第8話「愛の重さは金では測れない」
春が過ぎて、学園の木々が濃い緑をつけ始めた頃――空気が変わった。
王都の噂は、いつもなら恋と金で回る。だが最近は違う。言葉の端々に、戦の匂いが混ざっている。
「帝国が動いているらしい」
「皇子が生きているとか」
「人質の扱いを巡って、外交が荒れている」
誰もが確証のない話を、確証があるふりで囁く。けれど私は知っている。これは噂ではなく、前触れだ。
帝国が、カシアンを迎えに来る。
前世では、彼は自力で帰った。今世では違う。私が価値を上げすぎた。目立たせすぎた。帝国が放置できないほどに。
――つまり、私の投資が効きすぎた。
「お嬢様。外です」
屋敷の応接室に、老使用人が駆け込んできた。声が上ずっている。いつもの“借金取り”の恐怖ではない。もっと大きいものを見た時の声だ。
私は紅茶のカップを置いた。
「何?」
「帝国の……使者です。馬車が三台。護衛も……騎士が……」
乳母が息を呑み、手を胸に当てた。私の背後で、影が動く気配がした。
カシアンだ。
彼は静かに立ち上がり、扉の方へ向かおうとする。その背中は、いつもより硬い。冷たい鎧を着たみたいに。
私は指先で机を軽く叩いた。
「座りなさい」
カシアンが止まる。
「……命令か」
「命令。あなたが勝手に動くと、交渉の主導権が崩れる」
彼は唇を結び、ゆっくりと椅子に戻った。目は扉を睨んだまま。獣が檻の外の匂いを嗅いでいる。
老使用人が続ける。
「……名乗りは“帝国大使補佐官”。皇子殿下の身柄について、正式な話し合いを、と」
「正式ね。やっとまともな市場が開いた」
乳母が震える声で言う。
「お嬢様……カシアン様が……連れて行かれてしまうのでは……」
「連れて行かせるかどうかは、私が決める」
「……そんなこと、できるんですか」
「できるわ。だって私は、彼を買ったもの」
その言葉に、空気が一瞬だけ凍った。
カシアンの瞳が、こちらへ向く。鋭い。怒りが薄く混じった目だ。
私はあえて目を逸らさない。
「通して」
応接室に入ってきた男は、帝国の香りがした。香水ではなく、金属と革と血の匂い。装束は端正で、口元には外交官の笑み。けれど目は笑っていない。笑う必要がない立場の目だ。
「モンテスキュー伯爵家の令嬢、イザベラ様でいらっしゃいますか?」
「ええ。あなたは」
「帝国大使館補佐官、ギルバート・ラザールと申します」
彼は軽く礼をし、視線を横に滑らせた。カシアンへ。目の色が変わる。確認。確信。所有欲。
「……皇子殿下。ご無事で何よりでございます」
カシアンは言葉を返さない。沈黙が、剣より重い。
ギルバートは私に向き直り、にこやかに言った。
「単刀直入に申し上げます。皇子殿下を帝国へお連れしたい」
「単刀直入で助かるわ。でも、雑すぎる」
私は扇を閉じ、机の上に置いた。
「あなた、買い取り交渉に来たのよね?」
「……買い取り?」
「ええ。皇子殿下は今、私の保護下。学園の書面も、王国役所の記録もある。つまり現状、彼の管理責任は私にある。あなたが連れていくなら、対価が必要」
帝国の補佐官の眉が僅かに動いた。想定外だろう。貴族の令嬢が、人質皇子を“取引物”として扱うなんて。
だが私にとっては当然だ。価値があるなら値札が付く。
「対価、とは……」
「金」
「……金、ですか」
「それ以外がある?」
私は微笑んだ。
「あなたは皇子殿下の身柄を回収し、帝国の政治的利益を得る。私は彼に食事と教育と安全を与え、価値を上げた。投資家として、回収する権利がある」
ギルバートの笑みが少し硬くなる。
「帝国は……恩には報います」
「恩はいらない。利息が欲しい」
私は机の引き出しから書類を取り出した。数字が並ぶ羊皮紙。ここ数ヶ月の支出と、鉱山の利益、警備費、教育費。そして――カシアンの“市場価値”を評価するための指標。
「私の要求は三つ」
指を一本立てる。
「第一。モンテスキュー家の鉱山権益と貿易路に対し、帝国が十年分の保護条約を結ぶ。王国が干渉しても、帝国の後ろ盾で守られる形に」
