兄だなんて
平井克美はさりげなく自分の分の代金をテーブルに残していた。あの状況でそこに気を回す余裕が、彼女にはあったようだ。もっとも、彼女は高みの見物を決め込んでいたようだから、さもありなん。
本当は蛍ともっとゆっくりするところに聖人が割り込んだ形になってしまったのに、支払いを持たせるのは申し訳ない気がする。だが、そうは言っても彼女の姿はもう跡形もなく、とりあえず彼は会計を済ませた。
「蛍、行こう」
衆人環視の中、聖人は蛍の手を取った。一瞬、振り払われるかと身構えてしまったが、興奮が醒めてむしろ放心しているのか、彼女はおとなしく手を握られるままになっている。
蛍の手を引いた聖人が向かったのは、駅から少し離れたところにある公園だ。天気の良い日曜日ということもあって、芝生が植えられた広場には、結構家族連れがいた。聖人はそこを通り抜ける。
何も言わずに歩く聖人に、蛍も同じように口をつぐんでうつむきがちについてくる。ともすれば遅れがちな彼女を肩越しに振り返って、そういえば、こんなふうに二人で外を歩いたことはなかったな、と聖人は思った。
聖人が中高生の頃は幼い少女を連れ歩くなど頭の片隅にもよぎらなかったし、蛍が中学生になった頃には、むしろ彼の方が彼女と距離を置いていたからだ。
聖人は、ふと、自分の手の中の温もりに意識を向ける。こうやって手をつなぐのも、初めてだ。蛍の手は握っているのが少し怖くなるほどに小さく華奢で、完全に、彼の手の中に納まってしまう。儚い小鳥を握っているようなその感覚に、思わず彼は手の力を緩める。と、パッと蛍が顔を上げた。
束の間視線が絡んだその眼の中に、不安めいたものがよぎった気がした。
(なんでだ?)
蛍はまた顔を伏せてしまっていて、もうその表情は読み取れない。
聖人は丸い頭の綺麗なつむじを見下ろして、眉根を寄せる。
(手を放されそうになったから……?)
あるいは、もしかしたら、さっきのは不安などではなくて、むしろようやく手を放してもらえるという安堵の光だったのかもしれない。
どちらなのだろう。
判断がつかないまま、聖人は自分の欲求を優先させることにした。
きつくなり過ぎないように、ジワリと、彼はまた手に力を籠める。と、手のひらに、蛍の指がピクリと震えるのが伝わってきた。
それは、嫌悪からの反応だろうか。
聖人はうつむいている蛍の顔を上げさせて、その眼に浮かんでいるものを確かめたかった。だが、ふらりと上がりかけた彼のもう片方の手のその動きに、彼女の肩が微かに強張る。
(今は、とりあえず落ち着いて話せるところに行こう)
聖人は手を下ろし、拳に握り込む。そうして、また、歩き出した。
遊歩道を進み、やがて二人は少しひらけた場所にたどり着く。
ちょっとした展望台になっているところで、昼よりもむしろ夜に賑わう場所だ。ここまでくる家族連れは少なく、ちょうど昼飯時に差し掛かっていたこともあって、人影はまばらだった。
柵の近くまで行って、聖人は蛍を解放する。手が自由になった瞬間、彼女はそれを背中の後ろに回してしまった。
まるで、もう二度と握られたくないという意思表示であるかのようなその動きに、聖人は小さいとはいえないダメージを受ける。そんな自分の弱さ情けなさは嫌になるが、こと蛍が相手となると、八方手詰まり、五里霧中なのだから、仕方がなかろう。
地面を見つめ、頑なに彼を見ようとしない蛍を前にして、どう切り出していいか判らない。ましてや、今の素振りだ。
(とりあえず……)
そう、とりあえず、謝ろう。
無難なきっかけを見つけてホッとしながら、聖人は口を開く。
「その、悪かったな、邪魔をして」
蛍の肩が微かに動いたけれども、返事はない。
彼女の気持ちを読み取れず、聖人は足を踏みかえた。
「えっと、だけどな、危ないだろ、ネットで知り合った奴と会うとか。上っ面の遣り取りじゃ、そいつがどんな人間かとか、判らないんだから」
