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処刑台で笑った悪女は、10年前に戻って「推し」に全財産を賭けることにした ~没落予定の貧乏貴族ですが、未来知識で婚約破棄も国難も買い叩きます~  作者: 綾瀬蒼
第1章「捨てられた王子」

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第4話「狂犬公爵の飼育方法」

翌朝、私は台所で鍋を覗き込んでいた。


うちの屋敷の台所は、昔なら使用人が忙しなく走り回り、香草と肉の匂いで満ちていたはずだ。今は火口も減り、棚は空っぽで、鍋の中身も質素な粥がせいぜい。けれど今日は違う。


鍋から立ちのぼる匂いは、白い粥だけではなかった。塩漬け肉の端切れと、干し豆と、薄いが確かな油の匂いが混じっている。


「お嬢様……本当に使うんですか。あの干し肉」

乳母が信じられない顔で言う。干し肉は、冬越し用の貴重品だ。節約の象徴みたいなもの。


「使うわ」

「でも……」

「資産の価値を上げるためよ。まずは身体から」


乳母は口を開けたまま、何か言い返そうとして、結局ため息に変えた。


私は火加減を調整しながら、背後に視線を送る。台所の隅。窓からの光が届かない場所に、カシアンが立っていた。昨日からずっとそこにいるみたいに。気配が薄い。存在感を消すことに慣れた身体。


「座りなさい」

「……ここで?」

「そう。食卓があるでしょう。うちは貧乏でも、床で食べる趣味はないの」


カシアンは一瞬迷ってから、椅子に座った。背筋は硬く、いつでも立ち上がれる角度を保っている。逃げ道を確保する姿勢。戦場の習慣だ。


私は器に粥をよそい、肉と豆を少し多めに入れて彼の前に置いた。


「食べなさい」

「……毒は?」

「入れてないわ。入れるならもっと高い毒を使う」


カシアンが眉をひそめ、スプーンを取る。口に運んだ瞬間、目がほんの少しだけ見開かれた。味がある食事に、慣れていない顔だ。


「どう?」

「……生きてる味がする」

「いい答え。資産が息を吹き返してる」


私は自分の分は少しだけ器に取り、残りは鍋に戻した。乳母がぎょっとする。


「お嬢様、食べないんですか」

「私の胃は、数字で満たされるの」

「……はあ」


乳母は完全に諦めた顔で、パンを切り始めた。私はカシアンの食べ方を観察する。昨日より速い。口に運ぶ動作が滑らかだ。飢えはまだ深いが、理性が戻り始めている。


食後、私は机に羊皮紙を広げた。古い帳簿の裏に、文字の練習用の線を引いてある。


「カシアン。字は読める?」

「少し」

「少しじゃ困るわ。契約書が読めない資産は価値が半分になる」


彼は黙って座ったまま、紙を見下ろす。私は羽根ペンを渡した。


「書きなさい。自分の名前」

「……カシアン」

「もっと丁寧に。未来の王が、読めない字を書くのは恥」


カシアンの手が一瞬止まった。王という単語が、まだ彼の中で馴染んでいない。拒絶ではないが、痛みを伴う。彼は“皇子”として生まれたはずなのに、その椅子から引きずり下ろされ、捨てられたのだから。


私はわざと明るく言った。


「嫌なら、未来の公爵でもいいわよ。狂犬公爵。響きがいい」

「……狂犬?」

「噛みつくなら、噛む相手を選びなさい。価値のある相手に噛むのが、賢い犬よ」


カシアンが、ペン先を少し強く握った。紙に線が深く刻まれる。怒り。羞恥。悔しさ。全部混ざった力だ。


いい。感情は燃料になる。


午前中は読み書きと計算を叩き込んだ。足し算引き算、利息の概念、証文の意味。彼は理解が早かった。というより、食い下がるように吸収する。飢えていたのは食べ物だけではない。知識にも飢えている。


