失えない存在
どうにか正気を取り戻して職場に向かった聖人は、若干ギリギリ加減で朝のカンファレンスの集団に滑り込んだ。
今日の彼は救急外来ではなく病棟――集中治療室の担当だ。聖人を含む救急医三人と看護師たちで患者一人一人のベッドを回りながら、これまでの経過や状態、治療方針などについて話し合っていく。
回診は三十分ほどで終わり、解散の合図でスタッフがバラけていく。
自分も仕事にかかろうとパソコンが並ぶブースへ向かいかけた聖人に、背後から声がかけられた。
「舘」
振り返ると、昨日の救急外来で同じシフトだった上級医だ。彼も今日は病棟勤務らしい。
「おはようございます」
取り乱した姿を見られたことに気まずさを覚えつつ、聖人は挨拶を返した。
「出て来たんだな」
「そりゃ、来ますよ」
当然とばかりに答えた聖人に、上級医はニヤリと笑う。
「悪いな、てっきりドロップアウトするかと思ってた」
「まさか。でも、……昨日はすみませんでした。仕事中に取り乱してしまって」
再び頭を下げつつも、もしかしたら上級医が言ったようになっていたかもしれない、と彼は胸の中でつぶやいた。
そうならなかったのは、多分――
(多分、蛍が来てくれたからだ)
蛍が自分を見失っていた聖人を見つけ、光を与えてくれたから、今日の彼がいる。
昨晩あのまま一人で沈み込むばかりでいたら、朝、立ち上がれていなかったかもしれなかった。
今だって、こうやって職場に立っていて、自分でも不思議なほどに気持ちは軽い。
きっと、蛍のお陰だ。
その思いが顔に出たのか、上級医が眉を上げる。
「お前には誰かいい人がいるみたいだな」
「え?」
「何かあった時に支えになってくれるような人だよ。家族だったり、友人だったり、彼女だったり、な。壁にぶち当たった時に一人で乗り越える奴もいるが、お前は、そうじゃないだろう?」
上級医の指摘に、聖人はムッと眉根を寄せる。
「それは俺がメンタル弱いってことですか?」
不満そうに返すと、上級医は笑った。
「強い、弱いって話じゃない。対処方法の違いだ。自分の中だけで消化する方がいい奴もいるし、外から手を差し伸べてもらう方がいい奴もいる。どっちがいいとは、言えないさ」
そう言って、上級医は腕を組み、軽く首をかしげて聖人を見る。
「お前は、正直言って救急医向きじゃないよな。能力的にじゃなくて、性格的に。この分野をやるには、お前はウェット過ぎるよ」
彼はしげしげと聖人を見つめてから、頷いた。
「そうだな、産科とか、いいんじゃないか?」
「産科、ですか?」
聖人は眉をひそめる。学生実習で回った時には、あまり感じるものがなかった。もっとも、見学できたのは外来業務だけで、妊婦検診や婦人科疾患しか見られなかったのだが。
「あそこはあそこで色々あるだろうが、うん、お前には向いているぞ、きっと」
ほとんど決めつけるようにそう言って、上級医は聖人の肩をポンと叩く。
「ま、いずれにせよ、お前のその『支え』は大事にしとけよ? この仕事、とかく仕事以外はほったらかしになりがちだからな。突っ走ってたらいつの間にかその人がいなくなってたってことにならないように気を付けろよ」
ほったらかしどころか、積極的にやらかしてしまったことで、逃げられてしまいそうなのだが。
「肝に銘じておきます」
切実な気持ちで返した聖人に、それでいい、というように頷いて、上級医は去っていった。
その背を見送って、聖人はパソコンの前に座った。電子カルテにログインし、回診の時に言われた指示やら記事やらを打ち込んでいく。
内容を保存し、見返し、間違いがないことを確認して、彼は小さく息をついた。
『支え』。
聖人にとっての蛍は、まさにソレだ。
(そんなあいつに対して、俺は……)
酒と消沈で理性のタガが緩んでいたとはいえ、キスをした。同意も承諾もなく。蛍の方は、聖人に対して兄としか思っていないというのに。
蛍は、どう思っただろう。
きっと、聖人が彼女に対してキスをしたくてしたのだとは、思ってくれていないに違いない。
(酔っていたからとか、何となくその場の流れで、とか……?)
どちらにしても最低だ。
万が一――むしろその可能性の方が高いが――蛍にとってあれが初めてだったとしたら、最低どころの話じゃない。
衝動に負けたかつ一方的なキスだけでもたいした失態だというのに、そこに追い打ちをかけた、今朝の失言。
賢人の挑発に乗って放ってしまったあれが、言ってはならなかったものだというのは、よく解っている。
(キスした相手に向かって、『子ども』はないだろ、『子ども』は)
キスが本気だったと言えば、わたしの方はそんなふうに思ったことがなかったのにと、気持ち悪がられるだろう。
子ども発言が本気だったと言えば、ならばお前は子どもに対してそんなことをするのか、と――いずれにせよ、気持ち悪いの一択に違いない。
どっちに進んでも、袋小路。
「サイアクだ」
机に突っ伏し呻いたところで、ホールに上級医の声が響く。
「入院あるぞ! 六十三歳男性、痙攣重積。下で挿管済みだ」
瞬時に聖人の中でスウィッチが切り替わる。
彼は速やかにパソコンを操作し、該当の患者のカルテを開いた。




