表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/4

第二話


 落としてきた、と気づいたのは、ベッドに寝転がった瞬間だった。

 風呂屋にも行って頭を洗って、着替えもすませている。もちろん夕食も。硝子などはめることのできない庶民住宅の木窓の向こうは、すでにとっぷり暮れて、真向かいの家の窓から漏れているランタンの明かりがちょうど見える。

 ――たかがタオルひとつだ。

 ウィルは深呼吸した。でもあれは。

 貰いものなのだ、ジェイドからの。この間、ようやく塗装屋のおやじさんに一人前認定をされた時に、お祝いとしてジェイドが買ってくれたのだ。

 まさかそれを、こんなに早く落としてしまうわけにはいかない。しょっちゅう持ち歩いているから、そろそろ汚れてきてはいるが、そのままにしておいて次の日現場に行ったときにジェイドに見つかるのもばつが悪い。なにより、先にほかの誰かに見つかって、汚いタオルだなとでも思われて処分されてしまうのが一番いやだ。

 ウィルは立ち上がった。

 新しいシャツとズボンを小さなワードローブから取り出して身につける。居間に顔を出したら、ちょうど母は風呂屋へ行っていて、妹のメイがだれかから貰ったのか、新聞を読んでいた。

「ちょっと出かけて来るよ」

 廊下から声をかけると、メイは顔を上げずに頷いた。

「うん」

 文章に夢中になっているときは、何を言われても耳に入ってこないのは、ウィルもそうだから理解できる。どうせすぐ戻るのだし、メモを残さなくても大丈夫だろう。

 ウィルはサンダルをつっかけて外へ出た。

 やや早足で道を進んでいく。家々からこぼれるわずかな明かりを頼りに、学校の裏手まで、さほど多くを歩かずにたどり着いたが、着いてからはたと気づいた。

 ――ここまでは明かりがあったけど、学校の裏手なんかに明かりがあるわけないじゃないか、家にいた時のぼく!

 どこかの家からランタンを借りようかとも思ったが、そんなことをしては、なぜ夜にこんな場所へ来たのか、一から説明しなければならない。タオルひとつを取りに来たと言っても、怪しまれるだけだろう。

 途方に暮れて、辺りを見回したところで。

 ふと、一軒の家の明かりが目に入った。

 学校のすぐそばの家。いや正確には家ではなく、「日付屋」。

 文字通り日付を売る、政府直営の店だ。店員は常に店の中にいて、めったに表へ出てくることがない。食料などは役場の役人が運び、日付屋自身は一生を店の中で過ごすというのがもっぱらの噂だった。

 誕生や婚姻、死去の際に日付を買いに行った大人たちの証言もバラバラで、大人のうつくしい女性だという人もいればやんちゃな少年だという人もあり、女か男かわからない老人だという人もいた。

 何人かの証言は重なっているので、日付屋は何人かいるのだろうということになっていたが、ウィルの家とさほど変わらない大きさのこの建物に、住めるのはどうがんばったとしても、せいぜい四人か五人だろう。そんなバラバラな人物像の人たちが何十人もいるとは到底思えなかった。

