第三話
話があるんだ、とウィルが改まって言い出したのは、工事の昼休憩のときだった。
学校側からふたりには、空き教室のひとつを資材置き場と休憩室として提供されていた。その資材も、既にほとんど工事に使用されてなくなり、がら空きの教室の真ん中に、ぽつんと椅子と机が四つだけある。体だけは大人の男には小さすぎる机と椅子をふたつ並べて、ふたりは弁当を開いていた。
「何だよ」
「あのさ、ジェイド。ぼくたち、恋人だよね?」
唐突に口にするにはあまりにも直接的な言葉すぎて、声をひそめたものの、思わず視線を外してしまった。
「……そうだよ?」
気配で、ジェイドが周りを見回したのがわかる。
教室のドアはきっちり閉めているし、校庭がこれほどうるさいのに、聞こえるはずもない。窓の外にだれもいないことだって、ウィルはきちんと見ている。
「なんだよお前、恋人できたとか言うんじゃねぇだろうな?」
あまりにもありえない答えに、思わず笑ってしまって、うるせぇと今度はジェイドが頬を染める。
「それはありえないよ。じゃなくて、前の夜に、女の子に会って」
「はぁ?」
「夜に、学校に忘れ物を取りに来たんだよ。あの、――今日の前の日、ぼく、上着を忘れて帰ったでしょう?」
ジェイドの前で、タオルを忘れたとは言いにくく、ウィルはとっさに嘘をついた。これくらいは許される嘘だろう。
「知らねぇけど。それで、なんで女の子なんだ」
「取りに来たはいいけど、灯かりを忘れてて。どうしよう、でも民家に借りるにも、と思ったら、ふと隣の日付屋が目に入って」
自然とジェイドの視線が日付屋の方角に向く。
「断られたら諦めればいいか、と思ってノックしたら、女の子が出てきたんだよ。日付屋の。そしてランタンを借りて、タ――じゃなくて上着を拾って、その帰りに訊いてみたんだ。『誕生と婚姻と死去じゃなくても、日付を買うことはできないの』って」
「マジでそんなこと訊いたのかよ」
「マジだよ。女の子だし日付屋だし、大丈夫だろうと思って」
同性愛なんておそらく知らないだろうし、日付屋は町の人たちとの交流をいっさい持たないから、彼女の口からウィルがそんなことを訊いたなんて漏れることはない。
「まぁ、大丈夫だろうけど。んで?」
「売ってくれるって」
「マジでか!」
思わず声の大きくなったジェイドの口を片手で塞ぐ。
「うん。だからさ、その……、今日の夜、一緒に彼女に会いに行かない?」
「なんでだ?」
「……」
ウィルは思わず口ごもった。
特に何もできる約束がないぼくたちにも、日付があればひとつの約束として見えるから、日付が欲しいのだと言ったら、ジェイドは笑うだろうか。
でもそれを説明しなければ、今日の夜に一緒に行くことはできない。
「……あのさ、ぼくらの記念に、日付を買わない?」
ジェイドがぽかんとした表情になるのを、ウィルはこわごわと見つめた。
「だから、……日付って、ひとつの目印だから」
ウィルだけでなく、ジェイドにも誕生日がある。ジェイドの両親が買い与えたものだ。ウィルとジェイドがもしこれからも続いていくとすれば、結婚するわけにもいかず、ずっと日付は自分の死まで得られない。
でも今、日付を買うことができるなら、それが正確にふたりの関係が始まった日ではなくとも、ひとつの証になる。
「……それでウィルが満足するなら、俺はいいけど」
ややしばらく考えて、ジェイドは答えた。
「俺は別に目印なんかなくても、ウィルがそばにいるならそれでいいと思ってっけど。ウィルが欲しいってんなら、あったほうがいいかもな」
「ありがとう」
ウィルの頬がゆるんだ。つられて、ジェイドも口の端を上げる。
思わず手を握りたくなったけれど、万が一のことを考えてやめた。今ふたりの声が届く範囲に人がいないことは見ればわかるけれど、ふたりが見える範囲がどこまでかはわからないのだ。校庭でたまたま余所見をした生徒が、この教室の窓を見ていないとは限らない。
そんな、人目を気にする関係だとしても。
日付はひとつの印であり、証なのだと、ウィルは思う。
