複雑な心境
夜が明けた。
もしかしたら普段からあまり眠れていなかったのか、夜の間、蛍は身じろぎ一つせず懇々と眠り続けていた。
時々、何かを探すように聖人が包み込んでいる彼女の手が動いて、その都度それに応じて握り返してやっていたから、彼は完徹だ。けれど、頭はやけにすっきりしている。まあ、蛍の寝顔を見ていたら、いつの間にか時間が過ぎていた、というのもあるが。
時計に目を走らせると、時刻は六時を少し回ったくらいだ。蛍はまだ目を覚ましそうにない。
少し迷った後、聖人は彼女にすぐ戻るからこの部屋にいるようにと書置きを残して、部屋を出た。見れば、道の脇に蛍の自転車が倒れている。やはり自転車だったかと思いつつ、それにまたがって、川辺家のアパートへと向かった。
土曜の早朝のせいか外に人気はない。
一階の川辺家の部屋の電気は点いておらず、扉の鍵はかかっている。
呼び鈴をいくつか鳴らしたが、応答がない。
気配を窺ってみても扉の向こうはしんと静まり返っていて、中に人がいる気配は皆無だ。
取り敢えず、『きりた』は、無人の川辺家に居座ることはしなかったようだが、飛び出していった蛍のことを、どう考えたのだろう。
(シンプルに蛍のことを心配して夜中にやってきたのなら、普通、まだここに居るんじゃないのか?)
あるいは、舘家と親しいことは恵子に聞いているはずだから、父の勝之にでも会いに行って、そこから聖人に連絡が入ったはずだ。
(つまり、放置、ってことか?)
ムカついた。
別に、『きりた』とやらに居て欲しかったわけじゃない。
もしまだこの部屋に残っていたら、死ぬほど蛍を怯えさせた奴を、奥歯ががたつくほどに殴りつけていただろう。
むしろそうしたかったと思うが、それだけでなく、本当に蛍のことを案じているならば、こんなふうに消えているはずがないのではないか。
その男の意図は、正直判らない。もしかしたら、本当に、善意だけだったのかもしれない。しかし、聖人が気になっているのは、恵子が付き合いを始めたと言ったときの賢人の様子だった。直感で生きている弟がどことなく含みがあるような態度だったのには、何か意味があるのだと思う。それと今回のことを考えると、とうてい『いい人』とは思えなくなってくる。
個人的に、蛍に赤の他人の男を近づけたくないという気持ちがあることは否定できないが、それ以上に、『きりた』にうさん臭さを覚えた。
恵子には、夜中のうちに『きりた』とやらが家に入ってきて、驚いた蛍が聖人のところに来たということだけをメールで伝えておいた。それに対しては、一言、「始発で帰る」と返信があっただけだ。昼には彼女も戻るだろうが、それまで蛍を一人にしておくのも嫌だし、いつ『きりた』が入ってくるか判らないような部屋に置いておくのも、嫌だ。
差し当たって、蛍のことは舘家に連れていこうか。
そんなことを考えながら、聖人はアパートに引き返す。
きっとまだ蛍は眠ったままだろう、そう思っていたから、彼はそっとドアを開け、足音を忍ばせて中に入った。
と、ベッドの上に、何か塊が。
蛍だ。
蛍が布団を被って、丸まっていた。
半泣きだったその顔が、聖人を見た瞬間に、さながら閉じていた蕾が開くように、安堵に満ちた笑みになる。その変化を目の当たりにした聖人は、彼女が目覚めるまで待っていてやれば良かったと心底悔やんだ。
大股でベッドサイドに行き、乱れた蛍の髪に手を伸ばす。それをクシャリと掻き混ぜて、彼女の目を覗き込んだ。
「すぐ戻るって書いてあっただろ?」
「うん。でも……起きたら誰もいなかったから、ちょっと――びっくりして……」
彼の手を頭にのせたままこくりとうなずいた蛍は、先細りの声でそう言った。
多分、本当は、「びっくりして」ではなく「怖くて」だったのだろう。
「悪い」
思わず聖人が謝ると、蛍は丸くした目で瞬きを一つしてから、ふにゃりと顔をほころばせた。
「だいじょうぶ、このお布団、お兄ちゃんの匂いがするから……なんか、ホッとするの」
それを証明するかのように、蛍は布団を顔に押し当てる。
