第5話「大逆転の配当金」
グラナート鉱山の話を最初に持ってきたのは、屋敷の門番代わりをしている老使用人だった。
朝、まだ乳母が鍋を火にかける前。玄関の戸が乱暴に叩かれ、老使用人が青い顔で駆け込んできた。
「お嬢様! 鉱山から……鉱山から使いが!」
「使い? 事故の報告?」
「い、いえ……その、どう言えば……」
言葉がうまく出てこない時、人は大抵、人生がひっくり返る瞬間に立ち会っている。
私は紅茶のカップを置いた。
「通して」
玄関に現れたのは、煤と土で汚れた男だった。鉱山の監督役――私が昨日雇ったばかりの、腕の良い現場叩き上げ。顔中に泥を付けたまま、膝をついて頭を下げた。
「モンテスキュー様! ご報告が……!」
「簡潔に。死者が出た?」
「いえ! 出ておりません! むしろ……」
男は一瞬、息を吸ってから言った。
「……出ました。魔石です。希少魔石が、層ごと……!」
乳母が「え」と声を漏らした。老使用人は口を開けたまま固まる。カシアンは廊下の影に立っていて、目だけが動いた。
私は、胸の奥で笑った。
(来た)
予定より少し早い。けれど誤差の範囲。むしろ、早い方がいい。早い配当金は、雪だるま式に増やせるから。
「どの程度?」
「拳大のものが二つ。小指の先ほどの粒が十数。……いずれも、鑑定師が見れば“本物”と断言できる色です」
「採掘は止めた?」
「はい! 命令通り、掘り当てた地点は封鎖し、作業員の口も塞いであります! ただ……」
男は言い淀み、私の顔色をうかがった。
「ただ、何?」
「昨夜から、鉱山の周囲に見慣れない者が……。監視のような、偵察のような……」
私は指先で机を軽く叩いた。
(敵も早い)
価値が確定すれば、世界は動く。盗みに来る。奪いに来る。権力は金を嗅ぎつけ、金は権力を買おうとする。
だから私は、最初の一手を決めていた。
「よくやったわ。次の命令よ」
私は立ち上がり、男の前にしゃがみ込む。
「鉱山を“事故現場”として封鎖し続けなさい。役所には、崩落の危険が残っていると報告。作業員には臨時休暇を出す。その間に――」
「その間に?」
「鑑定師を買う。輸送路を押さえる。警備を雇う。……口の軽い者は、解雇」
男が唾を飲み込む。
「解雇、だけで済みますか」
「済ませる。死体は高くつくもの。私は今、急いで増やしたいの」
私は銀貨を数枚、男の掌に落とした。
「これで動きなさい。追加は後で渡す」
「……承知しました!」
男が去ると、玄関は一気に静かになった。静かすぎて、乳母の呼吸音まで聞こえる。
乳母がふらふらと椅子に座り、震える声で言った。
「お嬢様……魔石って……あの、王家が欲しがる……」
「そう。王家が喉から手が出るほど欲しがる石」
「じゃ、じゃあ……うちは……」
「大富豪になるわ。今日からね」
乳母が目を閉じた。祈るように天井を仰いでいる。喜びではない。恐怖だ。貧乏が突然終わる時、人は次に何が始まるのか分からず怯える。
私は恐れない。分かっているから。
カシアンが一歩、近づいてきた。
「……希少魔石」
「知ってる?」
「帝国でも、戦の燃料になる」
「そう。金より血より価値がある」
「……それを、お前が持った」
「ええ。だから、次は守る」
私はわざと微笑んだ。
「あなたもよ。資産が増えたら、狙われるのは当然でしょう?」
「狙われるのは鉱山だ」
「鉱山を動かす私が狙われる。私が倒れれば、鉱山はタダ同然になる」
「……なら俺が守る」
「命令する前に言うなんて、成長ね」
カシアンは少しだけ眉をひそめた。褒められることに慣れていない顔。私はその不器用さが気に入っている。
「じゃあ命令。今日から私の影になりなさい」
「影?」
「ええ。私が笑うとき、あなたは背後に立つ。私が交渉するとき、あなたは黙って相手を見つめる。……それだけで、人は勝手に値札を上げる」
カシアンが頷く。理解が早い。教育の成果だ。
その日の午後、屋敷の門前に馬車が止まった。
王家の紋章。金糸の房飾り。やけに丁寧に磨かれた車輪。私の嫌いな種類の気品。
「……来たわね」
乳母が顔色を変えた。
「お嬢様、まさか……王宮から?」
「王宮じゃない。王子よ。嗅ぎつけたのね」
鉱山の情報は封じたはずだ。けれど、ゼロにはならない。監視がいたと言っていた。どこかの耳に届いたのだろう。王子の犬か、聖女(笑)の手か、あるいは役所の誰か。
いずれにせよ――早い接触は、私にとって好都合だ。
玄関ホールに通すと、エリック王子は外套の裾を払うようにして入ってきた。十年前の顔だ。まだ若く、まだ自信に満ちている。だが、目の奥には既に“自分の王国”しか映っていない。
「イザベラ」