***
その夜、ふたりは別々に家を出て、学校の裏手のところで落ち合うことにした。
前の夜に日付屋の少女に会っていたのはウィルだけだから、ウィルではないと話が繋がらない。しかも、少女は他の日付屋の人がいるともいないとも言わなかったから、少女ではない日付屋が出てきたら困る。
先に到着したのはジェイドだった。
壁に寄りかかって、地面にしゃがみこむ。窓のないところだから、建物の中にいる日付屋たちにもバレないだろう。
ウィルはまだ来ない。もう少し細かく、いつの時に家を出たらこのくらいの時に到着するというのがわかればいいのだが、あいにくこの国にそういった仕組みはない。太陽がどのくらいまで昇っているかで、朝、昼、夕、そしてその間、などというだいたいの「時」の見当はつくが、夜になってしまえばまったくわからなくなるのだった。
なんでそんな仕組みがなんだろう、とジェイドは考えた。自分のような莫伽ならばともかく、峠を越えた向こうまでも支配して役場を置けるような国王や、その役人たちならば考えられるのではないだろうか。
そんなことをつらつらと思っていた時だった。
こちらに向かってくる足音が聞こえてジェイドははっと意識をそちらに向けた。
ウィルの足音ではない。すくなくとも、ウィルはあんなに歩幅が狭くはないはずだ。それに、音が軽いところを見ると、体重の軽い女性か子どものような気がする。ウィルはジェイドよりはやや背も低いとはいえ、十分に男の体型だし、そこらのオヤジたちよりは大きい。
足音はすぐそばで止まり、同時に気配がようやく伝わってきた。
子どもだ。ここにはまったく明かりがなくて、輪郭さえも見えないが、子どもにはまちがいない。
「……何?」
すこし待ってみたが、相手が何も言わないので、ジェイドは自分から話しかけた。
だが返事はない。
「俺に何か用?」
すこしイラッときて、トゲのある口調になる。
それでも相手はすぐには答えず、もう一度「何か用かよ」と言おうとした瞬間に、
「迎え」
という意味不明な答えが返ってきた。
細い女の声。気配の大きさとあわせて考えて、おそらく少女だろう。だが声の落ち着き具合と、声の降ってきた高さからして、ジェイドのもっとも苦手とする、学校に入るか入らないかくらいの大きさの子どもでないことはわずかに救いだった。
「迎えって? 俺を迎えに来たの?」
わかりにくいが、頷いた気配がする。
「日付」
さらに意味不明なことを少女は言う。
日付がどうした。
――あ、もしかしてこの少女が、ウィルが昼間言っていた日付屋の少女だろうか。
「もしやお前が日付屋ってわけ?」
得心して言うと、少女も頷く。
「そか、俺を迎えに来たんだな。ウィル――昨日お前に会った男はもう着いてるのか?」
少女は首を振った。
「でもお前、俺が今日来るやつだってわかったの?」
これには少女は答えなかった。日付屋は日付がわかるくらいだから、特殊な能力があるのかもしれない、とジェイドは思う。
「じゃ、付いていきますよ日付屋サン」
ジェイドはズボンをはらって立ち上がった。
そこへちょうど、ばたばたと足音が近づいてくる。今度こそ、ウィルにまちがいない。
「ごめん、ぼくのほうが遅かったね。――え、きみ、ジェイドがぼくの相方だってわかったの?」
ウィルも驚いているのを聞くと、ウィルが彼女に、ジェイドを迎えに行くように頼んだわけではなかったらしい。
少女はうなづき、半回転して日付屋の方向に歩き始めた。
ふたりもそれに続く。
「ね、彼女がぼくの浮気相手じゃないこと、わかったでしょう?」
ウィルが耳もとでそんなことを囁いたので、わき腹をつねってやった。
「彼女が聞いてたらどうすんだよ」
「大丈夫だよ」
ウィルの言ったとおり、彼女はまったく振り返ることも、足を止めることもなかった。
なんだか不思議な子だな、というのが、ジェイドの初めて日付屋を見た感想だった。
まるで人間じゃないみたいだ、と一瞬思ったことは、すぐに頭の中で取り消した。どうせ子どもというのはぜんぶ、人間とは似て非なる生きものなのだ、ジェイドにとっては。