第9話「悪女と王のハッピーエンド」
帝国の旗は、燃えるような赤だった。
王都の門前に並んだ馬車列は、その赤を誇示するみたいに揺れ、護衛の騎士たちは無駄のない動きで周囲を警戒していた。王国の人間は遠巻きに見ている。怖がっているのではない。正確には――値踏みしている。
帝国が皇子を回収しに来た。なら、その皇子は“商品”ではなく“爆弾”だ。
爆弾は、誰の手にあるかで価値が変わる。
私は玄関ホールで外套の襟を整え、最後に屋敷を見回した。ひび割れた壁、止まった噴水、貧乏貴族の象徴だった場所。だが今は違う。鉱山の配当金で使用人は増え、倉庫には物資が入り、帳簿の数字は右肩上がりだ。
没落予定だった家は、もう沈まない。
沈むのは――別のものだ。
「お嬢様……本当に行くのですか」
乳母の声は震えていた。怖がっている。帝国の血の匂いを。
私は笑って、乳母の手を軽く握った。
「行くわ。だって市場が大きいもの」
「市場……」
「帝国は王国よりずっと金が動く。利息も高い」
乳母が泣きそうな顔で頷く。私はその肩をぽんと叩き、廊下の影に視線を送った。
カシアンが立っている。
数ヶ月前の痩せた少年ではない。肉がつき、背が伸び、目に迷いがない。剣は腰にある。姿勢は、すでに“帰る者”のそれだ。
私は近づき、囁いた。
「忘れてないわよね。私の条件」
「忘れるわけがない」
「よし」
私は彼の胸元を指先で叩く。そこに、あの護衛契約書が入っている。紙は薄いのに、鎖みたいに重い。
「じゃあ行きましょう。あなたの玉座を取りに」
帝国の大使補佐官ギルバートは、私を見るなり妙に丁寧な礼をした。外交官の礼だ。だがその丁寧さは、警戒でもある。
「イザベラ様。帝国は条件を受け入れました」
「三つとも?」
「はい。十年保護条約、商取引の窓口、そして……あなたの安全保証」
「素晴らしい。交渉って気持ちいいわね」
私は微笑む。ギルバートの喉が動いた。悪女の笑みを見て、条件が安く済んだと気づき始めたのだろう。だが遅い。契約は契約だ。
私は馬車へ乗り込む前に、王都の方角を一度だけ見た。
王子はもういない。聖女(笑)もいない。二人は社交界から姿を消し、火消しに追われ、信頼を失った。王国の“正義の絵”は崩れた。崩れた絵の残骸は、次の国難を呼ぶ。
(ここから先は、帝国のターン)
馬車が動き出す。王国の石畳が遠ざかり、代わりに荒い土の道が続く。境界を越える瞬間、空気が変わった。風の匂いが変わる。人の目が変わる。国が変わる。
そして数週間後――帝都。
帝国は王国の数倍の規模で、数倍の熱を持っていた。街は広く、兵は多く、貴族の傲慢さはより露骨で、金の動きは速い。私は胸が高鳴るのを感じた。
(最高の市場)
だが帝国は歓迎してくれなかった。
皇子が戻ったという情報は、帝都に火をつけた。炎は喜びではなく警戒の炎だ。彼を追放した側の貴族たちは、まず彼を殺そうとする。殺せば問題が消えると思っている。
愚か。
問題は、消した瞬間に倍になるのに。
「刺客は三度目よ」
私は屋敷――いや、帝国大使館の保護区の部屋で、帳簿に指を滑らせながら言った。窓の外では、帝国の兵が巡回し、夜の街は鋭い。
カシアンは壁際に立ち、剣の手入れをしている。
「殺せと言ったら殺す」
「まだよ」
「……まだか」
カシアンの声に苛立ちが混じる。血を流すなら早い方がいい。彼の性格ならそうだろう。だが私は違う。私は金で殺す。
「殺すと高くつくって教えたでしょう?」
「帝国では金より血が早い」
「血は早いけど、汚れるの。汚れた王は、すぐに叩かれる。叩かれると相場が下がる」
私はペンを置き、彼を見上げた。
「あなたは王になる。なら、最初から“正当性”を買い取りなさい」
「正当性……」
「そう。敵は殺す前に、価値を下げてから」
