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名前の話が出ます。
邸にいるのであれば、食事は出来る限り顔を合わせて摂る。それが我が家のしきたりである。わたくしがもし顔を出さなければ、熱でも出したのかと心配させることが必須であるので、毎朝一番早くに餐室へ着いているようにするのがわたくしの日課であった。
「おはようございます」
一歩中に入るとカヴィラが立っており、わたくしを見ていつもと変わらぬ礼を取った。昨夜あれだけ揺さぶりをかけておいて、何もなかったかのような顔つきである。身体が震えそうになるのを取り繕って、ふいと視線を外してしまった。かつてない屈辱である。おはよう、と返した声はまるで蚊の鳴くようだった。このわたくしの情けなさは何だと言うのだろう。か細い声で可憐さを演出しようとしているなどと思われてしまったら恥の極みである。
しかしカヴィラは素知らぬ顔でわたくしの椅子を引き、わたくしが腰かけるとまた素知らぬ顔で離れて行った。いつものわたくしの様子とは全く違っていた筈なのに、触れようとしない。大した鉄面皮だわ、と思いながら、それでも顔を上げられなかった。自分を保てない、という事がこんなにも恥ずかしい、情けない事だとは思わなかった。カヴィラのいる方向が見られない。
自然と軽く俯いていると、カヴィラがおはようございます、とまた扉の方へ頭を下げた。おはよう、と爽やかな声がし、またカヴィラが食卓へ歩み寄ってきた。その気配にまた少し身を固くする。わたくしの隣の椅子が引かれ、わたくしの隣の椅子に腰を下ろした兄が、わたくしに声をかけた。
「おはようアウロラ、今日も貴女のお陰で世界が光に満ちているね」
「まあ」
芝居がかった言葉に思わずくすりと笑んでしまった。兄が口にしたのは女神の名ではない。生まれた時に女神の名をつけられたわたくしの名である。
他の国でもある程度そうではあると思うが、この国においては神話由来の名前が一般的である。わたくしの兄の名も、戦神カリヌスに仕え、その知略をもって一千の悪魔を退けたという智将ディエロニウスから取られたものだ。わたくしの名の由来になったアウロラというのは美と生命を司る女神で、主神が創造し、命を吹き込んだ全ての生き物に魂の輝きと命の終わりを与え、始まりの人間となった男女には特別に、美しい物を愛でる為の心を付与したと言われている。また、彼女が全ての生き物に終わりを与えた事で季節が生まれたとも言われている。
このように、男子であれば軍神や英雄、賢者、また神器の名などを、女子であれば神話の中で神と関連付けて語られている花の名や妖精の名を、少し変えて名づけるのが一般的である。音楽の女神シャルロニーテが楽を奏でる度に舞い散ったというシャロテの花からシャーロットやシャルロッテ、芸術の女神ミュンヒローナがその茎を筆として用いたとされるミフロナの花からフローラ、ミュローナといったように。もしも名づけられる際にわたくしが口を利けていたならば、せめて女神アウロラが好み、彼女が微笑むと周囲に常に咲き乱れたとされるアウレリアの花あたりが良いと主張しただろう。リリアだとか、オレリアだとか、花の名そのままにアウレリアだとか。
花の名をそのままつけられるという事はままある事なのだ。しかし妖精や神の名をそのままつけられるというのは非常に珍しい事である。偶に妖精の名を持つご令嬢などとお会いすると、大変親しくなることができる。お茶会の盛り上がりが表面的でなくなる。増してこの見た目であるから、わたくしは一度お会いした方に忘れられる経験をした事がない。大層な名をつけられたものだと、いつも思う。重荷と言う程でもないけれど。
「おはようございます、お兄様」
笑うわたくしににっこりと頷き、兄はガラスの杯から一気に水を呷った。
この兄は小さい頃から身体を動かす事が好きで、朝早くから剣術の稽古に勤しむのが日課であった。母譲りの薄い金髪と父譲りの深い瑠璃色の瞳は一見冷然とした佇まいであるが、愛想がよく素直で裏表というものがない。加えて非常に人が好いので友人が多い。ちなみに兄の名は英雄の名の一部をそのまま付けられた為に比較的珍しい方ではあるが、わたくし程ではない。神話の英雄とは言え、人間の名であるからだ。
