した路面で滑った車が突っ込んできたらしいと説明してくれた。病院に到着した時には、もうほとんど手が付けられないような状態だったのだと。
それからは、あまり良く覚えていない。
多分、病院が手配してくれた葬儀社が、あれこれ進めてくれたのだと思う。
気付いたら、通夜が終わり、葬式も終わり、小さいテーブルにのせられた壺と写真を家族みんなでぼんやりと見つめていた。いや、正確には、聖人と勝之は、か。賢人と優人の二人はそれぞれ聖人と勝之の膝に頭を乗せて眠り込んでいたから。
もう深夜を過ぎているし、丸一日以上、バタバタしていたのだ。子どもたちにはもう限界だったのだろう。
突然のこと過ぎて理解できなかったのか、あるいは理解の許容量を超えたのか、二人とも、粛々と式に臨んで、何時間でも正座でジッとしていた。生真面目な優人はともかく普段うるさい賢人ですら。
(こいつらの世話、してやらないとな)
それは聖人の身に滲みついた習性のようなものだ。
奈美にそう遺されたわけではなかったけれど、弟二人の面倒を見ることは、自分の義務だと思った。
「父さん」
声をかけても、反応がない。
「父さん!」
もう一度呼びかけると、彼はビクリと肩を震わせた。
「ああ、ごめん。なんだい?」
暗く濁った眼が、聖人に向けられる。それから逃れるように、弟たちに顎をしゃくった。
「こいつら、寝かせてやらないと」
「あ……うん、そうだね」
そう言って、勝之は下手くそな操り人形のようにのろのろと立ち上がって優人を抱き上げる。彼に続いて聖人も自分の膝の上の賢人を抱き上げ、二人が使っている子ども部屋に運んだ。
服を脱がせてパジャマを着せても、子どもの深い眠りはビクともしない。
布団を被せて、電気を消して。
部屋を出ようとしても、父は優人のベッドのわきに佇んだままだった。
「父――」
聖人は声をかけかけて、やめる。一人で部屋を出て、リビングに向かった。
また目に入る、母の写真と、白い箱。
聖人は視線を引き剥がすようにして、それから目を逸らす。
もうとっくに、普段の就寝時間を越えている。だが、自分の部屋に戻ったところで、眠れるとは思えなかった。横になって目を閉じることすら、嫌だ。
聖人はふとカーテンが開いたままのガラス戸に目を向けた。頭よりも先に身体が動いて部屋を横切り、縁側に出る。
その縁側は、家を建てる時に母が絶対に譲らなかったものの一つだ。陽が当たる縁側で洗濯物をたたみたいのだと。
聖人は束の間そこに佇んでから、氷でできているかのように冷え切った濡れ縁に腰を下ろした。膝の上に両肘を置いて、蒼く輝く月を見上げた。しばらく見るともなしにそれを見て、こうべを垂れる。
シンシンと、二月の真夜中の冷気が身体の芯まで沁み込んでいく。
着ているのは高校の制服だけだから、寒い――はずだけれども、感じない。
どれくらいそうしていたのか、判らない。
不意に、肩に何かがかけられた。
(母さん?)
