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舘家の三兄弟  作者: トウリン
絶対聖域のお姫様

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14/69

それはとても小さな、けれど、かけがえのない灯

 あの後も、救急外来には七人の患者が搬送されてきた。

 心筋梗塞、外傷、痙攣――どれも、事なきを得て、ある者は帰宅し、ある者は集中治療室(ICU)に入院した。

 そう、ここに運ばれてくる患者のほとんどは、生き延びる。生き延びるために、ここに運ばれてくる。


 だが――


 聖人(まさと)は、キーボードの上に置いた指を止めた。書いているのは、あの女性の、サマリーだ。


 三十四歳。

 子どもは二人。

 赤信号を無視した乗用車に、轢かれた。


 その女性の夫が駆け付けたのは、彼女が搬送されてから一時間――治療を中止してから約十分後のことだった。つまり、一時間近く、聖人たちは彼女に蘇生処置を施していたことになる。


 そんなに長く試みていたとは、思わなかった。

 あの出来事は、聖人には五分かせいぜい十分くらいにしか感じられていなかった。


 妻に縋り付いて泣き崩れた夫を別室に導き、上級医が状況を説明するのを、聖人はただ黙って聞いていた。夫は、ただただ、呆然としていた。


 その姿に頭をよぎったデジャヴ。

 そして込み上げる、後悔、無力感、自己嫌悪。


 どうして、彼女は助からなかったのだろう。

 どうして、彼女を助けられなかったのだろう。


 ふと気付けば説明は終わっていて、聖人は、椅子を引いて立ち上がった上級医に倣ってうなだれた夫を見送った。


 その後も数人患者を診て、勤務時間を終えて。


 仕事上がり、上級医は聖人にどこかに寄っていかないかと誘いをかけてくれた。だが、彼は、まだ書けていないカルテを言い訳にして医局に残る。

 記事を打つ手は滞りがちで、さして長くもない記録を書き終えた時には、もうじき日付が変わろうとしていた。


 聖人はできた文章を読み返す。

 その中で、彼は何もしていなかった。

 何もできないまま、彼女を死なせてしまった。


 聖人は、自分の両手のひらに目を落とす。

 幾度も洗ったにもかかわらず、未だそこに残っているのはひやりとした女性の肌の感触だ。温度だけではなく、生ある者とは、何かが違っていた。


 聖人はため息をつき、カルテを閉じて立ち上がり、着替えを済ませて医局を出る。通勤に使っているバイクにまたがり、走らせている間も、脳裏から完全に血の気を失った女性の顔が消えることはなかった。


 彼が家に着いた時にはもう零時を回っていて、当然、家の灯りは消えていた。

 聖人は皆を起こさないようにと、足音を忍ばせてリビングに向かう。仕事が始まってからは不規則もいいところで、こういう時、この家を出た方がいいのかもしれないという考えが頭をよぎる。

 リビングに入って明かりを点けると、ダイニングテーブルの上に淡いピンクの便せんが置かれていた。

 書かれているのは、丸っこい、可愛らしい文字だ。


『冷蔵庫にご飯が入っているから、チンしてね (ほたる)


 その字が見るからに彼女らしくて、聖人の頬がふと緩む。甘さを帯びた声が、耳の奥に響いた気がした。冷蔵庫に向かいドアを開けてみると、中には焼き魚やら野菜の煮たのやらが入れられていた。

 蛍がそれを作っているさまが、聖人の頭に浮かぶ。クルクルと動く間、彼女は時折小さな声で歌を口ずさむ。それは無意識らしくて、聖人に聴かれていることに気づくと、いつも蛍は恥ずかしそうな笑みを浮かべた。

 その光景は、強張った彼の心を和ませてくれる。


 聖人は蛍が作ってくれた料理をしばし見つめてから、ビールを一缶取り、また冷蔵庫の扉を閉めた。

 今は、胃が食べ物を受け付けそうにない。せっかくの彼女の料理を、ただ栄養補給のために口にしたくはなかった。


 聖人はリビングを抜け、縁側に出ると、濡れ縁に腰を下ろした。無意識のうちに目が向いた隣のアパートは、もちろん真っ暗だ。舘家に面している蛍の部屋の窓も、暗い。彼女の朝は早いから、とうに眠りに落ちているのだろう。