兄はわたくしの表情に覇気がない事を見てとったのか、少し眉を下げた。わたくしの体調に家族の中で一番敏感なのが兄である。
「顔色があまり良くないな」
「……昨夜はあまり眠れなくて」
「そうなのか、何かあったのか?」
「ええ、遅くまで本を」
読み聞かせられた末に不適切な言葉で心を乱されるような態度を取られ、思い悩んでおりますの。とは言えない。それはわたくしの恥になるからである。にこりと微笑んで兄を見た。
「お母様のお好きな、フューエルの『月落つる歌』を貸して頂いているの」
ちなみにフューエルというのは言葉をもたらした知の神フエルロトから由来するのではないかとわたくしは思っている。もしかするとそこに、愛の女神ミューエリニテも混ざっているかも知れない。
「ああ、あの……吟遊詩人のやつだったか?恋の歌を一晩中歌うやつ」
「ええ、それですわ。昨日が丁度その場面で」
「そうか、読みたくなるのも仕方ないよなあ。でも夜更かしするなら、その分ぐっすり眠れないとなあ。香でも焚いた方が良かったんじゃないか?」
わたくしはぱちりと瞬きをした。なるほど、寝苦しいのであれば環境から改善すれば良かったのだ。夜更かしを責める事もなく解決策の提案も押し付けがましくならないとは、何と度量の広い兄だろうか。
「まあ、それは良いかも知れないわ!今夜からはそうします。ありがとう、お兄様」
「どういたしまして。あれ、アウロラには少々良くない表現もある本だけど、俺は結構好きだなあ。あんな男は実際いないと思うけどね」
肩をすくめて爽やかに笑って見せる兄を見て、この兄であれば実際ああなれるのではないかと密かに思った。
少し遅れて席に着いた父と母にも同様に顔色が優れないと心配をされたので、兄に話したのと同じように「遅くまで本を読んでしまって」と告げると、父が少し眉をしかめた。おそらくカヴィラが読み聞かせをさせられている事を知っているのだろう。対して母は、そうだったの、と微笑むのみである。
「カヴィラはきちんとやってくれているようね」
母はちらりとわたくしの後ろに目をやった後、わたくしを見て満足そうに微笑んだ。わたくしの後方にカヴィラが控えているのだ。そう意識した瞬間に嫌な緊張を覚え、手が震えそうになったのを制してゆっくり動かしながら、わたくしも母に微笑みかけた。
「ええ、存外上手に読みますの。『慕情』は読んだけれど、フューエルはいつも情熱的ね」
「そうでしょう?次もわたくしのお気に入りを選んでおくわ」
「まあ、楽しみだわ」
「どのようなものが良いかしらね?フューエルの他にも薦めたいものはたくさんあるのよ」
母は目を輝かせている。娘と好きな作家について語らえる事が嬉しいらしい。
「けれどお母さま、カヴィラをあまり困らせないでほしいの。今読んでいる作品には少し、刺激的な言葉が多くあって、カヴィラが口に出すのを躊躇ってしまうのよ」
「あら、まあ、そうなのねえ、けれど、夜に読むには丁度良い具合ではなくって?」
母が「夜」の部分に意味深長さを含め、優雅な微笑みを浮かべた。けれど淑女たるもの、この程度で挙動不審になる事など出来ない。常にゆったりと、無邪気に、愛らしく。年齢に応じた落ち着きを備えて。そう、これも戦いであると思えば良いのだ。愛する母も時に超えるべき壁の一つである。小首を傾げて応戦する。
「お母さま、あんまりときめいてしまうと、わたくしは倒れてしまうかもしれないわ」
母は口元に手を当て、まあ、まあ、と小さな声で繰り返した後、頰を上気させながら父の方を向いた。
「まあ、可愛らしいこと!旦那様、お聞きになって?」
父が眉を下げ、微かに微笑む。こういう顔をする時、父と兄はよく似ている。
「落ち着きなさいエリニテ、アウロラはいつでも可愛らしいよ」
エリニテというのがわたくしの母の名である。愛の女神ミューエリニテからつけられた名前だそうだ。母の名前も十分に珍しい。それが故にわたくしの名がアウロラに決まったのであろう。
