序章 幕開けはこれから
井村奏は、とびぬけて美しい容姿を持つ少年だった。長い睫毛と、柔らかな髪に似合う、愛くるしい美貌。大きな瞳はどこまでも澄んでいて、清らかだ。
奏はその容姿とは性格が不一致なことで有名な少年でもあった。彼の生活が一変してしまったため、環境が大きく変わり、友人も減った。周囲の視線も大きく変わり、彼は孤独の中に立つこととなる。
そんな息子を気遣ったのか、病弱な母のきよは、あるつてを使うこととした。幼い頃に出会った少年がくれた大切な鏡を使い、寝室の窓から月を映す。
きらりと光を反射した鏡の眩しさに眉をひそめながら、きよは布団に戻ろうとした。
そこでふと、気配を感じたのだ。枕元に誰かが立っている。
きよは驚愕して動きを停止してしまう。息も詰めてしまったため、心臓がどくどくと早鐘を打つ。
言葉を発する前に張り詰めていた緊張の糸が、その「誰か」によって断ち切られる。
セーラー服を着た娘だった。息子の奏よりは幾分、年上だろう。少女にしては高い身長と、しなやかな体躯を持っているのが、薄明かりの中でうかがえた。
闇に溶け込むような黒髪をしているのと、存在を急に主張し始めた威圧に、きよは止めていた呼吸をどうすればいいのかわからなくなる。
「奥方、息をしてください」
ゆるやかに言われた声は存外に優しく響き、きよは安堵と共に大きく息を吐いた。
見上げたそこに、確かに娘はいる。だというのに、顔が見えない。
「あなたは……」
「頭領の交わした約束のため、馳せ参じました」
佇んでいた少女が急にかしこまったように屈み、片膝を立てた状態のまま、頭を垂れる。
「して、どのような用件か、奥方」
口調はまるで少年のようだ。折り目正しい声音に、きよは胸元に手を置いて彼女をうかがう。
「私の息子、奏を守って欲しいの」
「……承知いたしました。本日から、私が護衛につくこととなります。問題あれば、他の者を寄越しますが」
「問題も何も、あなたのことをよく知らないのに」
困ったように頬に手を遣るきよを、俯いた姿勢のまま少女がくすりと笑う。
「そうでありますな。奥方を困らせるつもりは毛頭ございませんゆえ、ご容赦を」
「あなたは、彼の娘さん?」
「いいえ。私は頭領の統べる一族の一人に過ぎませぬ」
「……ずいぶんと、かしこまった口調で喋るのねえ」
のんびりと言うきよに、彼女は少し思案したようで急に雰囲気を変えた。
「ではもっと砕けた口調にしましょうか、奥方。いえ、時代がかった喋り方が好きだという方も多いもので」
苦笑気味に言う少女は顔をあげた。だが、それでもやはり、きよには彼女の顔が「見えない」。
不気味と思えるはずなのに、何故かきよはそう思わなかった。
「まずは名前を教えて欲しいわ。大事な息子を、あなたに任せるのだもの」
「名前はございません。お好きにお呼びください」
「ええ? 名前がないの?」
「呼び名はありますが、番号に近いので。どうしてもとおっしゃるのなら、偽名か、よく使う名を教えます」
真実の名前すらないとは、どういうことなのか。混乱するきよに、彼女は笑った。
「こ、困ったわねえ。じゃあ、あなたが気に入っている名前は?」
「…………」
少女はそこでちょっと首を傾げ、それから不敵な笑みを浮かべた。雰囲気でそれが伝わってくる。
「『くづき』、と。若君が、私に最初にくださった名前です」
悪戯っぽく言う彼女の言葉に、きよは瞳を丸くして驚いてしまった。




