その想いは、ずっと、そこにあった
蛍は聖人が見つめる中で大きく息を吸い込み、そして吐き出した。硬直した彼に対して、何かに挑むような眼差しを向けてくる。
「わたし、お兄ちゃんにずっと守ってもらってた。でも、もう、そこから出ていく時期だと思うの」
「何を、急にそんなことを……」
訳が解らない聖人は、蛍を言いくるめる言葉も出てこない。
困惑で頭が飽和状態の彼の前で、蛍は小さく笑った。それは、苦笑に近いもので。
「うん、急だよね。わたしも、急に気づいちゃったから」
目を伏せ、つぶやくように言ったあと、蛍はまた彼に眼を向ける。
「前にも言ったことがあるよね、お兄ちゃんはわたしのお日さまだって。……お日さまで、わたしの、世界の全部、なの」
真っ直ぐな眼差し、そして、真っ直ぐな声、だった。
ほんの一瞬も揺らぐことなく、蛍はそれを聖人にぶつけてくる。だが、彼女のそんな言動に、聖人の中の混乱は増すばかりだ。
「でも、だったら、別に何も変える必要はないだろう? 俺は、お前を守りたいし構いたいんだ。別に、それがめんどくさいとかうっとうしいとか、思ったことなんかない」
それに、態度でもそう疑われるようなことをしたことはない――はずだ。
そう胸の中でつぶやいて、聖人はハタと気付いた。
いや、一度だけ、ある。
何でもないような顔をして蛍の傍にいるのが辛くて、彼女から逃げ出したことが。
「もしかして、俺が独り暮らしを始めたことか? あれが引っかかっているのか? でも、アレは別にお前とは関係ないし……」
口ごもった聖人を遮るように、蛍がかぶりを振った。
「あの事もきっかけだけど、原因じゃないよ」
「なんだよ、それ。全然、訳が解からない」
焦りで、つい、声が荒くなった。だが、聖人の苛立ちには気付いていない様子で、蛍が訥々と続ける。
「あの時、お兄ちゃんが行ってしまって、すごく寂しかった。賢人くんも優人くんもいるのに、なんでこんなに寂しいんだろうって、思ってた」
また、苦笑。
「あの時はね、まだ、気付いていなかったの。普通に、ずっと傍にいてくれた大好きな人が離れて行っちゃったのだから、寂しくて当然だよねって、思って――自分を納得させてた」
言葉通りに寂しさで曇るその声に、聖人は拳を固める。
「あれには、ちゃんと理由があったんだ」
聖人の中に日に日に募っていっていた蛍への想いから、彼女を守るという理由が。
だが、たとえどれほど胸の中で叫んでいても、それを口にする勇気が、聖人には持てなかったのだ。
軋む声での彼の台詞に、蛍はこくりとうなずく。
「うん、だって、お兄ちゃんにはお兄ちゃんの生活があるんだし。わたしのせいでそれを変えちゃったら、いけないよ。そんな権利、わたしには、ない」
淡々と、だがきっぱりと吐き出された、その台詞。
聖人はとっさに大声で否定しそうになった。それを抑えて、言う。
「あるよ。お前には、その権利が、ある」
低いけれども確かな思いを込めて告げた言葉を、しかし、蛍は一蹴した。
「ないよ」
「蛍……」
「――あのね、大学に入ってから、お兄ちゃん、たくさんの女の人とお付き合いしてたでしょう?」
軽く首をかしげてそう問われ、聖人はグッと喉を詰める。
「ッ! なんで、それ……」
「賢人くんが、教えてくれたの」
「あの、クソガキ」
呻いたが、もちろん諸悪の根源に届くわけもなく。
彼女の言葉を、聖人は、ある部分では否定することができる。『付き合った』という部分は。
大学に入ってから、翔の伝手で合コンを繰り返した。誰か他に好きな女性ができれば、蛍を近くに感じた時に込み上げる胸騒ぎを、消し去ることができると思っていたから。その中の何人かとは、身体の関係も持った。
だが、駄目だった。
そこそこ距離が縮まった相手も、いや、距離が縮まった相手ほど、聖人の中に誰か他の存在がいることに気付いて離れていった。ひと月と持たない関係を繰り返すうち、聖人には遊び人の称号が与えられ、それに気づいて新しい関係を築くことは諦めた。代わりに、蛍から物理的な距離を取ることを選んだのだ。
そんな、聖人自身はすっかり忘れ去っていた過去の愚行を突き付けられて、ぐうの音も出ない。
黙り込んでいる彼をどこか諦めを含んだ悲しげな眼差しで見つめ、蛍は片手を上げて自分の胸に押し当てた。
「そういうお話を聞くたんびに、ここがね、すごく苦しくなったの。でも、どうして苦しいのかも、その時はまだ、判らなかった」
囁き声でそう言った蛍は一度視線を落とし、また、目を上げた。
「それがね、この間、ようやく判ったよ」
「え?」
「どうして、お兄ちゃんが傍にいなくなってしまって、あんなに寂しかったのか。どうして、お兄ちゃんが他の人とお付き合いしているお話を聞くと、苦しくなったのか」
蛍は大きく息を吸い込む。
「わたしね、お兄ちゃんのことが好きなの。男の人として。だから、『お兄さん』なんて思えないし、もう前みたいに傍にはいられないの。いると、余計につらくなるから」
「ほた――」
