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何でもない話です。
わたくしは脆弱だ。乗馬の稽古も休憩を挟み一時間が限界、ダンスの稽古は一時間がやっと。座学ですらすぐに疲れてしまう。それでも文字通り血反吐を吐きながら必死に身に着けた。見た目がこの上なく優れているのであれば、とんでもなく常識を弁えていない粗忽で野蛮な鳥頭であっても大目に見て貰えるものであろうか?――否。そのように畑の肥やしにもならぬような役立たずに貴族を名乗る資格はないのである。何も学ばずに「出来ません」が通るような果実の砂糖漬けのごとく甘い環境を用意されたとて、わたくしにはこれ幸いと遊び呆けるだけの体力すらない。あとは天使の剥製とでも命名されて我が家の玄関口にでも飾っておく程度の使い道しかなくなってしまうのである。わたくしには見目が良いだけの木偶の坊に成り下がる気は毛頭なかった。今日出来ない事が今日許されても、明日許されるとは限らない。わたくしに限っては何もかもが例外と、身体の弱さも相俟って殆どの事が許されてしまう現実があったとしてもである。全て自らの、理想のわたくしになる為だ。それもカヴィラに言わせれば、ある種人でなしであるらしかった。
「カヴィラ、わたくしは努力をしているの」
「存じ上げております」
「いつも、上を、心がけているわ」
「ご立派でいらっしゃいます」
「そうでしょう」
打てば響くような返答であるのに、カヴィラの表情が見て取れないからか、言葉はやけに白々しく、どこともつかぬ所を上滑りしていった。たった今わたくしの額を滑り落ちていった汗の玉のように。
「だからと言って無理をなされては本末転倒です。淑女は体調管理もきちんとされねばなりません」
息をついて目を瞑ったわたくしのこめかみの辺りを柔らかい布でそっとぬぐって、カヴィラは常と変わらぬ調子、少し控えめな音量でそう言った。
さて、情操教育開始から初めての発熱である。カヴィラにとっては好機ではなかろうか、とわたくしはふと考えた。この家の者は身分役職問わず看病に慣れているが、今までは夜通しの看病など大抵部屋付きのメイドが交代でこなしていたのである。しかしおそらくここぞとばかりに母に押し切られたのであろう、短時間席を外すことはあったが、カヴィラは食事すらこの部屋で手早く摂り、今も静かに寝台の傍で、水に濡らした布を静かに絞っていた。
ひやりと冷たい手のひらが額に触れて、心地よさに薄く目を開ける。生憎視界はぼんやりと膜が張ったように曖昧で、目元に力を入れてみても、表情を伺うには十分ではなかった。
「いかがなさいましたか?眉間に皺などお寄せになって」
「カヴィラ、良い機会ね」
「……わたくしはそこまで人でなしではございません」
どうやら皆まで言わずとも伝わったようであった。
「そうね」
そもそも看病自体が珍しい事ではなかった。好機と言うほど尊いものでもない。
「お嬢様、恐れながら、今は難しいことをお考えにならず、おやすみになってください」
「わかっているわ」
「お嬢様、ついでに申し上げますが、看病は奥様のご指示ではございません」
「あら……」
それではお父様かしらと目を閉じて呟いたわたくしに、カヴィラは布のように柔らかい声で告げた。
「いいえ、お嬢様。僭越ながらわたくしめが自ら手を挙げさせて頂いたのでございます」
「そう……」
「はい、そうです」
自発的に看病を買って出る程度には好意がありますよ、ということなのかしら。
「貴方、やっぱり人でなしなんじゃない……」
「どっ……どうしてそうなるんです……!?」
「静かにしてくださる?眠るわ……」
「回復なさったら誤解を解かせて頂きますからね。おやすみなさいませ」
皆まで聞かずに布団へもぞもぞと潜っていると、ややあってベッドの傍から気配が離れていった。ふっと明かりが消え、扉のぱたんと閉まる音がして、わたくしはゆっくりと目を開けた。僅かな月明かりがカーテンの隙間から真っ直ぐに差し入っている。