昼には、温かいスープを出した。乳母はぶつぶつ言いながらも、結局よく煮込んでくれた。カシアンは黙って飲み干し、器を差し出す。


「おかわり」

「言い方がいいわね。もう一杯」


私はわざとそう直す。言葉の癖は、階級を作る。未来の王なら、口調で人を従わせることも必要だ。暴力よりずっと安い支配方法。


午後は庭に出た。小さな庭だ。噴水は止まり、芝は荒れている。だが剣を振る場所には十分。


私は物置から木剣を二本取り出した。一本をカシアンに投げる。彼は反射的に受け取った。受け取る手つきが、すでに“持っている”者のそれだ。


「剣は?」

「触ったことがある」

「ならいい。見せて」


カシアンは木剣を構えた。構えが、奇妙に洗練されている。学園で習う型ではない。帝国の剣術――皇族の護衛が使うような、殺すための合理性を持った型。


私は胸の奥で笑った。


(やっぱり。あなたは宝石だわ)


「振って」

「……本気で?」

「本気はまだ高い。今日は基礎。力を見せすぎると盗まれる」


カシアンが目を細め、木剣を振る。風を裂く音が鋭い。痩せた身体からは想像できないほど、筋肉の使い方が正しい。


私は拍手した。


「合格」

「……何が」

「生存能力。あなたは、今の時点で十分売れる」

「売るのか」

「売らない。だから飼うの」


カシアンの目が揺れる。飼う、という言葉が刺さったのだろう。彼は人質として扱われ、犬のように隔離され、餌を投げられていた。その記憶を私はわざと踏む。


踏んで、塗り替える。


私は彼に近づき、木剣の先を彼の胸に軽く当てた。


「いい? ここからが飼育の本番」


カシアンが微かに身構える。


「あなたは私の資産。だから私の許可なく傷つくな。誰かに殴られそうになったら逃げろ。逃げられないなら、噛みつけ」

「……噛みつけ?」

「そう。血が出るくらい。相手が二度と近づかないくらい」


カシアンの呼吸が一瞬止まった。彼の中の獣が、目を覚ました気配がする。抑えていた殺意に、正当な理由が与えられたからだ。


私は続ける。


「でも、勝手に噛むのは禁止」

「……禁止?」

「命令がある時だけ。あなたが暴れたら、私の評判が落ちる。評判が落ちたら、資金調達が難しくなる。分かる?」

「……分かる」

「賢い。だから次」


私は外套の内側から、小さな包みを取り出した。布を解くと、中には砂糖菓子が一つだけ入っていた。庶民の菓子だ。高くはない。だが、カシアンにとっては見たこともない“甘さ”だろう。


