小鳥が羽を休めるところ
聖人の前でうつむいた蛍は、なかなか口を開こうとしなかった。
彼女の前に胡坐をかいて、彼は辛抱強く待つ。
やがて、蛍が少し大きく息を吸い、吐き出した。膝の上に置いた手に視線を落としたまま、ポツポツと話し始める。
「桐田さんは、お母さんがお付き合いしてる人で、三ヶ月くらい前に、お母さんから紹介されたの。再婚も考えてるって。お父さんと別れてからもう何年も経ってるし、ずっとわたしの為に頑張ってくれてたし、お母さんが幸せならうれしいなって思ってた。何度か会ったけど、優しい人で、いい人そうで……」
蛍はそこで気弱げに笑う。
イイ人、というのは無難な評価だ。だが、蛍のその笑みからは、彼女自身がその『きりた』とやらのことを本当はどう思っているのかが伝わってこない。
少し口をつぐんでから、蛍はまた話し出す。
「お母さんが、今日から三日間、出張でいないの。それは、いつものことだから、別に、何も……いつもどおりにご飯を食べて、お風呂に入って、お布団に入って」
膝の上で組まれた指が、落ち着きなく動く。
「でも、眠ってたら、何か音がして、電気が点いて……桐田さんが、いたの」
「ッ!」
消え入りそうな声でのその言葉に思わず立ち上がりそうになったのを、聖人は膝の上で両の拳を握り締めて堪えた。
蛍に覚られないように小さく深呼吸をして息を整えてから、静かに問う。
「何でそいつが部屋に入れるんだ? 鍵を閉めていたんだろう?」
蛍はそれに答えるのをためらった。
関節が白くなるほどにきつく組み合わせられた彼女の指を、聖人は解く。そのまま、冷たくなった小さなその手を包み込んだ。
「蛍?」
努めて穏やかに促すと、蛍は深くうつむいた。
そして、小さな声で。
「――お母さんが、合鍵、渡してるから」
「何?」
「先月、お母さんが彼に合鍵渡してもいいかって、訊いてきて。お母さんは出張多いし、頼れる人がいるといいでしょうって、言って。舘家の人に、いつまでもお世話になっているわけにもいかないからって」
「そんなの、今さらじゃないか」
言いながら、聖人は軽率な恵子の行動を胸の中で罵った。
高校生の娘がいるところに、いい年をした男がいつでも出入りできるようにしてしまうとは。
あまりにも軽率だ。
あまりにも短慮だ。
危機意識が乏し過ぎる。
恵子としては、自分と付き合っている男が年端も行かない娘に対して何かしようとは、想像もしていなかったのだろうが。幼い頃に蛍に一人で留守番させたことと、同じではないか。
また、険しい顔をしていたのだろう。
聖人の手の中の蛍の手が、強張った。
「桐田さんも、きっと、様子を見に来てくれただけだと思うの。お母さんも、何かあったら桐田さんに言いなさいって、言ってたから、桐田さんにも、わたしのことを頼んでいったんだと思うの。ただ、わたし、驚いちゃって……」
庇うような台詞をなだめるような笑みと共に蛍は口にしたが、聖人は、『きりた』とやらに対する胸の中の罵倒を声に出さないようにすることに全神経を集中させなければならなかった。
深夜に勝手に入り込んで『様子を見る』もクソもない。
ましてや、一人で眠っている蛍の部屋に入るなど、有り得ない。
砕けんばかりに奥歯を噛み締めた聖人に、蛍がおずおずと続ける。
「わたし、何だか訳が判らなくなっちゃって、部屋から出て、そうしたら桐田さんに肩を掴まれて、それを振り払って」
「どうしてここまで来たんだ、こんな夜中に? 隣の俺んちに逃げ込めばよかっただろう」
問う声は、自ずと、荒くなった。
何もなかったから良かったものの、ここに来るまでに何かがあったかもしれないのだ。比較的落ち着いている街とは言え、何が起きるかは、判らない。逃げ出した蛍が聖人のもとに来ようとして何か酷い目に遭ったかもしれないと考えると、可能性を考えただけでも血の気が引いた。
睨んだ聖人に、蛍が唇を噛み締める。
「だって……」
声が、唇が、震えた。
「だって、気付いたら、ここに来てたのだもの」
「蛍」
「どこに行こうとか、誰のとこに行こうとかなんて、そんなの、考えられなかったよ」
いっそうか細く声が震えを帯び、彼女の膝の上にポタリと雫がしたたり落ちた。
ヒクッと喉を鳴らされたら、もう耐えられなかった。
「蛍――ごめん。別に、責めたわけじゃない」
呻くように言いながら、聖人は蛍をベッドから引きずり下ろす。彼女の身体は軽くて、いとも簡単にそうできてしまったことに、胸が痛む。
聖人は、膝の上にのせた彼女を全身で包み込んだ。丸い頭を肩に押し付け、柔らかな髪に頬を埋める。
「お前が俺のところに来てくれて、嬉しいよ。一も二もなくお前の頭に浮かんだのが、俺であったことが」
そう囁いて、片方だけ編まれた髪を解いて撫で下ろす。震えを止めたくて華奢な身体をきつく抱き締めると、腕の中の彼女が大きくしゃくりあげた。
声を殺して泣く蛍を腕の中に感じながら、聖人は一年前の自分の行動を心の底から悔やんだ。彼が舘家から出たりしなければ、蛍の環境の変化にもっと早く気付いていただろう。傍にいさえすれば『きりた』とやらの人となりも判っていただろうし、こうなる前に何か手を打てていたかもしれない。
(俺が、こいつから逃げさえしなければ)
蛍から――蛍への想いから逃げたりしなければ。
無意識のうちに聖人の腕に力がこもり、蛍の身体を自分の胸に押し付けていた。
彼女は小さく、もろく、柔らかい。
聖人に温もりを与えてくれたこの存在を、守りたかった――守るつもりだった。
それなのに。
ふと気づくと蛍の身体からは力が抜けていて、そっと覗き込むとその目蓋はふわりと閉ざされていた。安心しきって和らいだその頬は、まだ濡れている。
聖人は腕の中に留めたまましばし彼女の寝顔を見つめ、それからそっとすくい上げた。ベッドに下し、布団でしっかりと包み込む。濡れた頬に貼り付いた一筋の髪を指先でよけてやってから、身を起こそうとした。が、微かな抵抗が。
見れば聖人のシャツの胸元を蛍の手が握り締めている。
彼は細心の注意を払ってその手を解き、両手で握る。桜色の爪に触れるだけのキスをしてベッドのわきに腰を下ろし、穏やかに眠る蛍を、一晩中見守っていた。