宥められる母を和やかに眺めて盛られた果実を口に運んでいると、兄がふいと口を挟んだ。
「母上、アウロラ、何故カヴィラがその話の中に出てくるんです?」
「わたくしがカヴィラに、毎晩本を読み聞かせるように言ったのよ」
母の応えに、兄はあんぐりと口を開けた。
「母上、一体アウロラを幾つだと思っているんです」
全く同じ事をわたくしも考えたわと思いながら、いつの間にか心は凪いでいた。
そう、わたくしの前に居るのがカヴィラでなければ、わたくしはいつものわたくしでいられるのだ。
つまりわたくしがさらに研鑽を積み、カヴィラの如何なる揺さぶりにも耐えられるようになれば良い。心を鍛え、笑顔を鍛えて、揺さぶろうと思う気すら起こらなくなるような、完璧な淑女になれば良いのではないだろうか。それには、わたくしの努力のみでは何か足りないような気がする。
友人から送られてきた茶会の誘いにさらさらと返事を書きながら、わたくしはぼんやりと考えていた。
人間として認められる為には、カヴィラがわたくしを慕っていなければならない。そうであれば、カヴィラの心を知らなければならない。カヴィラを理解し、わたくしを理解させなければ、素晴らしい主従関係を築いてゆけるとは思えない。
否、主従関係の前に、わたくしの人間的魅力というものを磨いていかなければならないのではないだろうか?しかし、それがカヴィラのお眼鏡に適わなければ、わたくしの努力は全て無駄になるのではないだろうか?けれど--
ぐるぐると悩みながら書きあげた返事は、いつもと変わらない仕上がりであった。
午後になり、母と二人で軽くお茶を頂いた後、部屋に戻ってメイドを呼んだ。そうしてすっかりインクの乾いた友人への返書を言付けてから、ああ、とまるで思い出したかのように付け加えた。
「カヴィラに、時間が出来たらここへ来るように伝えてくれるかしら」
果たしてカヴィラは程なくわたくしの部屋を訪れた。昨夜も、今朝のわたくしの不審な挙動も、まるきり何も無かったかのような顔をしている。椅子を勧め、カヴィラが腰を落ち着けたところで切り出した。
「貴方に聞いて頂きたい事があるの」
「何でございましょう」
「昨日の、夜の事よ」
そう言うとカヴィラは意外そうな顔をし、少し目を伏せた。この男は理解しているのだ。自分の言動がわたくしを傷つけたという事を。
「わたくしは昨夜怒ったし、傷ついたわ。まるで貴方に軽んじられているようで、悲しかったのよ」
大人は、貴族は、回りくどい事をする。わたくしはそれを知っている。カヴィラの目的は、わたくしを傷つける事ではなくて、カヴィラの言葉でわたくしの感情を揺らす事だったのだろう。それはこちらも理解している。けれど、わたくしがその駆け引きに乗って差し上げる義理もないのだ。
よってわたくしは、考えた事をカヴィラにそのまますべて打ち明ける事にしたのだった。
「もう八年も貴方を傍に置いていたのに、わたくしは貴方に理解されていなかったのだと思ったの。……べったりと四六時中くっついていた訳でもないから、当然の事かも知れないのだけど」
カヴィラを見据えた。こういった事を改めて、面と向かって口にするのは、非常に勇気の要る事なのねと感じた。一つ息を吸う。
「けれど、わたくしも貴方の事をきちんと知っていなかったのだとも思ったわ。だから、これからは、貴方の事を知りたいし、わたくしの事を知ってほしいの」
カヴィラは茫然とわたくしを見ていた。何を言われているのか分からないといった表情であった。反応のないままのカヴィラにわたくしは畳み掛けた。
「カヴィラ、わたくしは、貴方には負けない事にしたの。いつか――わたくしは貴方のアウロラになるわ」
部屋の中を一瞬の静寂が満たした。鳥の影が窓の外を横切り、木の葉が擦れた音を立てた。どうやら近くに留まったらしい鳥がチチ、と鳴く声を聴いてから、わたくしの従者は目を見開いた。
「貴方の……とは、負けないというのは、どういった意味で仰っているのです……?」
