えっ、ここは戦国時代じゃないの?ここまで古いと知識で無双とか無理だろ
あらすじに書いた通り、これは大まかなあらすじです。
もし、これみて今後投稿する作品を読んでみたいと思ってくれる人がいたらうれしいです。
しかし、完成して読み返すと文章力のなさにびっくりしている自分がいる(笑)
「遂に我も筑後介となったのか」
男は山の山頂近くにたたずむ社の展望台から平野を眺めながら呟いていた。見た目70歳をこえた老人のようであったが、背は180近くあり大柄で背が全く曲がっていなかった。腰には直刀を一振り差しており、腕も歳に似合わず太く普段から鍛えていることがうかがえる。
老人は何かを思い出すかのような仕草をし、空を見上げた。
「思えば、遠き所に来たもんだ。前世を合わせれば100年をもこえる人生というのも実に面白いものであった。」
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もし、この話を聞いた者がいれば、「この爺さんもとうとう耄碌したか」と笑うだろう。だが、幸いにも周囲には人がおらず聞く者はいなかったし、老人の目はとても真剣なものでとても冗談やボケの類ではなさそうであった。
それもそのはずで、この老人は現在では名を久留米筑後介佐久良と名乗り奈良時代を生きているが、前世である平成の世で30歳あたりまで生きていた記憶がある。
前世での記憶や自我は赤子のころからしっかりあり、初めこそは異世界で俺TUEEするぞと息巻いたものだが、いつまでたっても魔法は発現せず、歩き回れる歳になり周囲を探り大人たちの話を聞いて分かったことがあった。それはこの世界は異世界でもなく、戦国時代の日本でもない、古代の日本ということだった。
その時の佐久良は絶望していた。前世ではなろうの転生ものばかりを読む歴史ヲタだっただけに戦国時代の知識は人一倍あったし、異世界や戦国時代で無双するための知識を溜め込んだ時期もあった。さらに現代では工業高校を卒業し工学部の大学を卒業したために電気機械の知識はあり、明治時代での産業革命を興す自信すらあったし、第二次世界大戦で日本を勝たせる気ですらいた。
後で考えてみるとどこにそんな自信があったのかは自分でも理解できないがそう思っていた。それなのに実際に転生なんてしてみればただの農民の子供だし、知識が乏しい古代の日本、奈良時代だったのだ。歴史の知識は教科書より少し詳しい程度だし、現代の知識がほとんど使えないくらい技術力が低かった。
せめて、貴族の子供とかなら藤原家にすり寄って甘い蜜を吸ったり、農業改革などが大々的にできたが農民の子供ではそれは難しい。なんせ戦国時代なんかと違い、朝廷の誕生にともない身分制度が確立してすぐの時代では成り上がることは難しく、ほとんどありえなかった。下手をすれば第二の人生は農民で一生を終える可能性があったのだ。
そんな状況におかれたがくさることはせず、出来ることを考え実践することにした。
いつの時代においても必要なもの、それは教育だった。現代と違いこの頃の農民などは読み書きができなかった。さらに数学の知識だってほとんどないため現代人からすれば小学生以下の算数しかできないのが当たり前だった。だから読み書きさえ覚えれば官僚働きをする人間として売り込めると思い、近所の寺の住職を拝み倒し教えてもらった。
ちなみに当時は仏教が伝来100年ぐらいしか経っていなかったが住んでいるところが幸いにもアジアの玄関口博多の近辺だったため寺は普通にあるものであった。それとなぜ住職に教えを請いにいったかといえば当時の知識人は貴族や在地の豪族、宗教家くらいだったからだ。
こうして若いころは畑の仕事をし、寺で勉強をしては近所の友達にも教えてまわり仲間を作っていった。そのかたわらに前世の知識を絞り出し、当時でも作れて、高く売れる竹和紙などを作っては溜め込んでいた。
これらの作ったものは将来、行商をするための品物であり財産だった。まだまだ通貨という概念が薄い時代ではあったがこの頃から大陸の商人と取引をしていたり、朝廷が貨幣を発行するのは知っていたので商売ができると考えた。それはなかなか良い考えだったようで15歳の頃に仲間たちと村を出て、博多や大宰府の周辺で商いをしては儲けていた。
そんな折、ふと考え付いた佐久良は拠点を筑紫国の久留米というところに移すことにした。前世で生まれ育った地であり、当時はどうなっているのかが気になったのだ。そしてこれが人生の転機になった。
久留米とは現在の福岡、当時の筑紫国(筑後国)御井郡あたりにあり、筑紫平野を流れる筑後川に隣接していることもあり昔から稲作が盛んな地域だった。そこには筑後国一の宮と呼ばれる格式高い高良大社があり、国府もあったため筑後国の政治の中心地でもあった。
前世における地元についたことに感動しているのも束の間、ある出来事がおこった。
天武7年(西暦678年)、筑紫国大地震だった。当時の記録では幅6m、長さ10㎞の地割れが起き、多くの民家が破壊され、丘が崩れたという。それだけの被害を目の当たりにしたとき、佐久良たちの体は自然と動いていた。
先ほど述べたように貨幣の概念が薄い時代だったこの当時は物々交換や米を貨幣のようにする取引が多かった。そのため、博多で稼いできた一行には食べ物が潤沢にありそれを使い、炊き出しを行ったり、神社に寄付をしその寄付で雇用を作り建物の修復などを行った。
流石に個人のお金だけで全てを行うことはできなかったが、佐久良たちの働きが認められ高良大社の座主と知りあうことになり、連携して久留米の復興を支援していった。
それからというもの佐久良たちは久留米に居を構え高良の人々と縁を結び勢力を拡大していった。
そこから数十年たった時、また転機が訪れた。それは道首名の筑後守への任官だった。首名とは良吏として歴史に名を残しており、彼の死後、任地の民は彼を信仰の対象としたものたちまでいたと言われる。
首名と佐久良は意気投合し、二人で筑後国の政治を取り仕切っていった。そんな中で郡司の試験に合格し、郡司の役職に就いたり、道氏の家令として仕えるなどして出世していったが主と家臣としてだけではなく友としての仲でもあった。
しかし、そんな首名も歳だったためすぐに亡くなってしまった。首名は最後に、
「友よ、筑後のことをよろしく頼む。そして叶うならば我が一族を助けてほしい。」
と残していった。道氏は中央では中流貴族で大した勢力を持っていないため、首名亡きあとのことを憂いていたのだ。そのことを了承した佐久良はすぐに行動を開始し、様々な行動をおこした。
一つは、今生陛下《聖武天皇》の政策を利用して、官位を買ったのだ。それにより道氏の長者の地位を安定させた。さらに、新興ではあるが勢いのあった一族である橘氏と道氏の縁を結ぶことに成功しさらに力を付けることが出来た。
こうして力を付けた道氏の働きかけによって、ただの平民でしかなかった佐久良は地名より取った久留米という氏をもらい受け、さらには筑後介という国の差配をする官位まで貰うことになったのだ。
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「駆け足に振り返ってみたものの中々、濃い人生を送ったものだ。」
今生を振り返っていた佐久良の目は潤んでいた。その目で視線を空から下ろし、眼下に広がる街をみた。
「ここは座主や首名と共に作りあげてきた街だ。儂もすぐにあの世に行くことになるだろう。だからこそ、次代の者たちが頑張る番じゃの。」
そう言っては振り返り、山を下っていった。その背中はまだ、やることがあると意気込んでいるかのようだった。