全てを変えた日
もうじき聖人が高校二年生を終えようとしていたその冬は、全国的に強い冷え込みに襲われた。
舘家が居を構える関東地方も例外ではなく、特にその日は雪がちらついてもおかしくないほどの寒さだった。日陰の水たまりがツルツルに凍り付いていたりして、聖人も何度か滑りかけた。
少々ものを考えながら歩いていたから、余計に足元がおぼつかなかったのかもしれない。
年も明けたこの時期、彼もそろそろ来年度――受験のことを考えなければいけなくなる。クラスは無難に国立理系受験コースを選んだけれど、正直、将来何になるかなどまだ決まっていない。
聖人は学年でも成績上位にいて、まだそれほど勉強に力を入れていない今の時点でも、私立だろうが国立だろうが、理系だろうが文系だろうが、たいていの大学は受かるだろうと教師からは太鼓判をもらっている。自分のやりたい道を好きに選んだらいいと言われるが、それが決まっていないから困っているのだ。
(適当に大学卒業して、どこか企業に勤めて……)
まあ、そんなものなのだろう。
物心つく前から両親の仲睦まじさを嫌というほど見せつけられてきたせいか、結婚願望は結構ある。弟たちの世話を焼いてきたのが身に沁みついているから、子どもの世話も割と好きだ。
上を目指して仕事をバリバリという自分よりも、どちらかというと、休日に家族と過ごしている自分の方が、イメージが湧く。
「まあ、取り敢えず大学、でいいかな、やっぱ」
そうつぶやいた時、背中をバシッと叩かれる。
「てッ!」
声を上げて振り返ると、そこにいたのは友人の翔だった。
「おはよう。何ブツブツ言ってんの?」
「お前さぁ、もうちょっと力加減とかできないわけ?」
「あ、ごめんごめん、痛かった?」
咎めた聖人に翔はヘラヘラと返した。反省の色は皆無だ。
この友人はこういう奴で、聖人は仕方がないと、ため息混じりに諦める。
「で、何なん?」
「何って?」
「何か言ってたじゃんか」
「ああ。受験のことだよ。どうしようかと思ってさ」
肩をすくめて返すと、翔は眉を上げた。
「そんなクソまじめに考えなくたっていいだろ? お前ならより取り見取りじゃん。適当に有名どこの私立文系行って、遊び倒して、いいとこ勤めたらいいだろ」
――ついさっき、自分も同じようなことを考えた気がするが、この友人の口から出るとものすごいクズの発言に聞こえる。
聖人の冷ややかな視線などまったく斟酌せず、翔が夢見る眼差しで続ける。
「私立文系なら女の子だっていっぱいだろ? サークル入って、独り暮らししてさぁ、もう、やりたい放題じゃんか。おっと、バイトも忘れちゃいけねぇな。高校卒業したらオトナなバイトも選び放題だろ? そこでまた、新たな出会いがあったりして」
「お前はもうちょっと真面目に考えた方がいいんじゃないのか? 親の金で行くんだろ?」
「そうだけど、ほら、あれだよ。えっと……モラトラム、だっけ?」
「それを言うならモラトリアム、だろ」
「そう、それ。そこを経て、オレは蝶になるんだよ」
翔は両手を胸に当て、空を仰ぎ見る。
今でも充分頭の中は羽ばたいてるだろ、と胸の内でツッコミを入れつつ、聖人はへぇとか何とか適当な相槌だけを返した。
そうこうしているうちに学校に着き、授業が始まる。
それは、いつも通りの朝だった。
だが。
一時限目が始まって、まだ十分と経たない頃。
不意に教室の前方の扉が開く。
顔をのぞかせたのは教頭で、教師と生徒がポカンと見つめる中、何も言わずに室内をキョロキョロと見回した。
何事だろうと眉をひそめていた聖人と目が合うと、彼は一瞬だけ顔を曇らせ、すぐにまたそれを消し去った。
「舘聖人君だね? ちょっと来なさい」
「え、俺ですか?」
呼ばれたことも驚きだが、教頭に名前を知られていたことも驚きだ。
聖人は面食らったものの顔には出さず、黙って立ち上がる。そのまま教頭のもとへ向かおうとしたら、止められた。
「ああ、荷物も持って」
(いったい、何なんだ?)
訳が解らないまま、机の上のものをカバンに入れて教室を出た。
二人きりになると、教頭は少し言い淀み、それから口を開く。
「お母さんが事故に遭われて霞谷病院に運ばれたらしい。すぐに向かいなさい。タクシーはもう呼んであるから。保健室の先生がついていってくれるよ」
せかせかと一気にそう言った教頭の顔は暗く、聖人の胸の中に嫌な予感が込み上げてくる。
「その、たいした事故じゃないんですよね?」
「私には――わからない。とにかく病院へ行きなさい。お父さんたちも向っているはずだから」
ほとんど背中を押されるようにして玄関に向かい、校門に来ていたタクシーに乗せられる。同乗していた養護教諭が何か言っているような気がしたけれど、耳が詰まっているようでよく聞き取れなかった。
病院に着いて名前を言うと、すぐに救急外来に案内された。受付の人の顔から何が起きているのか読み取ろうとしたけれど、さっぱりだ。
人が行き交う廊下を進んで辿り着いた救急外来の待合には、父の勝之がいた。昼間のせいかそこだけは人の姿はまばらで、勝之は頭を抱えて床を見つめている。
「父さん」
声をかけると、まるで頭を殴られたかのような勢いで顔が上がった。
「……聖人」
それきり、何も言わない。父の顔にいつでも絶えることなく浮かんでいる笑顔が今はなく、まるで、死人のようだった。
そう思ってしまってから、聖人はドキリとする。
「母さんは?」
「……」
「どこにいるの?」
「……」
勝之は無言で立ち上がり、小さな戸口をくぐった。中では、医者や看護師が忙しく立ち働いている。
結構な広さがあるその部屋の中に、ベッドが三台。それぞれの間は、パーテーションで遮られている。
どれも人が横たわっているらしかったけれど、医者が付いているのは両端の二台だけのようだった。勝之は、その、しんと静まり返った真ん中のベッドに近付いていく。他は電子音やら人の声やらでうるさいくらいなのに、そのベッドだけが、静かだ。テレビでよく見る心電図とかの器械も、黒い画面だ。
聖人は、ホッとする。
(何だ、大丈夫なんじゃんか)
寝ているのだと、思ったからだ。
治療が終わって、休んでいるのだと。
けれど、そうではなかった。
近づいて、顔を覗き込んで、呼びかける。
「母さん?」
何も、反応がない。
「母さん?」
もう一度。
けれど、やっぱり、応えはない。
代わりに、隣に立った勝之が、ボソリとつぶやいた。
「着いた時には、もう、ダメだったらしい」
「でも、さっき連絡もらったばっかだぞ、俺は」
多分、教頭が迎えに来てから三十分も経っていない。
「諦めるの、早過ぎだろ」
「仕方がないんだ」
「何だよ、それ」
呻くように言った聖人に、勝之は、言葉の形を変えて同じことを繰り返す。
「どうしようも、ないんだよ」
それきり、二人は交わす言葉を失った。