「言葉通りよ」
「その、言葉通り、というのは」
この部屋に入った時の落ち着きなど欠片もない、掠れた声であった。この男も見せかけだけでなく、心の底から動揺する事があるのかと、少し可笑しかった。わたくしは知らず、笑っていたのだろう。カヴィラが目を泳がせている。
「何があっても、わたくしこそ完璧な淑女であると言わせてみせる。わたくしの側に仕える事こそ至高の幸せだと心の底から膝をつかせ、わたくしの側において貴方を幸せにしてみせるわ。この名に恥じぬように」
視線の先でカヴィラがだんだんと奇妙な顔になっていった。かと思うと、その奇妙な顔のまま、妙にたどたどしい口調で言った。
「お嬢様が、わたくしの、女神になられると」
「そう、その通りよ」
「お嬢様が、わたくしを、幸せにして下さるので?」
「ええ、額ずいて感謝したくなるくらいにね」
カヴィラは突如顔を伏せた。そうしてぶるぶると身体を震わせだした。
「お嬢様、意外と、嗜虐的でいらしたのですね」
どうやら笑っているようだった。揶揄うような言葉だったけれど、これまでの情操教育と称してわたくしを試すような言葉の一つ一つとは含む物が全く違っているような声だった。わたくしの何かがカヴィラの琴線に触れている。そう確信した瞬間、紛れもない喜びがわたくしの胸を埋め尽くした。
カヴィラの心を捉える事が出来るかも知れない。そう感じた。
「貴方が引き出したわたくしの一面ね。喜びなさいな」
高揚してどきどきと鳴る胸を押さえながらそう答えると、カヴィラはとうとう声をあげて笑った。幼い頃に見て以来の、正に弾けるような笑顔だった。ああ、こんな顔が出来たのね。そうよね、カヴィラは、明るい子だったもの。何か寂寥のようなものがふと一瞬、鳩尾のあたりを疼かせていった。
わたくしの表情をどう受け取ったのか、カヴィラはふと口元を引き締めた。
「ああ、お嬢様、申し訳ありませんでした、つい、楽しくて」
「ええ、よくてよ、気にしていないわ」
楽しくて、と言われた事がどうしてか酷く嬉しくて、わたくしはもじもじと指を遊ばせかけ、はしたないわときゅっと握り締めた。幸いにしてカヴィラはそれを目にしていなかった。ふと俯き、呟いている。
「しかしながらわたくしは何やら、方向性を誤った気がしてなりません」
未だ治らない動悸を隠してわたくしは微笑み、カヴィラの肩にそっと手を置いた。こういう時には慰めてやるのが良い主というものだろう。
人間の心を手玉に取るには、そっと落として劇的に上げる事だ。そうして持ち上げられる快感を待ち望み、落とされる事すら喜んで享受し、いつの間にか与えられるものが鞭ばかりになっている事に気付く事なく、盲目的に与えられるものに尻尾を振る犬に成り下がる頃になれば、わたくしの望みは達成されているのだ。
何かで読んだ人心掌握術を頭の中で思い返してみたところで、一度浮き上がった気持ちはなかなか落ち着こうとはしなかった。笑顔のまま、首を横に振る。
「いいえ、貴方は立派にわたくしの心を動かしてみせたわ」
「お褒めにあずかり、光栄でございます」
顔をお上げなさい、と声をかけると、カヴィラはゆっくりと顔を上げた。目を合わせておや、と思う。カヴィラはこのような色の目をしていただろうか?近頃は夜に間近で見るばかりだった大地色の瞳は、明るい部屋では透き通った紅茶色をしていた。
不意に思い出した。そうだ、わたくしはいつからカヴィラの髪が真っ黒だと、瞳は落ち着いた大地の色だと思っていたのだろう。カヴィラが邸に来たばかりの頃、庭で剣の稽古をする少年を眺めて、太陽に透けると髪も瞳も赤く見えるのねと不思議に思っていたはずなのに。
「カヴィラ」
「はい」
「これからもわたくしに尽くして下さる?」
「無論でございます。この命が尽きるまであなたの耳目手足となり、どこへなりともお供いたします」
わたくしはひとまず満足した。何か大事なものが、そもそもこうなるに至った大元の原因や前提条件というものが今どこにどういう形で転がっているのかという事は、今のわたくしにとって然程大きな問題ではないのだった。