エピローグ
聖人は舘家のキッチンでクルクルと動き回る蛍の姿を目で追った。彼女の身のこなしはまるで背中に羽でも生えているかのようで、いつも以上に軽やかだ。
(あの子は、俺のものなんだ)
もう何度、胸の中でそうつぶやいたことか。
決して手に入れることは叶わないと思っていたから嬉しさはまだ聖人から離れたところにあって、そう、何というか、彼の頭の上あたりにプカプカと漂っているような感じがする。
だがそれは、誰が何と言おうと、紛れもない現実だ。
聖人はしばし『彼のものになった蛍』の姿を堪能してから、彼女に呼びかける。
「蛍」
その動きが止まり、長い髪を揺らして彼女が振り返った。
目が合うと、名前を呼んでくれたことが嬉しいとでも言わんばかりに、蛍がふわりと微笑む。その笑みに、聖人の中に温かく心地良いものが大きく膨らんだ。
「おいで」
招いた聖人のもとに、彼女はパタパタと可愛らしいスリッパの足音を響かせてやってくる。
「なぁに?」
聖人は小首をかしげた蛍の手を取り、腰を引き寄せ、自分の膝の上に座らせた。まだこの距離感に慣れないらしい彼女は、もじもじと身じろぎをする。
『恋人』は、普通、もっとスゴイこともするのだけどな、などと胸の中でつぶやきつつ、聖人は片手で蛍の頭を捕らえてこめかみの辺りに触れるだけのキスをした。それだけで、華奢な首まで真っ赤に染まる。
「おにぃ――聖人、さん」
ぎこちなく言い換えるその様は、たとえようもなく愛おしい。
彼を名前で呼ぶことは、想いが通じ合った後に聖人が真っ先に蛍に頼んだことだった。彼女はつまずきながらも懸命に彼の望みに応じようとしてくれている。彼の名前を口にするたび、頬を染めて。
すぐそばにある伏せ気味の目蓋にも、滑らかな頬にも、柔らかそうな耳たぶにも、ふっくらとした唇にも、キスをしたくてたまらない。
だが、聖人は自制する。彼はある決意をしたのだから。
彼を誘惑してやまない温かな肌の代わりにひと房彼女の髪をすくい取り、滑らかなそれに口付けた。
「えと、聖人さん……?」
困惑気味の、蛍の声。
目を上げると、声通りの眼差しがあった。
「ああ、悪い」
苦笑し、髪を手放す。そうして、彼女と目を合わせた。
「二つ、約束事をしようと思うんだ」
「約束事?」
耳を澄ます小鳥のように、蛍が首をかしげた。そんな彼女にうなずいて、聖人は続ける。
「ああ。まず一つ――お前が高校を卒業するまで、もうキス以上のことはしないよ」
「え……?」
蛍はキョトンとしている。
「残念?」
微かに開いた蛍の唇に指の背でそっと触れながら聖人がそう問うと、彼女はパシパシと目をしばたたかせ、そして勢いよくかぶりを振った。その頬は、これでもかというほど、紅い。
聖人は忍び笑いを漏らす。
「俺は残念だよ。でも、お前は、近くに居過ぎるんだ。いつでも手が届いてしまう。今までは、触れちゃいけない、お前にはその気がないんだからと思っていたからセーブできていたけどな。もう、その壁はないんだ。きっちり線引きをしておかないと、きっと、際限なく奪ってしまう」
さすがに、彼が意味するところが伝わったらしい。蛍は目を丸くして聖人を凝視している。その視線を受けながら、彼は苦笑した。
「正直、俺には自信がないんだよ。本当は、こうやって触れるのもやめた方がいいのかもしれないが……さすがにそれは、ムリだ。だから、触れるまでは許してくれ」
蛍は目を丸くしたままフルフルと首を振ったけれど、それが『許すよ』の意味なのか、『嫌だよ』の意味なのか、聖人には判らなかった。取り敢えず彼は前者と受け取り、次に話を進める。
「あともう一つ。蛍は、この家にかかずらい過ぎだと思うんだ」
彼の台詞に、蛍の眉間にしわが寄った。
「かかずらい、過ぎ?」
その眉間のしわにキスをしたいなと頭の片隅で思いつつ、聖人はうなずく。