 彼女が眠る部屋の窓を見つめながら、聖人はビールの蓋を開け、一口、また一口と喉に流し込んでいった。

 酔っているのかいないのか、自分では判らない。

 気分は浮上も沈下もしなかった。

 ただ、淡々と、ビールを腹に収めているだけだ。


 何度目かに缶をあおった時、中身は出てこなかった。

 聖人は酒に強くなく、いつもなら、ビール一本飲めばほろ酔い加減になれる。にも拘らず、今は、求めている酩酊感がさっぱり訪れてくれない。

 彼は手の中の空になったビール缶を見つめ、それを脇に置く。そうして腿の上に肘を置き、目を閉じた。


 暗くなった視界にまた蘇ってくるのは、処置台の上の女性の顔だ。そこに、もう一つ、記憶の奥底に沈めていた顔が、被る。

 彼は拳をきつく固めた。爪が食い込んだ手のひらから血が滲まんばかりに。

 この六年、自分が目指すもの、求めるものは、ちゃんと判っていると思っていた。着実に、それに近づいていると思っていた。


 だが、今日、突然それが見えなくなった。


 まるで、この夜の闇よりも暗い小道に迷い込んだようだ。

 聖人は、深く息をついた。そのまま肺が潰れてしまいかねないほどに。

 彼は闇の中でぼんやりと見える自分の両手を見つめる。

 死に瀕した女性に対して何の役にも立たなかった、その手を。


 そのまま暗い淵に沈み込みそうになった時、不意に、うつむいた彼の頭を何か柔らかく温かなものが包み込んだ。

 は、と顔を上げると、それが離れる。いや、完全に離れはしなかった。

 暗がりに慣れた聖人の目にまず入ってきたのは、彼を見下ろす大きな瞳。小さな手は、まだ彼の頭に置かれている。


「蛍」


 意識せぬまま名を呼ぶと、彼女が淡く微笑むのが見て取れた。

「何で……」

 問いというよりもつぶやきの声を漏らした聖人に、蛍はほんの少しだけ首をかしげる。彼女はパジャマで、下ろした柔らかな髪がさらりと揺れた。


「お兄ちゃんが、見えたから」

 そう言った彼女の口調は、理由など必要ない、ごく当然なことだと言わんばかりだ。真っ直ぐに見下ろしてくる眼差しは、柔らかな光と共に聖人に注がれている。


 今さら、アルコールが効いてきたのだろうか。

 あるいは、すぐそばにある蛍の温もりと彼女の香りが、彼を酔わせているのかもしれない。


 聖人の両手が頭の支配を離れて上がり、目の前にある蛍の身体を、引き寄せる。腕を回した彼女の腰は触れるのが怖くなるほど細く、彼がほんの少し力を入れただけでも折れてしまいそうだ。