名前を呼ぶ声が、甘い。甘くて薄い。蜂蜜水のような甘さ。栄養がない。
「ご機嫌よう、殿下。今日はお早いのね」
「君が学園を休んでいると聞いた。体調でも?」
「体調は最高よ。世界が素敵に見える」
王子が微笑みかけ、すぐに眉をひそめた。
「……そちらは?」
視線が、私の背後に立つカシアンへ向く。カシアンは無言で、王子を見下ろしていた。まだ背丈は王子より少し低いのに、なぜか“見下ろしている”ように見えるのは、目の冷たさのせいだ。
私はさらりと言う。
「私の護衛よ」
「護衛? 君が?」
「ええ。最近物騒でしょう」
「その少年は人質だ。危険ではないのか」
「危険なのは、人質じゃなくて扱う側の頭よ」
王子の口元が引きつった。
「……口が相変わらずだな、イザベラ」
私はソファに座り、紅茶を勧めるふりをして自分だけ飲んだ。王子には出さない。相手に与えるものは、交渉の最後に決める。
「それで? 雑談ならお帰りになって」
「雑談ではない」
王子は姿勢を正した。王子の顔になる。これが彼の得意な仮面だ。正義。誠実。責任。
「君との婚約について、話がある」
乳母が息を止めた。私は笑いそうになるのを堪えた。
(来た。婚約の話)
前世では、この言葉に私の心臓は跳ねた。婚約を繋ぎ止めるために、私は金を使い、噂を買い、敵を潰し、そして……破滅した。
今世の私は、違う。
「婚約ね。まだ続いていたの?」
「当然だ。君は私の婚約者だ」
「“だった”の間違いじゃなくて?」
「違う。君の家は苦しいと聞いている。支えるのは私の役目だ」
王子は優しいふりをする。王子の“支える”は、“支配する”と同義だ。
私は首を傾げた。
「支えるって、具体的に?」
「……資金援助をする。君の家の借金の一部を肩代わりしてもいい。だから――」
王子は言葉を切り、私の顔を覗き込む。
「無茶な真似はやめろ。鉱山など買ってどうする。あれは呪われている。君の財産を溶かすだけだ」
(情報を掴んでいる)
希少魔石までは知らない。だが“私が鉱山を買った”ことは知っている。嘲笑と同じ入口から入ってきた情報だ。王子は、それを利用して“私を諭す”形で首輪をかけ直そうとしている。
私はゆっくりと微笑んだ。
「殿下。あなた、優しいのね」
「当然だ。君を守るためだ」
「じゃあ、私も優しくしてあげる」
私は机の引き出しから封筒を一つ取り出した。そこには、今日の朝から用意させていた書類が入っている。
私は封筒を、王子の前に滑らせた。
「何だ?」
「見て」
王子が封筒を開ける。書類に目を通し、顔色が変わる。
「……これは……」
「借金の返済計画書。うちの債権者一覧。返済額。利息。期日。……全部」
乳母が青ざめている。屋敷の借金の全体像を、私は今日ここで初めて“形”にしたのだ。前世の私は、見ようとしなかった。見たら絶望するから。でも今世は違う。絶望は数値化すれば、ただの障害だ。
王子が書類を睨みつける。
「こんなものを見せてどうする」
「支えるって言ったでしょう? だから、あなたに買ってもらうの」
王子の目が大きくなる。
「買う……?」
「ええ。あなたが“王子として”支えるなら、条件があるの。借金の肩代わりではなく、買い取りよ」
私は指を一本立てた。
「第一条件。モンテスキュー家の借金を、あなたが全額買い取る」
「買い取る……?」
「そう。債権を全部、あなた名義にする。つまり、あなたは私の家の債権者になる」
王子の顔が喜びかけた。支配できると勘違いした顔。
私はすぐに、二本目の指を立てる。
「第二条件。その債権を、今この場で“無償譲渡”する。私にね」
「……は?」
「つまり、あなたが買った瞬間に、私が債権者になる。借金は帳簿上存在しても、返す相手は私自身。返さなくていい」
「そんな馬鹿な話があるか!」
王子が声を荒げた。仮面が剥がれるのが早い。私は愉快だった。
「あるわよ。だって婚約者でしょう? 支えるんでしょう?」
「……イザベラ、君は……」
「第三条件もあるわ」
私は三本目の指を立てる。
「この交渉は秘密。聖女(笑)にも、あなたの取り巻きにも、誰にも言わない。もし漏れたら――」
「漏れたら?」
「私はあなたの“善意の申し出”を、社交界で金額付きで朗読する」
王子の喉が鳴った。想像したのだろう。王子が金で婚約者を買おうとしたという噂。王子の体面が崩れる未来。
私はにっこり笑った。
「どう? 支えるって、こういうことよ」
王子は書類を握り潰しそうになりながら、私を睨んだ。
「……君は、私を侮辱しているのか」
「侮辱? 違うわ。値踏みしてるの」
「値踏み……」
「あなたの“婚約者を維持したい気持ち”はいくらかって」
