第6話「カシアンの覚醒」
剣術大会の日、学園の空気はいつもより甘ったるかった。
花を飾り、旗を掲げ、貴族の子女たちは席順にうるさく、教師たちは格式を連呼する。勝者が“未来の騎士”として讃えられ、敗者は笑われる。戦いの場の皮を被った社交の舞台。血の出ない闘技は、貴族の嗜みとしてはちょうどいい。
私は観客席の端に座り、指先で扇を弄んでいた。隣には、誰も座らない。私が今、噂の中心だからだ。呪われた鉱山を買った愚か者。そして、なぜか一夜で金回りが良くなった女。人は理解できないものには距離を取る。
それでいい。視線は武器になる。勝手に広がる噂は、勝手に相場を動かす。
背後には、影が立っていた。
カシアン。外套の下に薄い剣帯を隠し、顔は無表情。だが目は、闘技場の中央を捉えて離さない。
「出るの?」
私は小声で聞いた。
「出ろと言ったのはお前だ」
「命令だった?」
「命令だと言っただろ」
「そうね。じゃあ勝ちなさい」
私の言葉に、カシアンは微かに眉を動かした。
「勝てば、何がある」
「褒美」
「……褒美?」
「甘いものでも、剣でも、部屋でも。欲しいものを言いなさい」
「欲しいものはない」
「あるでしょう。人は必ず何か欲しい」
「……今は、分からない」
分からない。そう言う声が、妙に真面目だった。彼は欲望を持つことを禁じられて育ったのだ。欲しいと口にした瞬間に奪われる世界。だから欲しがらないようにした。
なら私は、それを教える。欲しがることは、生きることだと。
「じゃあ勝ってから考えなさい」
「分かった」
闘技場の中央、参加者が列を作り始めた。貴族の家の息子たちが多い。鎧は飾りで、剣は手入れが行き届き、勝つための技術より“見せ方”を練っている。
そこへ、カシアンが歩いていく。
観客席がざわついた。
「え……あの人質?」
「出るの? 呪われた犬が?」
「汚い……近づかないで」
笑い声が混じる。侮蔑が飛ぶ。十年前の私なら、腹を立てたかもしれない。今の私は、ただ計算する。
(この侮蔑は、配当になる)
司会役の教師が戸惑った顔で名簿を確認した。
「カ、カシアン……参加を許可した覚えは……」
「許可したのは私よ」
私は席から立ち上がり、教師に向けて微笑んだ。
「彼は私の護衛。護衛が弱いと困るの。学園の行事を利用して鍛えるのは、教育の一環でしょう?」
「……し、しかし」
「学園の名誉になるわ。人質が勝てば、“公正な学園”として称賛されるもの」
教師は反論できず、咳払いをして合図を出した。
試合開始。
最初の対戦相手は、地方伯爵家の次男。体格は良く、剣も太い。勝てると思っている顔だ。カシアンを見て鼻で笑った。
「犬は犬小屋で吠えてろ」
カシアンは返事をしない。剣を抜く音だけが、乾いて響いた。
合図と同時に相手が突進する。剣を振り下ろす。重量と勢いで押し切るつもりだ。
カシアンは、半歩だけずれた。
たった半歩。なのに相手の剣は空を切り、重心が崩れる。
その瞬間、カシアンの木剣――いや、今は金属剣が、相手の喉元で止まった。
音が消えた。
闘技場の中心で、時間が止まったみたいに静かになる。
「……え」
相手が息を漏らす。自分が負けたことに気づいていない顔。
教師が慌てて旗を振った。
「勝者、カシアン!」
ざわめきが遅れて押し寄せる。
「今の……見た?」
「偶然よ。相手が転んだだけ」
「でも……速かった」
二戦目、三戦目も同じだった。
相手が動く。カシアンが半歩ずれる。刃が止まる。終わる。
無駄がない。感情がない。殺すための合理性だけがある。
私は扇の影で口角を上げた。
(覚醒の始まり)
カシアンは、力を隠すことに慣れている。見せすぎれば奪われるからだ。だが今、彼は見せている。私が守ると命令したから。見せることが利益になると教えたから。
準決勝、相手は侯爵家の長男だった。学園でも人気者で、王子派の中心。観客席の歓声が大きくなる。
「勝つのはルシアン様よ!」
「人質なんかに負けるわけない!」
フローレンスが、私の方を見て笑った。前話で鉱山の件を嘲った顔と同じだ。
