『せい』と『ため』
あの事件があってひと月もしないうちに、聖人は舘家に戻った。
蛍のために彼女から離れたつもりが、むしろ裏目に出たからだ。彼女が悩んだり苦しんだりしていることに気付かずにいるよりも、彼自身が懊悩の波に揉まれている方が遥かにいい。
実家に戻った聖人のそんな心中を読み取ったのは、賢人だけだった。この勘の鋭い弟はにやにやしながら聖人の肩に手を置いて、「ごくろうさん」と言った。
一方、川辺家の問題の方は、恵子と桐田が別れたことで決着がついた。
元々、恵子があの男との付き合いを始めたのは、蛍の将来のことを考えたからだったのだという。彼女自身が四十歳を越えて、親一人子一人のままで、もしも自分に何かあったらどうしよう、という気持ちが湧いたらしい。桐田は大きな連れ子がいることをまったく嫌がらず、むしろ進んで受け入れてくれたから、いい父親になってくれると思ったのだとか。
結局、どんな意図があってあの夜桐田が蛍の部屋に入ったのかは、判らずじまいだ。まあ、彼は変な下心はなかったと言い張っていたらしいが。
聖人としては、警察に突き出してやる気満々だったが、妙に色々なことを知っている優人に言わせると、多分、対応してもらえる可能性は低いだろうということだった。
恵子が「蛍のことを頼む」と言って桐田に合鍵を渡していたのは事実だし、蛍に実際の被害はなかったからだ――たとえそれが、何かが起きる前に彼女が逃げ出したからだったとしても、蛍に擦り傷ひとつなかったのは、事実だ。
だから、恵子と桐田が別れることだけで、終わった。
ただ、数日後、優人がふらりと聖人のところにやってきて、ネットニュースの小さな記事を見せつつ、「アイツのパソコンの画像ファイル、通報しといた」と言った。ニュースの記事は、児童ポルノ画像を所持していたどこかの会社員が逮捕されたというものだった。
眉を上げて見返した聖人に、優人は無言で肩をすくめただけだった。
その時聖人は、以前、この末弟が行きたくないと言っていた校外学習が突然取りやめになったことがあったことを思い出した。単位にも関わる必修の活動で、よほどの理由がない限り、休むことは認められないものだった。
それが、当日中止になった。なんでも、予約していたはずのバスが、前日に突然キャンセルになっていたのだとか。しかも、学校側の依頼で。
予約はオンライン制で、学校が保持しているアカウントで行うものだ。職員の誰かがいじらない限り、起きない事態のはず。だが、どの教師にも、心当たりがなかった。
皆ががっかりする中で、優人だけが機嫌が良かったのが、聖人の記憶に残っている。
(またやらかしたのか)
そう思ったが、今回の件については、聖人に弟を咎める気は毛頭なかった。
むしろ、褒めてやりたいくらいだった。
この一連の件は、蛍には話していない。もしかしたらあの夜彼女に身に起きていたかもしれないことを、考えさせたくなかったからだ。
蛍はしばらくの間自分が大げさに騒いだせいで母親が恋人と別れてしまったとしょぼくれていたが、薄汚い現実を見せるよりは、マシだ。ただ、気にするなと慰めるにとどめておいた。
恵子が桐田に対して未練の欠片も見せなかったから、落ち込んでいた蛍もじきに浮上し、やがて梅雨が明ける頃には、川辺家にも舘家にも、以前と同じ日々が戻ってきた。
平常運転の日が流れ、夏休み一歩手前にもなると、聖人も国試対策やら実習やらに追われるようになって、いよいよ彼の時間の大半は、大学生活の締めくくりに費やされることになる。
今日も今日とて日曜日の昼下がり、彼は舘家の自室で実習のレポートに精を出していた。
と、控えめなノックの音が。
「どうぞ」
この叩き方は蛍だろう、という聖人の予想を違えず、そっと開かれた扉の向こうから現れたのは、彼女だ。
大学絡みのことをしている聖人のところに彼女自身の用件で蛍が顔を出すことは、滅多にない。あるとすれば、茶を持ってきてくれたとか、そんなところだ。それに、彼女の期末試験ももう終わっているはずだから、勉強のことを訊きに来た、というわけでもないだろう。
クルリと椅子を回して聖人は蛍に向き直ったが、彼女は戸口に留まっている。
「どうした?」
声をかけると、蛍は窺うように小首をかしげた。
「ちょっと、お話したいの」
彼女の為に割く時間を彼が惜しむはずがない。
「入れよ」
聖人は頭を軽く振って蛍を促す。彼女はほんの少し顎を引いてから、扉を閉めて近寄ってきた。そうして、ストンとベッドに腰を落とす。
入ってしまったからには手っ取り早く用を済まさなければとでも思ったのか、彼女はすぐに切り出した。