私は机の上の封筒を指で弾く。中身は――帝国貴族たちの不正の証拠。賄賂、横領、密輸、そして皇子追放に関わった者たちの署名付き密議記録。
全部、金で買った。
帝国の貴族は高慢で、口が固いと思われている。でも違う。口は固いが、財布は緩い。緩くなるまでの金額が、王国より高いだけだ。
「明日、議会が開かれる」
私は言った。
「そこであなたは“戻ってきた皇子”としてではなく、“帝国を救う正統後継者”として立つ。敵の正当性を、私が先に破壊しておく」
「……お前は、帝国でも同じだな」
「当然よ。どこでも買い叩く」
翌日、帝国議会。
広い円形の議場。石柱。赤い絨毯。貴族たちの視線。皇帝の座はまだ空席だった。現皇帝が病に伏し、実権は摂政派が握っている。カシアンを追放した連中だ。
議場がざわつく中、カシアンが入場する。赤い外套。帝国の紋章。堂々と歩く姿は、すでに王の影を持つ。
貴族の一人が嘲るように言った。
「追放された皇子が、今さら何をしに来た」
別の者が笑う。
「恥を晒しに来たのか」
「呪われた血が戻ってきたぞ」
私は議場の端、傍聴席に座っていた。扇で口元を隠し、彼らの言葉を聞く。前世なら震えていたかもしれない。今は違う。
(配当金の前払いね)
カシアンは一言も返さず、中央に立った。視線を上げる。議場が静まる。自然に静まる。空気が支配される。
そして彼は言った。
「帝国を売った者を、買い叩きに来た」
議場が凍る。
私は笑いそうになった。私の言葉を盗んだ。いい。私の投資は、私の言葉まで利息を付けて回収し始めている。
摂政派の貴族が怒鳴る。
「戯言を! お前に権限はない!」
カシアンが言った。
「ある。血と――契約でな」
私は扇を閉じ、立ち上がった。
「契約について、説明いたしますわ」
私が声を張ると、議場の視線が一斉にこちらへ向く。王国の令嬢が、なぜここにいる。なぜ口を挟む。疑問が渦巻く。
私は微笑み、封筒を開けて書類を掲げた。
「まず、摂政派の皆様が皇子殿下追放の際に交わした密議記録。署名付き。さらに、帝国港湾の密輸記録。横領の帳簿。賄賂の受領書。……全部、揃ってます」
議場がざわめく。摂政派の顔色が変わる。怒りではなく恐怖。数字と署名は、剣より確実に首を落とす。
私は続ける。
「皇子殿下は呪われた血ではない。呪われているのは、帝国を食い物にしているあなたたちの指よ」
息を呑む音。誰かが咳き込む音。逃げ道を探す足音。
私は最後に、決定打を出した。
「そして――現皇帝陛下の病状を利用して議会を操っていること。薬の調達先と流通記録、揃ってます」
沈黙。
摂政派が、言い返せない。言い返すと、ここで終わる。言い返さなければ、ここで終わる。
詰み。
議場の空気が、カシアンへ向き直る。正統後継者。救い。新しい秩序。人は恐怖から逃げるために王を作る。
カシアンは淡々と言った。
「俺は帝国を取り戻す。邪魔するなら――値札を付けて売り払う」
その言葉で、議場の半分が跪いた。
残り半分も、数日のうちに崩れた。
抵抗した者は、私が用意した証拠で潰れ、資産を没収され、味方だった者は保身のために寝返った。帝国の政治は血で動くと思われがちだが、実際は金と恐怖で動く。
そして今、恐怖を操る者の背後に――私がいる。
数日後、皇帝が崩御し、議会は新皇帝を選ぶ。選ぶと言っても形だけだ。空気はもう決まっている。
戴冠式の日、帝都の広場は赤い旗で埋め尽くされた。
カシアンは玉座に座り、冠を受け取った。瞳は冷たく、笑わない。群衆は歓声を上げ、同時に息を殺す。愛される王ではない。恐れられる王。征服王の誕生だ。
私はその光景を、最前列で見ていた。
胸の奥が、ぞくりと震える。
(推しが王になった)
私の投資が、最高の形で回収された。こんな配当金、他にない。
式が終わり、王宮の奥。私が案内された部屋の扉が閉まった。