思わず聖人が一歩詰め寄ると、蛍は一歩後ずさった。そして態度だけでなく言葉でも彼が近づくことを拒むように、きっぱりとした声を上げる。
「いいの、解ってる。お兄ちゃんは、わたしのこと、妹とか、守ってあげないといけない小さい子どもだとか、そんなふうに思ってるんだよね」
蛍の顔に浮かんだ笑み。今にも、泣き出しそうな。
「でも、わたし、お兄ちゃんの妹じゃないよ。それに、何も解ってなかった小さい子でもないの。あの夜お兄ちゃんにキスされて、それをとてもうれしいと思ってしまって、気付いちゃったの。解っちゃったの。わたしはお兄ちゃんのことが好きなんだって。本当は、もうずっと前から好きだったんだって。だから……だから、傍にいるのが、もう、つらいの!」
一気にまくしたて、最後の一言を聖人に叩きつけるなり踵を返して走り出した蛍の背中を、彼は一瞬見送った。が、すぐに我に返る。
「ちょっと待てよ、なんだよ、それ」
呻きながら地を蹴った。
さして開いていなかった距離はあっという間に縮まって、伸ばした聖人の手が蛍の肩にかかる。グイとそれを引き寄せると、バランスを崩した彼女が胸の中に落ちてきた。間髪入れずに、聖人は全身で包み込むようにして彼女を抱き締める。
「や……ッ」
もがいた蛍に、聖人はいっそう腕に力を籠めた。
彼の口のすぐそばにある彼女の小さな耳に一言一言を注ぐように、囁きかける。
「俺も、お前のことが好きなんだ。妹とかではなく、一人の女の子として」
一瞬蛍の動きが止まり、次いで、それまで以上に暴れ始める。
「そういうの、いい! いらない!」
「蛍!」
「解ってる! それって、同情だよね!」
「違う、クソ」
罵り、聖人は片手で蛍の顎を捕らえる。グイと仰向けさせ、そこに覆い被さる。
「でも、いらな――!」
ふつりと、その場にしじまが戻った。蛍の唇が、聖人の唇で、塞がれたから。
聖人の胸を蛍の拳が叩いたが、彼はそれも封じ込めた。
どれほど時が流れたことか。
ほんの一瞬だった気もするし、何時間も過ぎた気もした。
いつしか腕の中の蛍の身体からは力が失せていて、抱きすくめている聖人の腕にかろうじて支えられている状態になっていた。
彼は、ふ、と唇を放し、ぐったりともたれてきた蛍の後ろ頭に手を添えて自分の胸に押し付ける。
「お前は、何も解ってない」
大きくため息をこぼしてから、聖人は囁いた。
息を切らしている彼女のつむじにキスをしてから、続ける。
「俺の方が、先なんだ」
聖人の呟きに、蛍はトロリと呆けた眼差しをもの問いたげに持ち上げた。彼は小さく咳払いをしてから、言葉を継ぐ。
「最初に俺の中の蛍の存在が変わったのは、母さんが死んだ時だ。あの夜、蛍がいてくれて、俺は救われた。あの時から、お前は俺にとって隣に住んでる女の子じゃなくなった。俺にとって特別な――特別大事な、女の子になったんだ」
聖人は少し腕の力を緩めて、蛍の顔を覗き込む。
その眼の中には、まだ、半信半疑の色が濃い。
「もちろん、その時は『特別』ではあったけど、まだ、恋愛感情じゃなかったよ。でも、とにかく蛍のことが大事で、愛おしくて、守ってやりたくて仕方がなかった」
蛍が、困惑気味に瞬きをする。
そんな彼女にクスリと笑って、聖人は頬にかかる長い髪をそっと指先でよけてやった。
「でも、最初はそんな気持ちで始まった想いが、段々、変わっていってしまったんだ。ただ愛おしいとか、守ってやりたいとかだけではないものに。俺はお前を独り占めしたくて、触れたくて――だから、家を出たんだよ。蛍を傷付けたくなかったから」
「わたし、を? なんで……?」
本気で解っていない様子の蛍に、思わず、聖人の口から苦笑が漏れた。
「そう問い返してくるお前だから、近くにいられなかったんだよ」
もう一度、彼は蛍を抱きすくめて、彼女の視界から自分を消す。
「蛍が自分の気持ちに気付くずっと前から、俺はお前を女の子として見ていた。この間キスをしてしまったのは、ずっとしたくてたまらなかったからだ。かろうじてその気持ちを抑え込めていたのに、気持ちが弱ったせいで、タガが吹っ飛んだ。でも、したいのはキスだけじゃない。俺はお前の――全部が欲しい。ずっと、そう思っていた。でも、蛍にそんな気持ちがないことを、蛍にとって俺は兄でしかないことを知っていたから、ずっと、胸の底に閉じ込めていたんだ」
「おにい――」
蛍のつぶやきを、柔らかな唇にそっと親指を押し当てて封じる。
「その呼び方も、苦しかった」
「え?」
「蛍は、賢人や優人のことは名前で呼ぶだろう? 俺だけ『お兄ちゃん』だ。それが、お前の中の俺の立ち位置をはっきりと示していると思っていた」
「あ……ごめん、なさい」
聖人は忍び笑いを漏らして、蛍のこめかみに口付ける。
「お互い、とんだ遠回りだ。でも、もういいんだよな? 俺がお前のことを好きだと言っても?」
目を丸くして聖人を見つめている蛍の頬が、じわじわと紅く染まっていく。声を出せずにただコクリとうなずいた彼女を、聖人はまた、きつく抱き締めた。