刹那、聖人の膝から一気に力が抜けた。
「お兄ちゃん?」
しゃがみ込んだ彼に、蛍が身を乗り出す。
「お前、そういうこと……まあ、いい」
言うなよ、と口にしかけて、やめた。
どうせ他の男には言わないのだろうから。
気を取り直して背筋を伸ばし、聖人はベッドに肘をついて蛍を見上げる。
「とりあえず、俺ん家に行こう。恵子さんの彼氏のことは恵子さんに任せるけど、合鍵は没収してもらうよ」
努めて軽い口調でそう言った。
『きりた』に邪な意図があろうがなかろうが、本当なら二度と蛍の傍に近づけさせたくはない。とは言え、赤の他人の聖人には恵子の交友関係に口出しできる権利がないのは揺るがしようのない現実だ。あとは彼女が蛍のために一番いい結論を出してくれることを祈るしかなかった。
聖人は零れ落ちた蛍の髪のひと房を無意識のうちにもてあそびながら、考える。
軽率なところはあるが、恵子は蛍のことを第一に想っている。きっと、男よりも娘を取ってくれるだろう。
だが、もしも、恵子が現状を改めようとしなかったら。
(いざとなったら――)
なったら、どうしよう。
どうしたら、いいのだろう。
ふと、聖人の頭の中を現実離れした考えがよぎった。少し前に、翔が口走ったたわごとだ。
あと一年もしたら自分は仕事に就くし、蛍は十六歳になる。
そうなれば――そうなれば、彼女に対する責任を負える関係を結ぶことも、可能になる。
聖人の脳裏に、その光景が浮かんだ。
家に帰れば、いつでも蛍がいる生活。
朝起きて最初に見るのが彼女で、眠るときに腕の中に引き寄せるのも彼女で。
それは、ほとんど夢物語だ。
と、不意に、現実から怪訝そうな声が呼びかけてくる。
「お兄ちゃん?」
ハ、と我に返ると、蛍が軽く首をかしげて聖人を見つめていた。彼女の視線を追うと、彼の口元にたどり着く。聖人の手はもてあそんでいた蛍の髪をいつの間にか彼の口元に運んでいて、彼の唇がその柔らかさを楽しんでいた。
(まずい)
無意識のうちに、手がやりたいことを勝手に実行してしまっていたらしい。
聖人はほとんど放り投げるようにして蛍の髪を手放し、立ち上がる。
「送ってくから、俺の上着を着ろよ」
口早にそう言いながら彼女を見下ろすと、伏し目がちの眼には翳りがあった。
その表情の理由はすぐに察しがついて、聖人は言葉を足す。
「恵子さんは今日中に帰ってくるらしいから、それまで隣に――うちに居たらいいだろ? 恵子さんが着くまでは俺も居るから」
そう言ったとたんに、パッと蛍の表情が明るくなった。が、すぐにまた曇る。その眼が、チラリとテーブルに広げられたパソコンやら資料やらに走った。
「でも、宿題、あるんだよね?」
宿題――レポートのことかと、蛍の視線を追って聖人は肩をすくめる。
「もうほとんどできてるよ。あと一日あれば終わる」
「学校――」
「今日は土曜だろ。大学は休みだ」
「でも、バイトとか……」
「今日はないから」
本当は午後から入っているが、翔辺りに頼んでおこう。
淡々と素っ気ない口調で聖人が返事をすると、ようやく蛍はホッとしたように表情を緩めた。
「じゃあ、今日は一緒にいられるんだ」
軽く目を伏せつぶやくようにそう言った蛍のその声に、深夜の出来事のダメージは感じられない。どうやら、深い傷は残さずに済んだらしい。聖人を見上げる顔は、嬉しそうに笑んでいる。
(多分この『嬉しい』は、いて安心できるとか、そういう意味の『嬉しい』なんだろうな)
聖人は、声に出さずにぼやく。
何故なら、彼は、兄のような存在だから。
永遠の安全牌、なのだ。
(俺の頭の中のことを全部曝け出して見せてやったら、きっとこんなふうにはしていられないよな、こいつも)
本当は、世界で一番、蛍が安心してはいけない相手だというのに。
聖人は、内心、やれやれと深いため息をこぼす。
まあ、とりあえず、どんな理由であれ、蛍が安心できて、喜んでくれるならそれでいい。
そう自分を納得させつつも。
望んでいるけれどもあまり嬉しくはない彼女のその笑顔に、彼は複雑な心境を押し隠した笑みを返した。