私はそれを彼の掌に置く。


「褒美」

「……何の」

「今、理解したことの褒美」


カシアンが固まった。菓子を握りしめ、目を伏せる。理解が追いついていない顔。


私は軽く肩をすくめた。


「甘やかすわよ。徹底的に。だって育成は、恐怖より甘さの方が効率がいいもの」

「……効率」

「あなたは私に依存する。私はそれを利用する。お互い得。美しい関係でしょう?」


言い切った瞬間、乳母が庭の端で咳払いをした。聞こえてしまったらしい。私は無視した。


カシアンは菓子を見つめ、恐る恐る口に運んだ。噛んだ瞬間、眉が動く。甘さが舌に広がった時の、戸惑いと驚き。


「……甘い」

「そう。あなたが今まで奪われてきたものの味よ」


その言葉に、カシアンの目が暗く沈んだ。怒りが沈殿する。帝国への憎悪。王国への憎悪。自分を捨てた血縁への憎悪。


私はその沈殿を、掻き回さない。今はまだ発酵させる段階だ。


夕方、私は街から取り寄せた古着を彼に渡した。サイズは少し大きい。伸びる余地があるから。成長の余白は、投資家にとって快感だ。


「これ、着ろ」

「……命令か」

「命令。ちゃんと清潔にして、私の隣に立てるようになりなさい」


カシアンは受け取り、黙って部屋へ向かった。数分後、着替えて戻ってくる。布は粗いが、汚れた制服よりずっとましだ。少年の輪郭が少しだけ整う。見える。宝石の形が。


夜、私は自室の机に座り、帳簿を付けていた。鉱山の件で支出が増えている。食費も増えた。乳母のため息が増えた。だが、私は笑っている。


扉の向こうで、カシアンが立っている気配がした。昨夜命じた通り、番をしている。外の物音はしない。だが静けさは、油断を生む。


私は扉を少し開け、廊下の影にいるカシアンを見た。


「眠らないの?」

「眠れるか」

「そうね。人質は眠れない」


私は一歩廊下へ出る。廊下の窓から、月明かりが差し込んでいた。カシアンの横顔は、年相応に幼いのに、目だけが大人だ。


私は彼の頬に手を伸ばした。触れた瞬間、彼の肩がびくりと揺れる。触れられることに慣れていない。


「冷たい」

「……触るな」

「命令する立場は私よ」


私はわざとそう言い、指先で頬の汚れを拭った。彼の皮膚は薄く、骨が近い。栄養が足りていない身体。


「あなたはこれから太る」

「……太る?」

「肉をつけるの。筋肉も。そうしないと王にはなれない」


カシアンは低く笑った。


「……俺を王にしたいのか」

「したいに決まってる」

「なぜ」

「得だから」

「それだけか」

「それだけよ」


私は即答した。嘘ではない。少なくとも、嘘として扱える範囲の真実だ。


カシアンが私を見つめる。目の奥に、試す色がある。私の言葉の裏に、別の何かを探している。


私はその視線を受け止め、さらに踏み込んだ。


「でも、覚えておきなさい。得っていうのはね、数字だけじゃないの」

「……?」

「私があなたを見て、面白いと思う。それも得。あなたが笑うと、もっと得。あなたが生きると、得。あなたが死ぬと、損」


カシアンの喉が動いた。言葉を飲み込んでいる。感情を飲み込んでいる。彼はまだ、自分が何を欲しているか、言葉にできない。


私は彼の顎を指先で持ち上げた。


「だから生きなさい。私のために」

「……命令か」

「そう。絶対命令」


カシアンの瞳が、静かに燃えた。火が灯る。彼の中にある獣が、私を主人と認識し始める。


危険だ。甘い。気持ちがいい。


私は手を離し、扉を閉めた。


その夜、私は夢を見た。


炎。帝国の宮殿が燃えている。血の匂い。悲鳴。剣が肉を裂く音。


そして最後に、玉座に座る男がいた。濃紺の髪。冷たい目。私を見下ろし、笑う。


――イザベラ。


目が覚めると、まだ夜だった。胸が熱い。喉が渇く。


扉の外に気配がある。カシアンだ。彼は今も立っている。守っている。命令だから。だけど命令だけではない。


私はベッドから降り、扉をそっと開けた。


廊下に立つ彼は、月明かりを浴びていた。眠気のない顔。獣の顔。


「……まだいるのね」

「命令だ」

「そう。でも、命令だけ?」

「……」


カシアンは答えない。代わりに、低い声で言った。


「ここにいれば……殴られない」

「そうね」

「飢えない」

「そうね」

「……捨てられない」


その最後の言葉が、ひどく幼く聞こえた。


私は胸の奥が少しだけ痛んだ。嫌な痛みではない。油断すると溶けてしまいそうな痛み。


私は笑って誤魔化す。


「捨てないわ。資産だもの」

「……資産」

「そう。だから明日も食べさせる。教育する。剣も振らせる。あなたは私に依存する。私はそれを育てる」


カシアンが、ほんのわずかに口角を上げた。笑顔ではない。でも、表情の氷が一枚だけ割れた。


「……飼育だな」

「そう。飼育」


私は指先で、彼の額に触れた。


「狂犬の飼育方法は簡単よ。飢えさせない。殴らせない。甘やかす。そして――」

「そして?」

「噛みつく先を、私が決める」


カシアンの目が細くなる。従う獣の目。危険な獣の目。


私は満足した。


(順調)


明日、鉱山へ人を送る。噂を潰す。事故の原因を探る。敵の手を折る。


その間、私はここで“王”を育てる。


そしていつか。


この狂犬が鎖を引きちぎって王になる時、私がその鎖の端を握っていられるように。


廊下の冷たい空気の中で、私は小さく笑った。


悪女の飼育は、甘くて残酷で、最高に効率的だ。

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