王子の顔が真っ赤になる。怒り。屈辱。恐れ。前世で私が見落としていた感情が、今ははっきり見える。
そして私は、最後の一手を差し出した。
「ちなみに、殿下。今の条件は“あなたが得をする”ようにしてあるのよ」
「何……?」
「あなたが払うのは“金”だけ。でも私が欲しいのは“自由”」
私は書類の最後のページを指で叩いた。
「第四条件。婚約の維持はしない。あなたが金を払ったとしても、私の意思でいつでも婚約破棄できる。……つまり、あなたが買えるのは私ではなく、私の“借金の整理”だけ」
王子の目が泳いだ。理解が追いつかない顔。貴族の婚約は、所有権だと思っている男には、取引の本質が分からない。
私は息を吐く。
「殿下。あなたは私を支配したい。私はあなたを利用したい。だったら対等な取引にしましょう」
「……取引など、婚約者に向ける言葉ではない」
「婚約者に向けた言葉で私を縛って、捨てる時だけ“正義”を振りかざすより、ずっと誠実よ」
王子の手が震えた。怒鳴りつけることもできない。ここで怒れば、私がすぐに社交界へ流す。黙れば、私が主導権を握る。
詰み。
王子は硬い声で言った。
「……君は、変わったな」
「ええ。死んだ女は変わるのよ」
私は紅茶のカップを持ち上げ、口をつけるふりをした。
「で、どうする? 支える? 支えない?」
「……検討する」
「検討? 時間は金よ、殿下。私にはもっと儲かる予定があるの」
私はカップを置き、きっぱり言った。
「婚約を維持したいなら、あなたは“私に金を払う側”。私を捨てたいなら、“私に慰謝料を払う側”。どっちにしても、あなたは払うの。払えないなら――」
「払えないなら?」
「私があなたを叩き売る」
王子が立ち上がった。椅子が軋む。
「……イザベラ。君は、いつからそんな下品な商人になった」
「下品? 違うわ。上品な貴族のままじゃ、生き残れないだけ」
王子は言い返せず、踵を返した。玄関へ向かう背中は、雨に濡れた犬みたいに惨めだった。
扉が閉まる音がして、ようやく乳母が息を吐いた。
「お嬢様……あ、あんな言い方をして……!」
「言い方じゃない。値札よ」
「値札……」
「王子にも値札を付けられるって、教えてあげただけ」
私は振り返り、カシアンを見る。
彼はまだ、玄関の方を見ていた。目が冷えている。いつもより少しだけ、暗い。
「どうしたの?」
「……あいつが、お前を欲しがるのが気に入らない」
「欲しがる? あれは支配よ」
「同じだ」
カシアンの声が低い。感情の底に刃がある。嫉妬。独占欲。所有されてきた者が、初めて“所有する側”の感情を持ち始めた時の危うさ。
私は胸の奥が、少しだけ熱くなるのを感じた。厄介だ。嬉しい。危険だ。
だから私は、悪女らしく処理する。
「じゃあ、あなたも私を欲しがりなさい」
「……は?」
「欲しがるだけじゃだめ。買うのよ」
カシアンの目が見開かれた。
私は笑った。
「冗談じゃないわ。あなたが王になったら、あなたは私を買える。そうしたら、王子なんて端金よ」
「……俺が、王に」
「なるの。私がそう決めた」
「……命令か」
「ええ。命令」
私はカシアンの胸元の布を指先でつまみ、軽く引き寄せた。距離が縮まる。彼の呼吸が一瞬止まる。
「いい? 今日の配当金で、私は自由を買い始める。借金も、婚約も、国の事情も。全部、値札を付けて買い叩く」
「……国も?」
「国なんて一番安いわ。だって、人は皆“正義”で動くふりをして、結局金で転ぶ」
カシアンの目が細くなる。その目は、未来の王のそれに近い。理解した者の目。欲が芽生えた目。
私は手を離し、言った。
「さあ。鉱山へ行く準備をする。今日から、私たちは“狙われる側”じゃない」
「……じゃあ、何だ」
「奪う側よ」
その夜、鉱山から追加の報告が届いた。
希少魔石、さらに三つ。
封鎖は維持。
監視の影は増えた。
だが、作業員の口は締まっている。
私は帳簿に数字を書き込みながら、笑った。
嘲笑していた者たちの顔が浮かぶ。フローレンスの声が耳に残る。王子の怒りが思い出される。
(配当金はもう出た)
ここから先は、もっと甘い。
窓の外、遠くで鐘が鳴る。王都はまだ何も知らない。知らないまま、私の値札に並び始める。
そして廊下の影では、カシアンが静かに立っていた。
私の影。
私の資産。
私の推し。
……そしていつか、私を買い取る男。
私はペンを置き、扉の方を見て言った。
「カシアン」
「……何だ」
「明日から忙しくなるわよ。あなたの仕事も増える」
「命令なら従う」
「命令じゃない」
私は微笑んだ。
「投資家としての忠告。……私の隣に立ちなさい。あなたの価値も、今から上がる」
廊下の空気が、少しだけ熱を帯びた気がした。




