朝のひと時――はさらに事態を悪くする
翌朝、聖人が身を起こしたのは一応ベッドの上だったが、ほとんど一睡もできていなかった。
アラームが鳴る寸前の時計が示す時刻はおよそ六時。蛍も起きていて、しかも、まだ家にいる時間だ。
彼女のことに思いが向いて、即座に脳の奥から深夜のあれやこれやが噴き上がってきた。
(どう考えても、まずいだろ、アレは)
考えるまでもなく、まずい。
まずすぎる。
(今すぐ、蛍の顔を見たい)
酔いと落ち込みがもたらした大失態の結果がどうなったのか、確認しに行きたい。
だが、もしも嫌悪の眼差しを向けられたら――ちょっと生きていけないかもしれない。
聖人はため息をついてベッドを下り、気持ちを切り替えるべく風呂場に向かう。冷たいシャワーでも浴びれば、少しはすっきりするだろう。
重い気分で入っていった洗面所では、父の勝之とバッティングした。
「おはよう。昨日は遅かったみたいだな」
「おはよう。ちょっと夜中回ってた」
答えた聖人に、勝之の顔がやや曇る。
「あまり無理はするなよ? 身体が資本だろう?」
元々父は心配性な方だったが、七年前から、特にそれが強まった。
翳った勝之の顔に昨日の女性の夫の顔が被る。
「大丈夫。最近は労基がどうとかで、基本、そういうのうるさいから。昨日はたまたま遅くなっただけだよ」
「なら、いいが……」
「大丈夫だって。俺、ちょっとシャワー浴びてくるから」
「ああ」
多少は晴れたもののまだすっきりとはしていない父を残して、聖人は風呂場に入る。
それからしばしの間心を無にして冷水で頭を冷やし、身なりをきっちり整えてからリビングに行った。父はもう出勤したらしく、誰もいない。聖人は冷蔵庫から昨晩食べそびれた夕食を取り出し、レンジで温める。
ダイニングテーブルに運んだそれらを目の前に並べれば、脳裏に浮かぶのは当然その料理を作った人のことだ。
(これが、食べ納めかもなぁ)
柔らかな塩鮭を突きつつ、彼は胸の中でぼやいた。
兄と思っていた相手があんな行動に出たら、戸惑いを通り越して気持ち悪いの一択に違いない。
はぁ、とため息をこぼして、彼は最後になるかもしれない蛍の料理を噛み締める。
と、そこへ、どかどかとやかましい足音が近づいてきた。父の勝之はもう家を出ていったし、末弟の優人はもう少ししないと起きない。第一、こんなにやかましいのはこの家の中で一人だけだ。
「あれ、兄貴、帰ってたんだ」
リビングに顔を出した賢人の第一声は、それだ。彼は大股にキッチンに行くと食パンを取り出しトースターに入れる。そうしながらコーヒーメーカーから注いだコーヒーを口に運んだ。
「帰ったの何時? 遅くなるって連絡なかったから、蛍がずっと気にしてたぜ?」
「忙しかったんだ」
「ふぅん?」
気のない相槌を打ちながら賢人はチンと軽快な音を立てたトースターからパンを取り出し、バターを塗りたくり、ハムをのせる。
カウンターに寄り掛かり、立ったままでそれにかぶりつきながら、賢人は聖人に向けている目をわずかにすがめた。
その視線がうっとうしてくて、聖人はさして興味もない話を振る。
「今日は早いじゃないか」
「ん? ああ、彼女が一限からだから。オレは授業ないから、一緒にいられるんだよね」
自分の授業はかなり適当なくせに、彼女の為なら早起きもするのか。
「お前、もう少し真面目にやった方がいいんじゃないのか?」
「すげぇ真面目だけど? オレの人生、彼女を幸せにするためにあるから。そのために必要なことは漏れなくやってるよ?」
言葉通りに真面目そのものの顔で、賢人は言った。