 そんな得体の知れない、しかし見た目は多少頑丈な柱作りになっているだけのごくふつうの家から、今細い明かりが漏れている。

 日付屋は政府の直轄だから、窓には硝子がはまっている。その向こうにはカーテンが引かれているが、わずかな隙間からは明らかにランタンの明かりが漏れていた。

 人影がそこに映ることはない。だが、人がいるのは確かだろう。

 もう日付屋の営業時間ではないが、民家に明かりを借りるよりは問題がないように思える。断られたら諦めればいい。

 そう自分に言い聞かせて、ウィルは体の向きを変えて日付屋へ向かった。

 ドアをノックする。

 目の詰まった木でできたドアは、男のウィルがこぶしで叩いてようやく音が響くほどの分厚さだ。これも政府直轄だからなのだろうか。

 一度に二回、それを三度繰り返したところで、中からノックで返事があった。

「あのー、もう店終わってるのにすみません、ランタンかろうそくあったら貸してもらえませんか?」

 すこし離れた民家には聞こえない程度に、声を張り上げる。

 やや間があって、もう一度、中からか細いノックが返ってきた。

 これはどういう意味なのだろう、とウィルが首をかしげた瞬間、ギィと鈍い音を立てて重いドアが開いた。

 だれもいない、と一瞬思いかけて、視線を落とすとそこに子どもが立っていた。

 少女だった。ウィルよりはもちろんのこと、メイよりも小さい、学校に通う子どもたちと同じくらい小さな女の子だ。

 このあたりでは珍しい、螺旋状の長い髪をかすかに揺らして、少女はウィルを見上げた。

「……終わり」

 少女が指さすので、何のことかと思ったら、戸口の横に『日付屋』という看板があった。日付屋の営業は終わったという意味だろうか。

「あぁ、うん、それは知ってるんだけど。ちょっと落し物を取りに来たんだけど、灯かりを持ってくるのを忘れてしまって。貸してもらえないかな、と」

 少女はじっとウィルを見上げていた。迷っているようにも見えるし、ウィルの正体を疑っているようにも見える。頭ふたつぶんくらいの身長差にもめげず、少女は目を泳がせることもなく、ウィルと向き合っている。

 やがて、少女はドアを支えていた手を離し、くるりと回れ右をして奥へ引っ込んでしまった。

「あ、あの!」

 ウィルは慌ててドアを引きとめ、玄関に入る。

 生まれて初めて入る日付屋は、営業時間外だからなのか、ほとんど暗くて、ただ正面に、学校の机のようなテーブルが置いてあり、椅子が手前に三つ、奥に一つあるのがぼんやりと見えた。ここに座って、日付を買うのだろうか。

 さらにその奥から、明かりが漏れているところを見ると、そちらが日付屋たちの居住空間なのだろう。ほかに何人の日付屋がいるのかはわからなかったが、話し声が聞こえないところを見ると、仲が悪いのか、もしくは既に眠ってしまっていた後だったのかもしれない。

 起こしてしまって悪いことしたかなぁ、と思ったところに、少女が奥からカーテンをかきわけて現れた。

 無言で差し出されたのは、ふだんウィルたち庶民が使うのとさして変わらない大きさ、装丁のランタンだった。

「ありがとう。すぐ返しに来るよ」

 少女はかすかに頷き、また奥へ引っ込んでしまった。

 ランタンのおかげで、玄関付近は明るくなったが、学校の図書館のように壁に本が並んでいるわけでもなければ、むかし同級生たちと想像したように妖しげな文様が刻まれているわけでもなく、ごくふつうの木造の壁だった。

 すぐに学校に戻り、タオルを探す。ランタンのおかげで早く見つかった。だから、日付屋に返しに来るまでに、さほどかかっていないはずだ。

 もう一度ノックをすると、今度はすぐにドアが開いた。

 やはり巻き毛の少女が立っていた。

「ありがとう。すごく助かったよ」

 ウィルがランタンを差し出しながら軽く頭を下げると、少女はこくんと頷く。

「あのさ……ひとつだけ、これとは別に訊きたいことがあるんだけど」

 おずおずと言い出すと、少女はわずかに首をかしげて、すっとウィルに向かって手を伸ばした。慌ててよけると、少女はドアを閉めてカギをかけ、それからウィルを見上げた。

「……あ、うん。あのさ、日付ってどうやって買うの?」

 少女はさも不思議そうに首を傾げる。

「日付って、子どもの誕生か、婚姻か死去のときにしか買えないんだよね。そうじゃないんだけど日付が欲しいときはどうしたらいいのか、わかる?」

 たとえば、男の恋人と約束した日の日付を買うとか。

 まさか具体的に言うわけにもいかず、ぼかしたが、少女はそれで理解したのかしないのか、

「買える」

と答えた。

「ん? それは誕生でも婚姻でも死去でもないときでも、日付を売ってくれるってこと?」

 少女は頷いた。

「でも……、ぼくは学校で、その三回しか日付屋は売ってくれないって習ったんだけど。大丈夫なの?」

 再びこくり。

「じゃあ、……その、この次の夜に買いに来てもいい? きみはいるかな?」

「いる」

「じゃあまた、太陽が沈んで月が出てしばらくしたら来るよ、今ぐらい暗くなったころに」

 少女は同じ調子で頷く。

「ランタンを貸してくれてありがとう。なにかお礼も持ってくるよ。欲しいものはない?」

「……」

「じゃあ、この次の夜までに考えておいて。じゃあね」

 椅子を引いて立ち上がり、日付屋を後にする。

 少女は手も振らなかったし、お辞儀もしなかったが、黙ってドアに消えるウィルを見つめていた。まっすぐな瞳で。

 無表情の、静かな少女。

 それが、ウィルの初めて見た日付屋の姿だった。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