「ああ。お前は、日曜は必ず朝からうちに来るだろう? それを減らして、もっと、高校の友達との時間を増やして欲しい」
「何で……? わたし、来たいよ?」
戸惑いの眼差しでそう言った蛍の頬を、聖人は、そっと指の背で撫でた。
「俺は蛍が来てくれるのが嬉しいし叶うことなら二十四時間お前と一緒にいられたら、と思うけど、この家が、ある意味蛍のことを縛ってしまっている気がするんだ。今まで俺はその事実を見て見ぬ振りをしてきたし、多分無意識のうちに、お前がこの家に――俺に縛り付けられていることを、望んでしまっていたんじゃないかと思う。お前が俺から離れていくことが、他の奴のところに行ってしまうことが、怖かったから」
「そんなこと、有り得ないよ!」
らしくなく高い声を出した蛍に、聖人は苦みの混じった笑みを返す。
「ああ、そうだな。今なら、俺もそう思える。でも、ずっと俺はお前にとって兄に過ぎないと思っていたから、いつだって不安だったんだ。蛍が他の男に掻っ攫われても、指をくわえてみているしかないと思っていたから」
彼は蛍の手を取って、桜色をした小さな爪に唇を寄せる。
「蛍は俺のことを『お前の全部』なんだって、言ってくれただろう? 正直、嬉しかった。頭がおかしくなるほど。でも、お前のことを大事に想っている俺は、本当はそれじゃいけないということも、判っているんだ」
「何で? 何でいけないの? わたしはそれでいいのに」
目を伏せつぶやくように言った蛍の顎を持ち上げ、聖人は目を合わせた。
「俺と出逢ったのが、お前が今の年になってからだったら、良かったんだ。でも、それは、お前がすごく小さかった時から始まっているだろう? 俺があの時声をかけたことで、ある意味、お前に他の――もっと広い世界に目を向けられなくさせてしまったのだと思う」
「そんなこと――ッ!」
反論を、人差し指一本で封じる。
「そんなこと、あるよ。だから、今からでも、お前に俺以外の世界にももっと目を向けるようにして欲しいんだ。もっと高校の友達と出掛けたりとか、この家に来る以外のことを、して欲しい」
蛍は聖人を睨み付けるようにして彼の言葉を聞いていたけれど、彼女の唇に押し当てられている彼の指を握ってどかし、言う。
「そうやって『他の世界』を見て、そこで違う人を好きになっちゃったら、どうするの?」
聖人は小さく笑い、彼の人差し指を掴んでいる蛍の手を開かせると、その掌に口付けた。
「もしもそうなったら、取り返すだけだよ。俺以上にお前を幸せにしたいと思う男は、きっといないから」
彼は蛍の手のひらに触れさせた唇を滑らせ、トクトクと脈打つ手首をついばむ。
「散々我慢に我慢を重ねて、ようやく、手に入れられたんだ。そう簡単には手放せない。俺がお前をもらうのは、もう決定事項だよ。でも、お前を狭い鳥籠に閉じ込めておくつもりもないんだ」
「……それって、なんだか、矛盾してる」
むぅっと唇を尖らせた蛍に、聖人は苦笑した。
「ああ、そうだな。でも、諦めてくれ」
蛍はまだ不満そうに唇を噛んでいたけれど、やがて小さく吐息をこぼした。
「……がんばってみる」
いかにも不承不承といった口調で言った蛍の頬は、少しばかり膨れていた。そんな彼女に、聖人の胸の中には叫び出したくなるような愛おしさが込み上げる。
(ああ、クソ、ダメだ)
衝動に負け、気付いた時には、きつく彼女を抱きすくめていた。
蛍はくすぐったそうに小さな笑いをこぼし、屈託なく頬を寄せてくる。聖人のことを信頼しきって無邪気に身を委ねる彼女に、彼は苦笑する。
――蛍が高校を卒業するまで、あと一年と少し。
その一年と少しの間に、彼女が色々な意味で自分に追いついてきてくれることを、聖人は心の底から、願った。
聖人と蛍のお話はおしまい、です。
お読みくださってありがとうございました。
次は次男賢人のお話になります。