まあ、確かに、高校時代に今の彼女と出逢ってから、この弟の行動が大きく変わったのは、確かだ。プラス方向に針が触れているのだから、とりあえず、良しとしよう。
聖人はやれやれとかぶりを振って、食事に専念する。
それからは、二人がそれぞれ食事を進める音だけがリビングに流れた。
ややして。
「……なんかあった?」
ふいに掛けられたそんな台詞に、聖人は食事の手を止めて弟に目を向ける。
「え?」
「調子悪げじゃん」
相変わらず、目ざとい。
「夜遅かったから、寝不足なんだよ」
「へぇ?」
賢人の応えは疑問形だ。
元々聖人は睡眠時間が少ない方で、徹夜でもそれほど様子は変わらない方だった。寝不足で調子が悪いなど、下手な言い訳だったかもしれない。
だが、賢人はそれ以上追求する気はないようで、パンを平らげるともう一枚へと手を伸ばした。
またしばらく、互いに無言。
ふいに。
「蛍がさぁ」
聖人が取り損ねた御飯茶碗が焼き魚の皿にあたってガチャンと音を立てた。それに気づいていない様子で、賢人が続ける。
「あいつが、兄貴に夕食用の弁当作った方がいいかなぁ、だってさ。仕事で遅くなるなら、職場で食べられるものがあった方がいいかなってよ」
もうそんなことは言ってくれないだろうなと思いつつ、聖人は肩をすくめる。
「遅くなるかどうかは、その日にならないと判らないからな」
「だろうな」
また、黙々と。
そして。
「あいつさぁ」
賢人がコーヒーを注ぎ、一口飲む。
「なんか、兄貴の嫁さんみたいだよな」
聖人の手から、味噌汁茶碗が転げ落ちた。
中身がほとんどなかったから助かったものの、ダイニングテーブルの上には茶色の地図が描かれる。
「何やってんだよ」
タオルを持ってきた賢人を睨み、聖人は受け取ったそれで無言でテーブルの上を拭いた。
汚れたタオルをむっつりと流しで洗う彼の背中に、呆れ声が掛けられる。
「なんかもう、往生際が悪いっていうかさぁ」
「黙れ」
「そんなこと言って、正直、限界なんじゃないの?」
「うるさい」
「この間、蛍が男連れててさぁ。なんか、クラスメイトとか言ってたけど?」
一瞬にして、頭に血が昇った。
「あいつはまだ子どもだ!」
荒らげた声でそう言い放った聖人に、賢人が「あ」という顔をする。弟は妙な顔をして、聖人を――いや、聖人の背後を、見ていた。
訝りながら振り向いた聖人は、賢人が目にしたものを目にして、彼と同じ顔になる。
「ほ、たる……」
辛うじて聖人が名前を口にすると、凍っていた彼女の時が動き出す。
「あ、えっと、うん――だよね」
蛍は、笑った。
だが、その笑みは、いつもと全然違う。
「蛍、その――」
何か言葉をかけなければと思っても、聖人の頭の中に適切な台詞が思い浮かんでこない。
ふらりと彼が一歩を踏み出すと、蛍はビクリと肩をはねさせた。そして、後ずさる。彼のことを拒むようなその動きに、聖人はそれ以上彼女に近寄ることができなくなった。
びしりと固まった聖人に、笑っているとは思えない笑顔のまま、蛍が口を開く。
「あの、お夕飯、ちゃんと食べてくれたかなって、……思って……」
『て』の形で、彼女の口が止まった。
そして、次の瞬間。
「ごめんね、わたし、もう学校行かないと!」
そう残して身を翻し、さして長くもない廊下を駆けていく。
静まり返ったリビングの中、硬直したままの聖人の耳に、盛大なため息が届けられる。
「まったく、また、どデカい墓穴を掘っちまったもんだよなぁ」
賢人が、聖人の心の声を見事に代弁してくれた。
ギギ、と首を軋ませながら弟に目を向けると、同情の欠片もない眼差しが返される。
「とりあえず、仕事行ったら? 遅刻するんじゃねぇの?」
セリフにも、一片の憐れみすら感じられなかった。