そう言いながら聖人の脳裏をよぎったのは、桐田のことだ。イイ人面をして、中身は腐ったロリコンだった男。
もう二度と、蛍にあんな輩を近づけたくはない。あんなふうに震えて泣く蛍を、二度と見たくなかった。
噛み締めるような口調で説いた聖人の前で、唐突に蛍が顔を振り上げる。その眼には、怒りと見まごう光がきらめいていた。
――いや、実際、怒っているらしい。
「わたしだって、そんなこと、ちゃんと判ってる」
投げつけるように、彼女はそう言った。聖人はムッと眉間にしわを寄せる。
「でも、実際会ってたじゃないか」
「賢人くんに相談したもの。最初の時は、一緒に来てもらったし。賢人くんなら、そういうの、間違えないから」
抑えた低い声で言い終えた蛍は、唇を引き結ぶ。
彼よりも頭一つ低い位置から文句があるかと言わんばかりに見上げてくる彼女の眼差しに、聖人は軽くめまいを覚える。
(ヤバい。可愛い)
今の蛍にうっかりそんな一言を漏らした日には、口をきいてもらえなくなるのは必至だ。
だが、さっきのカフェでも思ったが、怒っている蛍は新鮮で、へたりこみたくなるほどに、愛らしい。力いっぱい、抱き潰したくなるほどに。
(ちょっと待て、そんな場合じゃないから)
煩悩を咳払いで頭の奥に追いやって、聖人は意図して顔を引き締め蛍を見下ろす。
文句があるかと言われたら、もちろん、文句はあった。
主に、どうして彼にではなく賢人に相談したのか、と。
確かに、パソコンやらネットやらに詳しい優人が調査し、勘が鋭い賢人が実際に会って人となりを確認したというのなら、間違いはないのだろう。
だがやはり、賢人ではなく、自分に、真っ先に相談して欲しかった。
「アイツらは頼りになると思うよ。けどな、俺は、お前のことが心配なんだ。仕事とかであまり一緒にいてやれないけど、お前の為なら時間作るから」
そう言った瞬間、また、キッと蛍が睨みつけてくる。
(え、今の、地雷か?)
辛うじてそれは察したものの、自分の台詞のどこが失敗だったのかが、判らない。
戸惑う聖人に、蛍がきっぱりと告げる。
「そういうの、いらないよ」
「え?」
「お兄ちゃんのそういうの、もういらないの。そういう心配、もうして欲しくない」
「蛍……」
思わず手を伸ばすと、蛍は一歩後ずさった。聖人の『心配』だけでなく、彼の存在そのものを拒否するように。
彼女は顎を引き、だが、聖人から目を逸らすことなく、続ける。
「あの事だって――桐田さんのことだって、とっくの昔に乗り越えてる。わたしも少しは賢くなったし、強くなったと思う。色んなことに、もっと上手に対処できるようになってるから。お兄ちゃんが、わたしに余計な手間を割かなくても、いい。そうする必要なんて、ないから」
クッと顔を上げて、蛍が告げる。
「わたし、もうだいじょうぶだから」
まるでそれは、訣別の宣言のようだった。
蛍が、自分が離れていこうとしている。
そう思った瞬間、聖人の頭の中が真っ白になる。
「だ、けど、ほら、そんな遠慮とかしなくても、俺は――俺たちは、お前にとって兄弟みたいなものだろう?」
せめて、そのつながりだけは、切られたくない。
あれほど兄でいることが嫌だったのに、今はか細い命綱であるかのように、みっともなくもそれにすがる。
だが、蛍は唇を噛み、そんな彼から視線を逸らした。
そして。
「――――ない」
かすれた囁き声は、聖人の耳に届かない。
「え?」
眉をひそめた彼の前で、蛍がまた顔を上げる。
「わたしは、お兄ちゃんのこと、『お兄さん』とか、もう思ってない」
「ほた――」
「わたしは、お兄ちゃんのこと、兄弟なんて、思えない」
「ッ!」
真っ直ぐに聖人を見返して放たれたその台詞は、吸血鬼の心臓に打ち込まれる杭さながらに、彼の胸にぐさりと突き刺さった。