私は微笑み返した。笑っていればいい。勝負は盤上で決まっている。
ルシアンが剣を構え、声を張り上げた。
「人質ごときが、この場に立つのは侮辱だ。降りろ」
カシアンは目を細めた。
「……降りるのは、お前だ」
初めて、彼が相手を言葉で切った。観客席がどよめく。
試合開始。
ルシアンは技巧派だった。剣を回し、足を運び、観客に見せる角度で斬り込む。美しい剣。貴族の剣。
カシアンは、美しさを捨てた。
一歩。二歩。詰める。刃を絡める。相手の剣を押さえ、体重を乗せる。
ルシアンが焦る。美しい剣は、焦りに弱い。
次の瞬間、カシアンの拳がルシアンの鳩尾に入った。
「っ……!」
ルシアンが膝を折る。剣が落ちる。会場が凍る。
拳。反則だと叫ぶ声が上がりかけた。
だが教師は言えなかった。規則には“拳を禁ず”と明記されていない。貴族の暗黙のルールを、カシアンは知らない。いや、知っていて無視した。
勝つための合理性だけがある。
「勝者、カシアン!」
歓声は割れた。怒号と驚愕が混ざる。フローレンスの顔が白くなり、王子派の席がざわめく。
私は立ち上がり、拍手した。
(いいわ。最高)
決勝前の休憩。カシアンは闘技場の端で、黙って水を飲んでいた。汗は少ない。呼吸も乱れていない。まだ余裕がある。
私は近づき、彼の耳元で囁いた。
「上出来」
「……褒美は」
「欲しいものがないんでしょう?」
「……今、分かった」
「言って」
カシアンが私を見る。目が熱い。いつもよりずっと。
「……お前の隣に立つ権利が欲しい」
一瞬、胸が跳ねた。
私は笑って誤魔化す。
「それ、もう与えてる」
「足りない」
「欲張りね」
「教えたのはお前だ」
私は扇を閉じた。
「じゃあ勝ちなさい。勝ったら“正式な護衛”として契約してあげる」
「契約」
「そう。紙に書いて縛る。あなたが逃げられないように」
「逃げない」
「言葉じゃ足りない。契約が必要なの」
彼の目が少しだけ和らぐ。紙で縛る。それは鎖でもあるが、守りでもある。カシアンは鎖を憎む。けれど、私が差し出す鎖は、彼の首を絞めるためではない。私に繋ぐための鎖だ。危険で甘い。
決勝。相手は騎士団長の息子だった。実戦経験もある。剣も重い。観客は盛り上がり、王子派も中立派も皆、息を呑む。
試合開始。
相手は最初から本気だった。斬り込みが鋭い。カシアンの肩が掠り、制服の布が裂ける。赤い筋が見えた。
私の視界が一瞬、暗くなる。
(傷つくなって命令したのに)
私は立ち上がりかけた。止めようとした。その時――カシアンが、笑った。
笑うというより、牙を見せた。
次の瞬間、動きが変わる。
今までの合理性だけの剣ではない。そこに“怒り”が乗った。自分が傷ついた怒りではない。私の命令を破ったことへの怒り。私を不快にさせたことへの怒り。
彼は踏み込み、相手の剣を弾き、肩をぶつけ、体重ごと押し倒した。
剣先が、相手の喉元で止まる。血が一滴、落ちる。
沈黙。
教師の旗が揺れた。
「勝者……カシアン!」
歓声が爆発する。しかしそれは賞賛だけではない。恐怖の混じった歓声だ。化け物を見た時の。
カシアンは立ち上がり、剣を収め、私の方を見た。まっすぐに。迷いなく。まるで、勝利を私に捧げるみたいに。
私はゆっくり拍手し、笑った。
「よくやった。資産価値、急騰ね」
試合が終わると、学園の空気は一変した。今までカシアンを犬と呼んでいた者が、距離を測り始める。近づけば噛まれる。だが、噛まれたくない。でも欲しい。欲望が群れる。
だから私は、先に潰す。
その夜、屋敷に戻る途中で、私は馬車を止めさせた。暗い路地。人通りが少ない。狙われる場所。
案の定、影が現れた。三人。黒い布で顔を隠し、刃を持っている。学園の生徒ではない。動きが雑ではない。
「モンテスキュー嬢。人質を渡せ」
低い声。訛りがある。帝国側だ。
カシアンが私の前に出た。剣帯に手がかかる。
私は彼の腕を軽く押さえた。
「殺さないで」
「……なぜ」
「殺すと高くつく。生かしたまま潰す」
私は外套の内側から、小さな紙束を取り出した。封筒。印章付き。