自分の身体が疎ましかった。気を張れば張るほどに後々支障をきたすこのか弱すぎる肉体も、我慢できずに無理をしてしまう自分の幼さも、それに振り回されて文句一つ言わない周りのやさしさも、熱を出して寝込む度に鬱陶しくて仕方がなかった。神に愛されたが故などと、わたくしの不自由をまるで美点のように褒めそやして――それならまるごとあなたにさしあげるわと、何度思ったか知れない。わたくしの見た目も、身体が弱いのも、わたくしが望む望まざるに関わらず、そうあるものなのだ。わたくしもまた、振り回されているだけなのだから、あなたがたと同じように――そんなどうしようもない事をぐるぐると考えた。
気づかぬ間に眠っていたらしい。ふと目を開ければ、部屋全体が薄らと明るくなりかけている。もう陽は昇っているのだろうかと起き上がり、ふとベッドの傍に目をやればわたくしの精悍な従者が一人、あまり柔らかくはなさそうな椅子に腰かけ、腕と足を組んで眠っていた。起こさないようにそっと反対側へ抜け出し、分厚いカーテンをくぐって窓の前に立つ。遠くの平原が徐々に黄色く、眩しくなっていく。ひやりと冷気が身体を包み、思わず身震いをし、それでも窓から離れずにただただ明けていく空に見入っていた。吐いた息が窓を白く曇らせ、意味もなくなぞった指が濡れた。ああ、美しい。
背後で何やら音がした。
「お嬢様?」
「ここよ」
カヴィラの位置からではベッドが邪魔で見えなかったのであろう、慌てた声をしていたのですぐに返事をしてやれば、カヴィラはただちにベッドを回り込んでわたくしの傍へとやってきた。カーテンの裾越しに、こちらを向いて立っている足元だけが見えている。
「またどうしてそのようなところに、冷えるでしょう」
「朝日が見たかったのよ。美しいわね」
「……左様でございますか、ほら、もうこちらにお出でになって下さい。またお風邪を召してしまいます」
応えずに無言を貫いてもう少しと意思表示をしたわたくしに、少し逡巡する気配があった。どうするのかと横目で見ていれば、こちらを向いていた足がすっと見えなくなり、少しの間をおいて戻ってきた。と思えば、失礼いたします、との声かけの後にカーテンがそっとめくられ、分厚い毛布のようなものを抱えたカヴィラが姿を現した。
「お気のすむまで、こちらをお使いください」
わたくしの身体に丁寧に毛布を巻き付けながら、カヴィラはそう言って微笑んだ。
「ありがとう。けれど、身動きが取れないわね」
「今のお嬢様には、そのくらいで丁度よろしいかと」
「まあ。カヴィラ、怒っているの?」
「滅相もございません」
「そう」
「ただ」
ただ、と口にして、カヴィラは少し考えるような顔をした。それから、またにこりと微笑んで言った。
「お嬢様は、非常に自由な方でいらっしゃいますからね」
「そうかしら」
「そうですよ」
それから口を閉ざしたまま、わたくしはカヴィラにそっと支えられながらじっと窓の外を眺めていた。時折息で白くなった窓の曇りを指でなぞろうと身動きしてはカヴィラにそっと押さえられ、長い指がどこからか出してきたハンカチで曇りを拭きとっていくのを、それこそ息のかかる距離で見つめながら、何も考えずに大人しく立っていた。
やがてすっかり明るくなった窓の外から視線を外すと、カヴィラはわたくしからそっと離れ、スムーズにカーテンを開けた。ついでというように部屋中のカーテンを開けて回りながら、明るくなった部屋の中で、もうひと眠りなさいますか、と尋ねた。
「何か温かいものがほしいわ」
「では、砂糖入りのミルクを用意いたしましょう」
「素敵ね」
「少々かかりますので、お嬢様はベッドへお入りになって下さい」
「ええ」
わたくしが布団をかぶるのをきっちりと確認してから、カヴィラは扉の前で一礼し、静かに部屋を辞した。カヴィラが戻ってくるまでの時間をベッドに戻って暖を取りながら、わたくしは密かに窓の水滴をぬぐう長い指を思い返していた。