豪奢な室内。絹のカーテン。金の装飾。王の私室。
私は扇を閉じ、息を吐く。
「……やっと終わったわね」
背後で、扉の鍵がかかる音がした。
振り向くと、カシアンが立っていた。もう皇子ではない。皇帝だ。だが私を見る目だけは、皇帝の目ではない。獣の目だ。飢えて、焦がれて、ずっと我慢してきた目。
「終わってない」
「何が」
「契約だ」
彼が一歩近づく。距離が縮まる。逃げ道はない。けれど私は逃げない。
「私の条件、覚えてる?」
「全部」
カシアンは低い声で言った。
「お前の財と自由は守る。好きに扱わない。……そしてお前が欲しい時に、お前を抱く」
「いい子」
私は微笑む。勝利の微笑みだ。悪女の勝利。
「じゃあ次はあなたの条件ね」
「条件は一つ」
「なに?」
「お前を買う」
言い切る声は、剣より鋭い。
私は肩をすくめた。
「買うって、値札は?」
カシアンが私の顎に指を添える。乱暴じゃない。だが逃がさない。
「帝国の半分」
「安いわね」
「足りないなら増やす」
「増やせば増やすほど、あなたは暴君になる」
「暴君でもいい。お前を失うよりマシだ」
胸の奥が熱くなる。打算のはずだった。計算のはずだった。だが、この熱は数字では割れない。
私は笑って誤魔化すのをやめた。
「……愛の重さは金じゃ測れないって言ったでしょう」
「だから測らない」
「じゃあどうするの」
「奪う」
カシアンがさらに近づき、私の額に自分の額を軽く当てた。息が絡む距離。
「お前は俺を買った。今度は俺が買う。公平だ」
「公平ね」
私は彼の胸元の帝国の紋章を指先で撫でた。
「じゃあ、契約書を作りましょう」
「今すぐ?」
「今すぐ。私は曖昧が嫌いなの」
私は机に向かい、羊皮紙を引き寄せた。ペンを取る。カシアンが背後から私を抱くようにして覗き込む。熱が背中に触れる。
私は書いた。
――契約名:王妃買い取り契約。
――対象:イザベラ・ド・モンテスキュー。
――対価:帝国の財政支援権、貿易特権、王妃の地位、そして皇帝の独占。
書き終えて、私は振り返った。
「署名して」
カシアンは笑った。初めて、心から笑ったみたいに。
「……お前は、本当に悪女だな」
「今さら?」
「好きだ」
その一言は、金貨より重かった。
カシアンはペンを取り、署名した。皇帝の署名。帝国で最も価値のある文字だ。
私は署名し、印章を押した。
「これで、私はあなたのもの?」
「俺の王妃だ」
カシアンが私を抱き上げる。乱暴じゃない。けれど絶対に落とさない腕だ。
「買い取られた気分は?」
「悪くないわ」
私は彼の首に腕を回し、囁いた。
「でも覚えておいて。私は王妃になっても投資する。国難も、貴族も、戦争も、全部買い叩く」
「好きにしろ」
「あなた、放任するの?」
「お前が暴れるほど、帝国は強くなる」
私は笑った。
「じゃあ、あなたは最強のバックね」
「最強の何だ」
「後ろ盾」
「……背中は任せろ」
カシアンが私の額に口づける。軽く、確かめるように。
私は目を閉じ、処刑台の雨を思い出した。
あの時、私は笑った。満足げに。次はもっと上手く買い叩いてやると。
――本当に買い叩いた。
婚約も、国難も、王座も、そして王そのものも。
私は目を開け、皇帝の目を見つめた。
「ねえ、カシアン」
「何だ」
「あなたが王になった時、私、世界で一番いい顔で笑うって約束したでしょう」
「ああ」
「今がその時よ」
私は笑った。
処刑台の笑みではない。皮肉でもない。
投資が回収された女の、心底満足した笑みだった。
そして帝国は、悪女と王の物語を新しい伝説として語り始める。
金で世界を買った悪女と、
その悪女に買われ、最後に悪女を買い取った王の、
ハッピーエンドとして。
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