ギルバートの目が細くなる。これは金より重い要求だ。
二本目。
「第二。帝国の大使館から、私に直接“外交取引の窓口”を与える。つまり私は、王国を通さず帝国と商取引できる権利を得る」
ギルバートが沈黙する。貴族令嬢が外交の窓口を要求するなど、常識外れだ。
三本目。
「第三。皇子殿下が帝国へ戻った後――私は、何があっても保護されること。皇子殿下の恩人としてではなく、契約相手として」
私は指を下ろし、結論を言った。
「これが値札。安いでしょう?」
ギルバートは数秒、私を見つめた。次にカシアンを見る。カシアンは無言だ。だが目が熱い。怒りの熱だ。自分が値札で語られることへの怒り。あるいは、別の怒り。
ギルバートが息を吐き、外交官の声で言った。
「……貴国の令嬢は、随分と大胆だ。ですが、皇子殿下の価値を理解しているとも言える」
「当然よ。私は推しに投資してきたの」
「推し……?」
ギルバートは理解できない顔をしたが、すぐに流した。
「条件は帝国へ持ち帰り、検討いたします。ですが……皇子殿下の意思も確認すべきでしょう」
ギルバートがカシアンへ向き直る。
「皇子殿下。帝国へお戻りください。帝国にはあなたの席がある。あなたを裏切った者たちは、既に……」
カシアンの目が、微かに揺れた。
席。裏切り。血縁。玉座。彼の中の何かが、呼び起こされる。
そしてカシアンは、初めて口を開いた。
「俺は……戻る」
乳母が小さく息を呑む。老使用人が顔を伏せる。
ギルバートが満足げに微笑む。
「賢明なご判断――」
「だが」
カシアンが言葉を切り、私を見た。
「条件がある」
ギルバートの笑みが固まる。
「条件、とは?」
カシアンの声が低くなる。闘技場で見せた、あの冷たい声。
「イザベラを連れていく」
「……は?」
乳母が「え」と声を漏らす。老使用人が咳き込む。
ギルバートが困惑しながら言う。
「皇子殿下。彼女は王国の貴族であり――」
「だから必要だ。俺が帝国で王座を取るなら、金がいる。商がいる。交渉がいる。……イザベラはそれを持っている」
私は微笑んだ。理屈としては正しい。彼はもう“王になるための計算”を始めている。
だが、彼の目は理屈だけではない。
熱い。執着の熱。
ギルバートが私を見る。
「……イザベラ様。皇子殿下の言葉、どうお考えですか」
「どうって……」
私は答える前に、カシアンの方へ視線を向けた。
彼は真っ直ぐに私を見ている。逃がさない目だ。私が値札を付けて彼を買ったように、今度は彼が私に値札を付けようとしている。
私は立ち上がり、歩いて彼の前に立った。
「カシアン。あなた、勘違いしているわ」
「何を」
「私を連れていくって、簡単に言うけど――私は荷物じゃない」
「荷物じゃない」
「じゃあ何?」
「……俺の」
言葉が途切れる。カシアンが唇を噛む。まるで、口にしたら取り返しがつかないと分かっているみたいに。
私はその沈黙を破らず、あえて追い詰めた。
「私の何?」
「……資産だろ」
その答えに、胸の奥がひりついた。
私は笑った。いつもの悪女の笑みで、ひりつきを塗り潰す。
「そうね。資産。なら質問。あなたは資産を買えるだけの金を持ってる?」
「……持ってない」
「じゃあ買えない」
「……買う」
カシアンの声が低くなる。鋼みたいに。
「俺は帝国で王座を奪う。奪ったら金が手に入る。金が手に入ったら、お前を買う」
「ずいぶん乱暴な計画ね」
「乱暴なのはお前だ。俺を買った」
その言葉に、室内の空気が張り詰めた。
乳母が震え、ギルバートが息を止める。老使用人が視線を泳がせる。
私は一歩近づき、カシアンの胸元の布を指で掴んだ。距離が縮まる。彼の呼吸が乱れるのが分かる。
「あなた、私を救ったのは金か、愛かって――いずれ言うと思ってた」
カシアンの目が見開かれる。
「……知っていたのか」
「あなたの顔に書いてある」
私は囁くように言う。
「答えは簡単。金よ」
カシアンの目が暗くなる。怒りが走る。傷つく表情。
私は続けた。
「でも、それだけじゃない。私はあなたを見て楽しかった。面白かった。欲しかった。……だから買った」