ハッと顔を上げた聖人の目に入ってきたのは、母よりもずっと小さい、少女の姿。白いフワフワのセーターが、月明りを映しているせいか輝きを帯びているように見える。
ふと肩に目を遣れば、かけられているのは、動物のキャラクターがプリントされた、ピンク色のケットだ。
「ほ――」
喉が詰まって、咳払いをする。
「蛍?」
嗄れた声で名前を呼ぶと、蛍は何も言わずに聖人の隣に座った。身体の横をピタリと彼に付けて――まるで、冷え切った聖人に自分の体温を分け与えようとしているかのように。
実際、じきにじんわりと彼女の温もりが凍えた聖人のわき腹に伝わってきた。
その温度が、彼を現実に引き戻す。
蛍がこぼした吐息が暗い中に白く浮かび、聖人は瞬きをした。この寒空、下手をしたら凍死するレベルだ。
「お前、家に戻れよ。風邪ひくだろ」
だが、蛍はジッと聖人を見つめてから、小さくかぶりを振った。そうして、いっそう身体を押し付けてくる。
慰めの言葉をかけるでもなく、蛍は、ただ、そこにいた。
本当に、ただ、そこにいるだけ――だが、確かに温かいのだ、その存在は。
今は、その温度が、手放しがたい。
ほ、と聖人は息をついた。
そして手を伸ばし、蛍を持ち上げ、脚の間に移す。こんなふうに彼女に触れるのは、初めてだ。ほとんど毎日舘家にいるけれど、どちらかというと彼女は奈美の相手であって、聖人は二人の遣り取りを横で眺めているだけだった。
聖人は肩からずり落ちかけていたケットを被り直し、自分ごと蛍を包み込んだ。丸い頭がちょうど彼の顎の下にはまって、妙にしっくりとくる。まるで、いるべくしてここに――彼の腕の中にいるかのように。
こんなふうに、小さく柔らかく温かなものを抱き締めていると、聖人の中に冷たく凝った何かがほどけていくような気がした。
腕の中に包み込んだ蛍は、思ったよりも遥かに華奢で、出会ったときから変わっていないように思えるほどだ。仔猫を抱き上げたときをほうふつさせるその感触は、儚く脆い。
けれど、この小さな存在が、驚くほどに聖人の心を和らげ、落ち着かせてくれた。完全に停止していた思考が、ゆるゆると動き始める。
「俺、医者になろうかな」
不意に、そんな台詞が口からこぼれ落ちた。
そして、口にしてから、気付く。
奈美を喪って、今、一番強い感情は『怒り』ではないかと。
凍った道路で車が滑ってしまったことは、仕方がない。
奈美がたまたまその瞬間にその場所を通ってしまったことも、仕方がない。
けれど、母の死に納得がいかない。こんなに科学も医学も発展した現代で、どうして母は事故ごときで死んだのか、もっと何かができたのではないかと、そんなふうに思ってしまう。
「俺、医者になるわ」
もう一度、さっきよりもはっきりとそう口にすると、急にその考えは現実味を帯びた。
繰り返したその台詞に、腕の中で、蛍が微かにうなずいた気がした。けれど、気のせいかもしれない。単に、自分の考えを肯定し、賛同して欲しかったから、そう感じたのかも。
それでも、気のせいだったかもしれないそのわずかな動きで、聖人の心が決まる。
医者になって、母に起きたことを理解しよう、と。
その時、ふと、胸にかかる重さが変わる。
「蛍?」
覗き込むと彼女の目蓋は閉じていて、寒さで切らせていた息は、いつしか穏やかな寝息に変わっていた。
蛍は、聖人の胸に全てを預けるようにして深い眠りに落ちている。その唐突で子どもらしい眠り方に、彼は思わず苦笑をこぼした。そんな無防備さは信頼の証のように思えて、妙に胸の奥が温もる。
長い睫毛が丸い頬に落とす影を、聖人はしげしげと見つめた。そして、気付く。そこに残る、涙の痕に。鼻が紅いのも、きっと寒いせいだけではないのだろう。
ふいに、彼女をきつく抱き締めたい衝動に駆られた。
蛍は、とても、幼い。
幼いが、それでいて、とても敏い。
奈美は、蛍にとってほとんど第二の母と言ってもいいような存在のはずで、彼女だって悲しくないはずがないのだ。
けれど、蛍は、自分の悲しみよりも聖人のそれを優先させた。
その時、唐突に、聖人は彼女のことを『守りたい』と思った。それは、弟たちに向ける『守るべき』とは少し違う気がする。
だが。
(何がどう違うんだ?)
自問したが、判らない。判らなかったが――どうしてか、判らない方がいいような気がした。
*
それからも、変わらず蛍は舘家に通ってきたが、以前とは何かが少し違っていた。
流石に男所帯に泊まることはなくなって、奈美の代わりに食事を作るようになった。
初めのうちは、奈美と一緒に作っていた味噌汁とご飯と卵焼きやら焼き魚やらのローテーション。レパートリーは次第に増えていき、やがて立派な『ご馳走』が整うようになる。
蛍は、奈美という太陽が隠れてしまった舘家の、小さな灯になった。
むっつりと沈み込んでいた勝之や賢人も、元から朗らかとは言い難かった優人も、徐々にその表情を和らげていった。
――ゆっくりと流れる年月の中、そうやって目に見えること以外に、聖人の心の中という水面下でも、じわりじわりと変化が生じつつあることに気づいた者は、恐らく、いなかった。




