第2話:王子現代の魔導書「Excel」と出会う
松代の屋敷は、城と見紛うほどではなかったが、
一国の王子として育った一太郎の目から見ても「規格外」だった。
横浜の小高い丘に建つその邸宅は、
隅々まで磨き抜かれ、埃一つ落ちていない。
「……松代殿、この床の輝き。
鏡面反射による光学迷彩の一種か?」
「ただのワックスよ。さあ一太郎、あんた体は丈夫そうだけど、
まずはその汚れた服を脱いで。お風呂に入ってきなさい」
生まれて初めての「システムバス」に驚愕し、
自動で出てくる適温の湯に「水と火の精霊の完全なる調和」を
感じながら、一太郎は身を清めた。
翌朝。
松代に借りたTシャツとデニムパンツを履いた一太郎は、
書斎へと案内された。
「あんた、昨日自販機の前で
『魔力がどうの』って言ってたわね。
この世界に魔法なんてないけど……
これなら、あんたの助けになるかもしれないわ」
松代が指し示したのは、
机の上に置かれた薄型の黒い筐体――ノートパソコンだった。
一太郎がおそるおそる指で触れると、
画面が淡い光を放ち、色彩豊かな異世界の景色が浮かび上がる。
「……っ、光る板か。これも魔導具の一種だな。
だが、文字の羅列が見当たらぬ。
どうやって術式を展開するのだ?」
「まあ、これでも読んでなさい。私は仕事に行ってくるから」
松代が置いていったのは、一冊の分厚い本。
『世界一わかりやすいExcel2026:関数・マクロ完全攻略』
一太郎は椅子に深く腰掛け、その「魔導書」を手に取った。
最初の数ページは、表計算の概念。
だが、中盤の「関数」の項目に差し掛かった瞬間、
一太郎の指が止まった。
「……なんだ、これは」
そこに記されていたのは、
魔法陣の核となる「論理式」そのものだった。
**=IF(A1>=80, "合格", "不合格")**
「もし、A1という魔力溜まりが
八十以上の純度を持つならば、『合格』という事象を顕現させよ。
……そうでなければ、『不合格』という虚無を返せ、だと?」
一太郎の若く柔軟な脳が、猛烈な勢いで回転を始める。
彼は気づいてしまった。
この「エクセル」と呼ばれる術式体系は、
言葉によって事象を制御するのではなく、
論理の積み重ねによって結果を導き出す、
究極の無属性魔法であることに。
「……素晴らしい。記述された論理だけで世界を定義している。
この『セル』一つ一つが、魔力を蓄える魔石のような
役割を果たしているのか!」
---
三日間、一太郎は不眠不休で魔導書を読み込み、
パソコンという祭壇に向き合った。
四日目の朝、帰宅した松代は一太郎の成果を見て絶句した。
彼が三日で作り上げたのは、松代が趣味でつけていた
「お掃除アルバイトの管理表」を劇的に改造した、
**自動収益予測システム**だった。
「あんた……これ、三日で覚えたの?」
「記述が合理的ですから。
前の世界では『火龍の怒りを鎮める術式』を組むのに
三ヶ月かかりましたが、この『マクロ(VBA)』という言語は、
それに比べれば赤子の遊びのようです」
松代は確信に満ちた笑みを浮かべ、一太郎の肩に手を置いた。
「決めたわ。一太郎、あんた、その腕を持って、
私のビルに入っている会社に行ってちょうだい。
そこはね、亡くなった夫から引き継いだ大事な組織なんだけど
……今は根性論だけで回ってる、
『真っ黒な組織(ブラック企業)』**に成り下がっているのよ」
「……松代殿が主である組織が、
病んでいるというのですか?」
「恥ずかしながらね。
現場の部長たちに任せきりにしていたら、
若い子がどんどん辞めていく場所に変わってしまった。
……一太郎、あんたのその『現代の魔法』で、
あの澱んだ場所を根こそぎ掃除してやって頂戴」
一太郎は静かに立ち上がり、深々と一礼した。
「承知いたしました。恩人の領地が荒れているならば、
騎士として見過ごすわけにはいきません。
その澱み、私の論理で浄化してみせましょう」
羽柴一太郎、二十五歳。
彼が初めて現代社会という名のダンジョンに潜入する日が、
すぐそこまで迫っていた。
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