「あのね、あの、えと……お兄ちゃんが帰ってきたのって、わたしのせい?」
「は?」
思わず、間の抜けた声が出た。
聖人が眉をひそめていると、蛍は膝の上に組んだ手をもじもじと動かす。
「お兄ちゃん、独り暮らししたかったんでしょう? でも、――……あのことがあって、急にお家に帰ってくるって言ったから……わたしのせいかなって」
次第に面が下がり、小さくなっていく声に、聖人は椅子を転がして彼女の前に行く。
「蛍」
呼びかけると、わずかな間を置いて、蛍が顔を上げた。少し頭を下げ、覗き込むようにして彼女と目を合わせて、聖人は告げる。
「お前のせいで俺が何かをしなくちゃならなくなったことは、ないよ。俺は俺がしたいと思うことをしているだけだ」
蛍の『ために』と思ってしたことは、あるが。
それは彼の心の中だけのつぶやきにしておく。
「お前のせい、なんて、全然ない」
繰り返して強調した聖人の言葉を聞いても、蛍の顔は晴れない。彼女の眼の中には、負い目のようなものが見え隠れしていた。
「それ、わたしを気遣ってくれてるだけでしょう? お兄ちゃんは、いつもわたしに優しいから……」
気弱く微笑んだ蛍に、聖人は音を立てずに奥歯を噛み締めた。
蛍相手に、そんなごまかしはしない。そんなことをする必要はない。本当に、せずにはいられないからしているだけだ。
いや、一つだけ、ごまかしていること――蛍に告げずにいることはある。
『本当は、この家を出た瞬間から、お前の傍に戻りたくてたまらなかったんだ』
そう言葉にできたなら、どんなに気分が晴れるだろう。
心底そう思ったが、聖人はその願望を胸の奥に押し込める。自然に見える笑みを浮かべて、曲げた指の関節を蛍の頤に引っ掛けるようにして、うつむきがちな彼女の顔を軽く持ち上げた。
「ちょうどいいタイミングだったんだよ。ほら、これから俺も色々忙しくなるだろ? ていうか、今でも充分バタバタしてるけどな。正直、自炊とか面倒だったんだよ。お前が来てくれる日以外はカップ麺とかだったりさ。バイトも辞めたし、そろそろ本業に集中しないと国試落ちちまうよ。ここにいりゃ、夜はお前が作ってくれるから、すごい助かるんだ」
「ホントに?」
「ああ。一日一回まともな飯が食えるだけでも、やる気が違う」
聖人が深々とうなずくと、そこで初めて蛍の顔がほころんだ。
「わたしも、お兄ちゃんのご飯作るの、好き」
そう言って彼女が浮かべた笑みに、聖人の心臓はグズグズと跡形もなく蕩けそうになる。
(くそぅ、俺を殺す気か)
内心で呻きながら、聖人は危うく蛍の頬に触れそうになった手を彼女の頭にのせる。いつものように触り心地の良い髪をクシャリと撫でると、蛍はくすぐったそうに肩を縮めてくすくすと笑った。
聖人のことをこれっぽっちも男として意識していないからこその蛍の無防備なその仕草に、彼は大声で叫びたくなる。いっそ、力いっぱい抱き締めてやろうかとすら思ってしまう。
だが、実際にそんなことができるはずもなく、彼は蛍の頭の天辺に置いていた手で彼女の額を小突いた。
「ほら、俺はレポートあるから」
「あ、うん、ありがとう。わたしのお話聴いてくれて」
ふにゃりとはにかむように微笑まれ、あ、と思ったときには、もう聖人の手は彼女の頬を包み込んでいた。しまったとは思ったが、柔らかな感触に、今すぐ離せという頭からの指令に手が応じてくれない。
蛍の方から離れてくれたらいいのに。
そんな聖人の切実な懇望を知る由もない蛍は、一つ瞬きをして、離れるどころか彼女の方から聖人の手に頬を寄せてきた。
「わたしね、お兄ちゃんの手も、好き。大きくて温かくて、すごく安心できるの」
そう言って軽く伏せられた彼女の睫毛が驚くほどに長くて、聖人はそれに触れてみたくてたまらなくなる。
その危険な考えが行動に移される前に、パッと蛍が立ち上がった。
「お夕飯、お兄ちゃんの好きなもの作るからね。お勉強、がんばってね」
入ってきたときに蛍の顔に浮かんでいた鬱屈の色は、すっかり払拭されている。軽い足取りでドアに向かった彼女はそこでクルリと振り返った。
蛍の頬があった場所に手を浮かせたままの聖人をいぶかるふうもなく、彼女は朗らかに言う。
「後で、おやつとコーヒー持ってくるね」
「あ、ああ、サンキュ」
答えると蛍はまたそこでにこりと笑って、出て行った。
一人になった部屋の中で、聖人はぐたりと背もたれに身を預け、天井に向けて大きくため息を吐き出す。
「ああ、もう、どんだけもつかな、俺」
その問いに応えてくれる者は、いなかった。




