朝の日課
「おはよう雛姫好きだよ付き合って」
少し早めの時間、まだ人気がまばらな玄関で顔を合わせるなりそう言った賢人に梁川雛姫が返してくるのは、『無表情』だ。いや、実際には長い前髪に隠されていてその気持ちを物語る眼はほとんど見えないのだが、華奢な全身から、「何言ってるの」という声が伝わってくるのはきっと気のせいじゃない。
(このツンぶりもイイよなぁ)
毎朝毎朝繰り返しているが、雛姫の反応も毎回同じで、その微笑ましさに賢人は思わず顔が緩む。
「おはよう、舘君」
冷気を醸し出す雛姫の代わりに言葉で答えてくれたのは、雛姫の友人の春日小春だ。肩までのストレート、いわゆるおかっぱ頭に眼鏡をかけている。
二人とも賢人と同じクラスだが、どちらも目立たないタイプだ。正直なところ、クラスが一緒になって二ヶ月の間、彼は二人がいることにすら、気付いていなかった。
「おはよ、春日」
賢人は小春に返して、また雛姫に目を戻す。長身の彼よりも頭一つ分小さいから、長い前髪と相まって、そのままだと彼女の表情はさっぱり読み取れない。なので賢人は軽く身を屈めて、その前髪の隙間を覗き込んだ。
「おはよ、雛姫」
「……おはよう、舘くん」
かろうじて聞き取れるほどの大きさの、けれど、銀の鈴を振るうような透き通った声。
うっとりと聞き惚れながら賢人が笑顔を返すと、気まずげに目を逸らすのが感じられた。
反応が乏しい雛姫だが、こうやって彼が若干強引に迫ると、かなり渋々ながらではあるものの、ちゃんと応じてくれる――というよりも、基本、無視とかそういう礼を失したことはできないタイプなのだと思う。一ヶ月弱ほど彼女を見てきて、賢人にも何となくその人となりが見えてきた。
梁川雛姫は、押しに弱い。強く押すほど、反応が得られる――というよりも、反応せずにはいられないらしい。
それに気付いて以来、賢人は遠慮なくそこに付け込んでいる。
(まあ、『おはよう』『さようなら』くらいしか応えてくんないけどな)
一日一回の告白も素通りどころか微妙に嫌そうだ。まあ、好意を持っていない相手に好きと言われて嬉しく思えるものでもないのかもしれないが。
今も、雛姫はさっさと身を翻して離れていこうとしていた。
(釣れないよなぁ……そういうところも可愛いけど)
興味がないからというよりも、逃げようとしている、という風情のその背を見送りながら、つい、ニヤニヤしてしまう。
逃げるということは賢人をなんらかの『脅威』と受け止めているということで、それはつまり、彼のことを意識しているということになる。雛姫の中に、着実に、賢人という存在が滲み込んでいっている証拠だ。
(逃げられると、余計に燃えちゃうけどね)
毎日毎朝、こうやって背を向けられるたびに彼はどうにもそわそわしてしまう。
自分でも知らずにいたが、どうやら、自分は追われるよりも追う方が好きらしい。特に雛姫に対しては見ていたいし傍にいたいし、チラリとでも彼女が視線をくれたら我ながらバカだよなと思うほど、嬉しくなる。
人付き合いは広いが賢人は今まで雛姫に対するように誰かに執着したことはなくて、こんな自分が不思議で新鮮で、意外に、悪くないと思えた。
そうして、そんな自分に気付かせてくれた雛姫のことが、また、愛おしくなるのだ。
雛姫の背中は、もう、廊下の向こうだ。目で追っているとチラリと彼女が振り返り、その拍子に視線が絡んだ。雛姫はパッと前を向き、足を速める。
(ああ、もう、可愛い)
よくぞ、今まで誰の目にも留まらずいてくれたものだ。
賢人は自分の幸運に感謝する――もっとも、たとえ誰かのものになっていたとしても、指をくわえているつもりはなかったが。
賢人にとって幸いなことに、雛姫のクラスでの評判は、暗くて愛想がない、人嫌いで春日小春とくらいしか口をきいているところを見たことがない、というものだ。
だが、本当に人嫌いで冷たい人間なら、鬱陶しい賢人のことなど完全シカトしたらいい。にも拘らず、さっきのように、とことんまで冷たくはできないのだ、彼女は。
あの雨の日から一ヶ月弱。もう梅雨も明けた。
その間連日付きまとううち、表に出されている雛姫のその『冷たさ』に、彼はどこか違和感を覚えるようになっていた。
――これは、彼女がそう見せようとしているだけではないのか。
そう受け取ってしまうと、あの素っ気なさも可愛いとしか思えない。
(ま、オレのものになってくれるまでは、その方が都合がいいし)
賢人は内心でそう独り言ちた。
前髪で隠されているから今のところ誰にも知られていないが、雛姫はかなりの美少女だ――容姿的に。
月並みな表現だが、シミひとつない肌は陶磁器のように滑らかだとしか表現のしようがない。