「あなたたち、仕事が雑よ。帝国の密偵なら、もう少し契約に強いと思ってた」
男たちが一瞬動きを止める。
「何だ、それ」
「告発状。今日、学園であなたたちを見たという証言が三つ。武器の形状も書いてある。これが役所に届けば、王都の門は閉まる。逃げ道はなくなる」
「脅しか」
「取引よ」
私は笑った。
「帰りなさい。今日のところは見逃してあげる。その代わり――次に手を出したら、帝国の使者が“拉致を企てた”として公表する」
男たちの目が揺れた。帝国は体面を重んじる。皇子奪還が正義であっても、手段が汚れれば正義は汚れる。彼らはそれを恐れる。
私は追い打ちをかけた。
「それに、あなたたちは勘違いしている。カシアンは“売り物”じゃない。今は私の資産。帝国が欲しいなら、正式な交渉で買い取りなさい。……値札は高いわよ」
沈黙。
男たちは舌打ちし、闇に消えた。
馬車が再び動き出す。私は座席に戻り、ため息を吐いた。
カシアンが、低い声で言った。
「……なぜ、止めた」
「殺すなと言ったこと?」
「あいつらは敵だ」
「敵にも値札がある。今はまだ“生かして使える敵”よ」
「……使う?」
「ええ。帝国があなたを欲しがるほど、あなたの価値は上がる。価値が上がれば、交渉材料になる」
カシアンが黙る。理解している。でも不満もある。自分がまた“取引”の対象になることへの嫌悪。
私は指先で彼の裂けた袖をつまんだ。
「傷、見せなさい」
「浅い」
「浅くても傷は傷。許可してない」
「……すまない」
その一言が、妙に胸に刺さった。謝罪をする人質。謝罪をする未来の王。私の“飼育”が、確実に効いている。
私は微笑み、わざと冷たく言った。
「次は許さない。資産に傷を付けたら、罰よ」
「罰?」
「甘い罰。今日の褒美は取り消し」
カシアンの目が揺れる。悔しそうな顔。
「……隣に立つ権利は」
「契約するわよ。勝ったもの」
私は鞄から羊皮紙を取り出した。準備していた。署名欄付き。護衛契約。給金は形だけ。内容は支配の鎖。
私はペンを渡す。
「署名しなさい。今日からあなたは、正式に私の護衛」
「……俺は人質だ」
「今は私の資産。肩書きは私が決める」
カシアンは迷い、そして署名した。文字はまだ硬い。だが、確かに自分の名を書いた。
私は自分の署名も入れ、印章を押した。
「これで逃げられないわね」
「逃げないと言った」
「契約は、言葉より確実なの」
私は紙を折り、彼の胸元に押し込んだ。
「持っていなさい。あなたの価値証明」
「……価値証明」
「そう。明日から、あなたを狙う者は増える。学園も、王子も、帝国も。だから――」
私は彼を見上げ、囁いた。
「覚醒したあなたは、もう隠せない。隠す気もない。噛みつきなさい。私の指示で」
カシアンの目が細くなる。従う獣の目。王の目。
「……分かった」
「いい子」
その言葉に、彼の呼吸が少しだけ乱れた。
馬車の窓の外、王都の灯りが流れる。人々はまだ知らない。今日、闘技場で何が生まれたかを。
私は扇を閉じ、心の中で静かに笑った。
(国難が近い)
前世、カシアンはこの国を滅ぼした。今世、私は彼を育てている。滅びの王を、私の手で最短ルートで王へ押し上げる。
そしてその王を、私の隣に繋ぐ。
危険で、甘くて、最高の投資だ。
背後で、カシアンが低く言った。
「……イザベラ」
「なに?」
「今日……俺は勝った」
「ええ」
「だから……褒美は」
「もう決めたでしょう?」
「違う。……もう一つ」
私は首を傾げる。
カシアンが、少しだけ躊躇ってから言った。
「……笑え」
「は?」
「俺が勝ったら、お前が笑う。それが……欲しい」
一瞬、息が止まった。
私はすぐに笑った。いつもの、上品で無害な笑みではない。もっと、素直な笑い。
「欲張りね」
「教えたのはお前だ」
「そうね」
私は窓の外の灯りを見ながら、口角を上げた。
「じゃあ約束する。あなたが王になったら――私は世界で一番、いい顔で笑ってあげる」
カシアンの気配が、少しだけ熱くなった気がした。