「……それは」
「愛って言葉を使いたいなら、使ってもいいわ。私は嫌いじゃない」
言い切った瞬間、自分の胸が少しだけ軽くなるのを感じた。認めたくなかった混ざり物を、口に出したせいだろう。
でも、弱みにはしない。
私はすぐに、悪女の顔に戻る。
「ただし勘違いしないで。愛があっても、私はあなたの奴隷じゃない」
「奴隷にする気はない」
「じゃあ何にするの?」
「……俺の隣に立て」
カシアンの声が震えていた。怒りではない。必死さだ。
その瞬間――彼が動いた。
壁ドン。
背中が壁に当たり、軽く痛む。カシアンの腕が私の横に突き立てられ、私の逃げ道が塞がれる。距離が近い。息が触れる。目が熱い。獣が檻から出た目だ。
「俺を救ったのは金か、愛か」
低い声が、胸に落ちる。
「どっちだ」
「どっちもよ」
「……証明しろ」
「何を」
「俺を捨てないと。帝国に戻っても。王になっても。……お前が俺の隣にいると」
私は笑った。悪女の笑み。だけど、そこに少しだけ本音が混ざる。
「いいわ。契約を結びましょう」
「契約?」
「ええ。あなたが王座を取ったら、私の条件を呑む。私の財と自由を守る。私を好きに扱わない。……そして私が欲しい時に、私を抱く」
乳母が「お嬢様!」と叫びそうになって口を押さえた。ギルバートが咳払いで誤魔化す。老使用人が天井を仰ぐ。
カシアンの耳が僅かに赤くなる。だが目は逸らさない。
「……条件は、呑む」
「即答しないの。交渉は――」
「俺は交渉が下手だ。だからお前が教えろ」
その言葉は、敗北宣言みたいで、同時に独占宣言だった。
私は彼の胸を指で押し返し、壁から少しだけ距離を作った。逃げ道を作るのは、主導権を取り返すためだ。
「いい子。じゃあまず教える。愛の重さは金では測れない」
カシアンが眉をひそめる。
「……さっき金だと言った」
「金“も”よ。愛は測れない。でも――」
私は彼の胸元の契約書の位置を指先で叩いた。
「契約なら測れる。約束なら数えられる。私は曖昧な言葉が嫌いなの」
「……俺もだ」
私は一歩引き、ギルバートへ向き直った。
「聞いた通りよ。皇子殿下は帝国へ戻る。条件は、私も連れていくこと」
ギルバートはまだ戸惑っていたが、外交官の仮面を戻す。
「……承知しました。帝国へ報告いたします」
「それと私の条件もね。三つ、忘れないで」
「……はい」
ギルバートが退出すると、応接室には私たちと使用人だけが残った。
乳母が震える声で言った。
「お嬢様……帝国へ……行くんですか……」
「行くかどうかは、契約次第」
「危険ですよ……」
「危険はいつだって利息が高い」
私はそう言ってから、カシアンを見る。
彼はまだ、私を見下ろしていた。壁ドンの姿勢の名残みたいに。目が熱い。飢えた目だ。
「満足?」
「……まだ」
「欲張りね」
「教えたのはお前だ」
私は笑った。悔しいほどに、同じ言葉が返ってくる。
「じゃあ忠告。あなたが帝国で王座を取るまで、私に触れるのは禁止」
カシアンの眉が跳ねる。
「……禁止?」
「ええ。欲しがって、焦がれて、勝ってから手に入れなさい。その方が価値が上がる」
「価値……」
「そう。あなたが勝てば、私の値札も上がる。私を買うなら、最高値で買いなさい」
カシアンの喉が鳴る。怒りと欲望が混ざった音。
「……分かった」
「いい子」
私は扇を開き、口元を隠す。笑みが漏れそうだった。
(とうとう来た)
前世では、私は彼に滅ぼされた。今世では、彼は私を“買う”と言った。
危険で、甘くて、どうしようもなく面白い。
窓の外では、帝国の馬車がまだ門前に並んでいる。風が旗を揺らし、遠い土地の匂いを運んでくる。
私は心の中で、次の市場を思い描いた。
王国ではない。
帝国だ。
そしてその市場の頂点には――玉座がある。
「カシアン」
「……何だ」
「王になりなさい」
「命令か」
「命令。私を買うために」
カシアンの目が、鋼の色に変わった。
「……必ず」
その返事が、契約書より確かに聞こえた。