長い前髪の下の黒目がちで大きな目はほんの少し目じりが下がっていて、実は睫毛がバシバシだ。絶対、マッチ棒が三本はのる。
鼻と口は小さめだけれども、唇は何も塗っていないのに綺麗な桜色をしていて、ふっくらつやつやだ。賢人はそれを見るたび、美味しそうだなと思う。舐めたら甘そうだ、と。
背中を流れる黒髪は見るからにサラサラで、有り得ないほど艶やかだ。
総じて人間離れした美少女っぷりで、多分そこらのアイドルなど足元にも及ばないレベルだと言っても過言ではない。
前髪もっさりの雛姫のことをどうしてそんなふうに言えるのかといえば、賢人は実際にその容貌を目の当たりにしたからだ。
あの雨の日の翌日、賢人は学校に来るとすぐに雛姫のもとに赴いて、まじまじと彼女のことを見つめてみた。けれどあの女の子が彼女かどうかはっきりしなかったから、ちょっと前髪を持ち上げてみたのだ。濡れていない雛姫の髪は驚くほど柔らかくて、その触り心地の良さは未だに彼の手に残っている。
賢人の突然の動きに目を丸くしている雛姫はもう齧りたくなるような愛らしさで、危うく彼女を抱き締めそうになった。すぐに我に返った雛姫が身を引かなかったら、実際にそうしていたかもしれない。
(あんなの晒してたら、他の奴らが放っとかないよな)
意図して雛姫が目立たないようにしているから、今のところ、誰も彼女のことに気づいていない。
だが、多少ツンツンしてようが、あの容姿が何かの拍子に知られてしまったら、見てくれに惹かれて野郎どもが群がるのは必至だ。そうなる前に、何としても自分のものにしておきたい。
賢人はそう目論んでいるのだが、障壁となっているのは、他の男の目を阻んでいるあの素っ気なさだ。あれは他人から興味を持たれないように、人と関わりを持たずに済むようにと雛姫が自分の周りに張り巡らせている『壁』なのだろうが、それが障壁となっているのは賢人も同じだ。どうしたらアレを越えられるのかが、今のところさっぱり判らない。
(そもそも、どうしてあんな態度を取っているんだ?)
これは賢人の直感に過ぎないが、雛姫はかなり無理をしてあんな自分を作っているのではないかと思う。だが、それはなんとなく感じ取れても、その理由が判らない。
(何か、嫌な事でもあったのか?)
――人との関わり合いの中で。
本気で考え込んだ賢人だったが、ふと視線を感じてそちらの方へ目を向けた。その視線の主は、春日小春だ。
目が合ってからも変わらず、いやいっそう、彼女はジッと賢人を見つめてくる。
まるで、彼の奥底にあるものを見出そうとしているかのように。
「……何?」
その眼差しの強さに眉根を寄せつつ、賢人は問いかける。それからたっぷり三秒間は彼のことを見つめてから、小春が口を開いた。
「これで何回目?」
「え?」
「『告白』。好きだ、付き合ってって」
「ああえっと、六月十五日からだから……十九回?」
取り敢えず、一日一回、朝の日課にしているから、日数イコール回数で合っているはずだ。
賢人の返事に、小春はちょっと怯んだ顔になった。それからまた、問いかけてくる。
「何で雛姫なの? 舘君、女の子にすごいモテてるじゃない。放っておいても尻尾振って仲良くしてくれる子、いくらでもいるでしょ?」
なかなか辛辣な物言いだ。
この春日小春という女子はおとなしげな顔をしている割に結構口は鋭いのだということを、このひと月弱の間の――一方的な――付き合いで賢人は理解している。
彼は小春にニッコリと笑顔を投げかけた。そして、答える。
「可愛いから」
その瞬間、彼女の眼差しがスッと細くなった。探るような色が消え、代わりに微かな失望のようなものがよぎって、失せる。
「ふぅん」
侮蔑に近いものを含んだ一言と一瞥を賢人に投げると、プイと顔を背け、小春は雛姫を追いかけて走り出した。
「なんか、怒らせたなぁ」
地雷は『可愛い』だろうか。色々ひっくるめてのその一言だったが、どうやら端折り過ぎだったらしい。
ポリポリと後ろ頭を掻いてつぶやいた賢人に、去って行った春日とちょうど入れ違いのようにして玄関に女子の集団が入ってきた。派手な子が目立つ、いわゆるスクールカーストの上位にいるグループだ。彼女たちは賢人を見つけて高い声を上げる。
「オハヨ、賢人! って、今の、春日さん? あんな子と何話してたの?」
「別に。朝のアイサツ」
「賢人、優しいからぁ」
言外に、あんな地味な子にも声かけてやるなんて、という声が聞こえる。
この手の遣り取りは、スルーしておくのが一番だ。
同意とも否定とも受け取れるヘラッとした笑みを返して、彼は教室への廊下を歩き出した。