 その柔らかな腹部に顔を埋めた聖人の頭を、ほんの一瞬の間を置いて、蛍は覆い被さるようにして包み込んできた。

 聖人のものよりも早い鼓動と高い体温が、彼の中に沁み込んでくる。それが、心地良かった。


 より深くそれを感じたくて、彼は蛍に回した腕に力を込める。相当きつく締め付けているに違いないその腕を、彼女は解こうとはしなかった。


 これは、七年前の再現だ。

 聖人は、頭の片隅でぼんやりとそう思う。

 あの時は、聖人が蛍を包み込んで、温もりをもらった。

 今は、彼女が彼を包み込んで、温もりを与えてくれている。


 今さらのように襲ってきた酩酊感に促され、聖人の口が開く。


「俺は、何もできなかった」


 ポツリとこぼしたその台詞に、相槌を打つように彼の髪に埋められた細い指がそっと動いた。宥めるようなその動きに促され、聖人の口が言葉を紡ぎ出す。

「俺には、何もできない。俺にはそんな力は持てない。俺に何かができるなんて、驕りだった」

 聖人が吐き出す苦い言葉を、彼を抱き締めたまま蛍は黙って受け止めていた。その手だけが動いて、彼の髪を撫で続けている。

「俺は、きっと、誰のことも助けられない。あの時も、これからも、俺が誰かを助けるなんて、身に過ぎた、傲慢な望みだったんだ」


 ふと、蛍の手が止まった。


 そして。


「お兄ちゃんは、いつだってわたしを助けてくれてたよ」

 そう言って、蛍は聖人の頭を抱き締めていた腕を解く。少し呆けた頭で彼女を見上げた聖人と目と目を合わせて、微笑んだ。


「お兄ちゃんは、何度もわたしを助けてくれたの」


「蛍……」

「最初にお兄ちゃんがわたしをお家に連れて来てくれた時のこと、覚えてる? わたしね、お母さんはお仕事だから仕方がないって判っていても、独りで家にいるのは嫌だったの。だから、お部屋にいたくなくて、外に座ってたの。あの日、他に何人も通り過ぎていったんだよ? でも、足を止めてくれたのはお兄ちゃんだけだったの」

 彼女はまた、ニコリと笑う。

「お兄ちゃんたちと過ごさせてもらえるようになって、わたしは寂しいって思うことがなくなったの。アパートの部屋に帰って一人になっても、窓からこのお家が見えると、それだけで独りじゃないんだって思えたの。あそこには、お兄ちゃんがいるんだって。……だから、お兄ちゃんが独り暮らしを始めた時は、本当は、すごく寂しかった」

 そう言って、蛍は身を屈めて聖人の頭に頬を寄せた。

「それにね、桐田さんの時もそう。部屋から逃げ出して、お兄ちゃんのアパートに着くまで、怖くて怖くて、死にそうだった。でも、お兄ちゃんを見た瞬間に、もうだいじょうぶだって、思えたの。お兄ちゃん、あの夜、ずっと手を握ってくれてたでしょう? だから、怖くなかった。怖いって思った気持ちを、忘れられたの」


 彼女の腕に、儚い力がこもる。


「お兄ちゃんは、わたしのお日さまみたいな人なんだよ。それに、きっと、他の人のお日さまにもなれると思うの」


 蛍の声は聖人の胸にふわりと舞い降り、砂地に滴った雫のように深く沁み込んでいく。その一声一声が、冷たく凝っていた彼の心を温めていく。


「お前こそ、俺が必要とした時にいてくれる。俺が、道を見失いそうになったときに……」

 聖人は蛍をきつく引き寄せ、唸るように言った。


 蛍こそ、聖人にとっては小さな、けれどもかけがえのない灯だった。

 どんな時でも彼の中で密かに息づき、けっして翳ることのない、小さな灯。これを失うことなど、手放すことなど、できやしない。


 その時突然、聖人は、こうやって彼女を捕らえている自分の中に、今までとは違う何かが息づいたことを自覚する。


(いや、多分、もうずっと前からあったんだ)

 ――蛍が自分のことを兄のように想っていようが何だろうが、構わない。彼女を独占していたい、自分だけのものにしておきたいという、渇望。


 酔いが、キレイごとを駆逐する。


 彼は自分が何をしているのかも自覚せぬままに、両手を滑らせ蛍の耳を塞ぐようにして丸く可愛らしい頭を包み込んだ。そうして、間近にあるそれを、いっそう引き寄せる。


 ほんの少し身を乗り出して、聖人は不思議そうな顔をしている蛍の頬に、口付けた。

 頬の次は、両の目蓋に。

 目を閉じた彼女の唇に、わずかなためらいも覚えず聖人は自分のそれを重ねる。


 初めて味わう蛍の小さく柔らかな唇は、信じられないほど甘かった。


 触れ合うだけの幼いキスは、一呼吸分も続かぬうちに断ち切られる。弾かれたように離れた蛍が、ジリ、と後ずさった。


「ッ!」


 唇を覆って大きく目を見開いた蛍の顔が、月明りの中でやけにはっきりと見て取れた。


 その驚愕に満ちた眼差しに、スゥッと、聖人の頭がクリアになっていく。


 しまった。


 聖人は愕然としたが、もう遅い。何か言わなければいけないとは判っていても、言い訳じみたこと一つ思い浮かばなかった。


「わ、わたし……」

 固まる聖人の前で蛍は口ごもり、次の瞬間、身を翻して駆け出していく。


「蛍――」

 立ち上がり、一歩を踏み出したところで追いかけていけるわけもなく。


 膝から力が抜けた聖人は、よろよろと濡れ縁に尻を落とした。


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