プロローグ
舘家の長男である聖人が川辺蛍に初めて会ったのは、聖人が十三歳、蛍が五歳の時だった。
彼女の両親が離婚し、舘家の隣のアパートに引っ越してきたのだ。
ちょうど聖人が学校から帰ってきたときに荷物の搬入をしていて、家に入ろうとしていたところで声をかけられた。
母親の川辺恵子は結構チャキチャキしていて、いかにもキャリアウーマンという感じの女性だった。対して蛍はと言えば、母親の脚の陰に隠れて、挨拶を交わす母親と聖人をジッと見つめていた。彼と眼が合うと元から大きな目がいっそう大きくなって、次いで、フニャリと笑った。恥ずかしそうなその笑顔に、可愛い子だなと思ったことは覚えている。
とは言え、中学生男児と幼稚園児では接点があるわけもなく、それからしばらく、蛍は聖人にとって、ただの『隣のアパートに住む子』だった。
それが変わったのは、一年後。
まだ陽が沈むと気温が下がる、四月のことだった。
聖人はサッカー部に入っていて、帰宅はいつも二十時近くになる。
それは彼にとっての通常帰宅時間だったけれども、その日、いつもとは違うものが視界に入った。
隣のアパートの一階、右端。
その玄関前に。
何かがうずくまっている。
聖人は一瞬ギクリとし、すぐにそれが小さな女の子だと気付いた。
少し迷った後、彼は彼女に近づき、声をかける。基本、長男気質で色々放っておけないタイプなのだ。
「なあ、おい」
女の子はうたた寝でもしていたのか、彼の声でビクリと大きく肩をはねさせる。パッと上がった顔の中で、やたらと大きな目が真ん丸に見開かれていた。
(確か、川辺――)
「蛍ちゃん、だろ?」
女の子――蛍は、無言でコクコクとうなずく。
「えっと、こんなところで何してんの? 危ないから家に入ったら?」
沈黙。
そして、蚊の鳴くような声で。
「――から」
「え?」
眉をひそめて訊き返すと、子ども特有の甘みを帯びた声がさっきよりもはっきりと返ってくる。
「鍵を、家の中に忘れてきちゃったから」
そう言い終えた途端に、蛍の目がジワリと潤んだ。
幼い女の子の目に浮かんだ涙に、聖人は若干焦る。弟たちを泣かせた時とは、勝手が違った。
気を逸らせようと、彼はとにかく思いついたことを口にする。
「鍵って、お母さんはどうしたんだよ?」
「お仕事、だから。もうちょっとしたら帰ってくるの」
「もうちょっとったって、もう八時じゃないか」
ついそう口走ってしまうと、とうとうそれが引き金になってしまったらしい。
不意に、蛍が大きくしゃくりあげる。
「ちょ、ちょっと、待てよ、泣くなって。そうだ、俺のうちで待ってたらいいから」
思い付きで発したその台詞で、彼女が固まった。ひとまず泣くのを阻止できた聖人は、続けて畳みかける。
「一人でこんなところにいたらマズいからさ。ほら」
聖人が差し出した手を、蛍がジッと見つめる。警戒しているというよりも、何か奇妙なものを見る眼というか、不思議なものを見る眼というか。
身じろぎ一つしない彼女の前に手を差し出したまま、聖人は待った。
やがて、おずおずと小さな手が伸びてくる。
自分の手のひらにのったそれを握ると、少し驚くほどに柔らかく華奢だった。昔握ったことがある弟たちのそれとは、微妙に違う。力を入れ過ぎると潰れてしまうような気がして、聖人は一度込めた力を和らげた。握り具合に気を付けながらヒョイとその手を引っ張ると、予想よりも軽かったせいで勢い余ってよろめかせてしまう。
「ごめん」
前のめりになった蛍を慌てて支えると、彼女も驚いた顔をしていた。
取り敢えず聖人は川辺家のドアに蛍を預かる旨の張り紙をし、彼女を連れて家に入る。
「ただいま」
「お帰り、ご飯すぐ温めるから――って、あら?」
キッチンから顔を覗かせた母の奈美がキョトンとする。
「蛍ちゃん? お隣の蛍ちゃんでしょ? どうしたの?」
さすがに奈美は近所の住人をそれなりに把握しているらしい。すぐに息子が連れている子が何者かが判ったようだ。
声を上げられて怯んだのか、聖人の手を握る蛍の手に力がこもった。小さな身体が、わずかに彼にすり寄ってくる。
聖人はそんな彼女の頭をクシャリと撫でてから、靴を脱ぐように促す。そうしてから、自分も框に上がった。
「何か、鍵を家の中に忘れてきて、母親の帰りも遅いんだってさ。外で待ってたから連れてきた」
「まあ。ご飯は食べたの?」
聖人の陰に隠れるようにしている蛍に、しゃがんだ奈美が問いかける。少女は顎を引くようにしてうなずいた。
「食べました」
「何を?」
「パン」
そう言って、蛍はポケットから菓子パンの袋を取り出して奈美に見せた。奈美は束の間口をつぐみ、そしてにっこりと笑う。
「お腹空いてない?」
「……ちょっと」
「じゃあ、聖人と一緒に食べてって」
そう言うと、奈美はいそいそと支度にかかる。
「おいで」
蛍を連れて聖人がリビングに入ると、そこには弟の一人、賢人がいた。聖人よりも四歳下の九歳で、どうやらこんな時間になってもまだ宿題をしているらしい。
賢人は三人兄弟の真ん中で、かなりおちゃらけた性格をしている。楽しいこと優先、宿題とかやらなければいけないことを、時間ぎりぎりまで先延ばしにするタイプだ。対して末っ子の優人は七歳にしてくそ真面目と称してもよいほど四角四面な奴で、宿題は夕食前にきっちり終わらせるし、毎晩八時には布団に入っている。
「兄さん、その子どうしたの?」
「隣の子だよ。親がまだ帰ってこないんだってさ」
「へぇ?」
賢人にジッと見つめられて、蛍がまた聖人の陰に入る。そんな彼女に、賢人は二ッと笑った。その屈託のない笑顔は、たいていの相手を打ち解けさせる。
蛍も例外ではないようで、緊張が和らぐのが感じられた。
おずおずと笑い返した蛍に、賢人の笑みも深くなる。
聖人は蛍の頭に手をのせて彼女の目を覗き込んだ。
「飯の前に手を洗ってこないと母さんにどやされる。おいで」
聖人はコクリとうなずいた蛍の手を取り、洗面所に連れて行く。背伸びをして蛇口に手を伸ばす彼女を持ち上げてやると、小さな声で「ありがとう」と返ってきた。
*
十時過ぎになって、慌てた様子の恵子が舘家を訪れた。蛍が小学校に上がってから職場に本格復帰したため、遅くなる日が増えてしまったらしい。蛍はしっかりしている子だから、留守番させていても大丈夫だろうと思った、と。
その晩、舘夫妻と恵子との間で話し合いがあって、恵子が遅くなる日は蛍を舘家で預かることになった。
週の五日はそんな日があって、恵子が出張の日には泊まっていくことすらあった。
娘が欲しいと常々口にしていた舘夫妻は蛍を預かることをむしろ喜んでいて、最初は緊張していた蛍も次第に屈託のない笑みを見せるようになっていった。
うちの中に小さな女の子がいることに、三兄弟もあっという間に慣れていく。
彼らにとって――少なくとも聖人にとって、蛍は妹のような存在になった。
それから三年後、舘家の中を大きく変えてしまう『あのこと』が起きるまでは。