第4話「狂犬公爵の飼育方法」
翌朝、私は台所で鍋を覗き込んでいた。
うちの屋敷の台所は、昔なら使用人が忙しなく走り回り、香草と肉の匂いで満ちていたはずだ。今は火口も減り、棚は空っぽで、鍋の中身も質素な粥がせいぜい。けれど今日は違う。
鍋から立ちのぼる匂いは、白い粥だけではなかった。塩漬け肉の端切れと、干し豆と、薄いが確かな油の匂いが混じっている。
「お嬢様……本当に使うんですか。あの干し肉」
乳母が信じられない顔で言う。干し肉は、冬越し用の貴重品だ。節約の象徴みたいなもの。
「使うわ」
「でも……」
「資産の価値を上げるためよ。まずは身体から」
乳母は口を開けたまま、何か言い返そうとして、結局ため息に変えた。
私は火加減を調整しながら、背後に視線を送る。台所の隅。窓からの光が届かない場所に、カシアンが立っていた。昨日からずっとそこにいるみたいに。気配が薄い。存在感を消すことに慣れた身体。
「座りなさい」
「……ここで?」
「そう。食卓があるでしょう。うちは貧乏でも、床で食べる趣味はないの」
カシアンは一瞬迷ってから、椅子に座った。背筋は硬く、いつでも立ち上がれる角度を保っている。逃げ道を確保する姿勢。戦場の習慣だ。
私は器に粥をよそい、肉と豆を少し多めに入れて彼の前に置いた。
「食べなさい」
「……毒は?」
「入れてないわ。入れるならもっと高い毒を使う」
カシアンが眉をひそめ、スプーンを取る。口に運んだ瞬間、目がほんの少しだけ見開かれた。味がある食事に、慣れていない顔だ。
「どう?」
「……生きてる味がする」
「いい答え。資産が息を吹き返してる」
私は自分の分は少しだけ器に取り、残りは鍋に戻した。乳母がぎょっとする。
「お嬢様、食べないんですか」
「私の胃は、数字で満たされるの」
「……はあ」
乳母は完全に諦めた顔で、パンを切り始めた。私はカシアンの食べ方を観察する。昨日より速い。口に運ぶ動作が滑らかだ。飢えはまだ深いが、理性が戻り始めている。
食後、私は机に羊皮紙を広げた。古い帳簿の裏に、文字の練習用の線を引いてある。
「カシアン。字は読める?」
「少し」
「少しじゃ困るわ。契約書が読めない資産は価値が半分になる」
彼は黙って座ったまま、紙を見下ろす。私は羽根ペンを渡した。
「書きなさい。自分の名前」
「……カシアン」
「もっと丁寧に。未来の王が、読めない字を書くのは恥」
カシアンの手が一瞬止まった。王という単語が、まだ彼の中で馴染んでいない。拒絶ではないが、痛みを伴う。彼は“皇子”として生まれたはずなのに、その椅子から引きずり下ろされ、捨てられたのだから。
私はわざと明るく言った。
「嫌なら、未来の公爵でもいいわよ。狂犬公爵。響きがいい」
「……狂犬?」
「噛みつくなら、噛む相手を選びなさい。価値のある相手に噛むのが、賢い犬よ」
カシアンが、ペン先を少し強く握った。紙に線が深く刻まれる。怒り。羞恥。悔しさ。全部混ざった力だ。
いい。感情は燃料になる。
午前中は読み書きと計算を叩き込んだ。足し算引き算、利息の概念、証文の意味。彼は理解が早かった。というより、食い下がるように吸収する。飢えていたのは食べ物だけではない。知識にも飢えている。
昼には、温かいスープを出した。乳母はぶつぶつ言いながらも、結局よく煮込んでくれた。カシアンは黙って飲み干し、器を差し出す。
「おかわり」
「言い方がいいわね。もう一杯」
私はわざとそう直す。言葉の癖は、階級を作る。未来の王なら、口調で人を従わせることも必要だ。暴力よりずっと安い支配方法。
午後は庭に出た。小さな庭だ。噴水は止まり、芝は荒れている。だが剣を振る場所には十分。
私は物置から木剣を二本取り出した。一本をカシアンに投げる。彼は反射的に受け取った。受け取る手つきが、すでに“持っている”者のそれだ。
「剣は?」
「触ったことがある」
「ならいい。見せて」
カシアンは木剣を構えた。構えが、奇妙に洗練されている。学園で習う型ではない。帝国の剣術――皇族の護衛が使うような、殺すための合理性を持った型。
私は胸の奥で笑った。
(やっぱり。あなたは宝石だわ)
「振って」
「……本気で?」
「本気はまだ高い。今日は基礎。力を見せすぎると盗まれる」
カシアンが目を細め、木剣を振る。風を裂く音が鋭い。痩せた身体からは想像できないほど、筋肉の使い方が正しい。
私は拍手した。
「合格」
「……何が」
「生存能力。あなたは、今の時点で十分売れる」
「売るのか」
「売らない。だから飼うの」
カシアンの目が揺れる。飼う、という言葉が刺さったのだろう。彼は人質として扱われ、犬のように隔離され、餌を投げられていた。その記憶を私はわざと踏む。
踏んで、塗り替える。
私は彼に近づき、木剣の先を彼の胸に軽く当てた。
「いい? ここからが飼育の本番」
カシアンが微かに身構える。
「あなたは私の資産。だから私の許可なく傷つくな。誰かに殴られそうになったら逃げろ。逃げられないなら、噛みつけ」
「……噛みつけ?」
「そう。血が出るくらい。相手が二度と近づかないくらい」
カシアンの呼吸が一瞬止まった。彼の中の獣が、目を覚ました気配がする。抑えていた殺意に、正当な理由が与えられたからだ。
私は続ける。
「でも、勝手に噛むのは禁止」
「……禁止?」
「命令がある時だけ。あなたが暴れたら、私の評判が落ちる。評判が落ちたら、資金調達が難しくなる。分かる?」
「……分かる」
「賢い。だから次」
私は外套の内側から、小さな包みを取り出した。布を解くと、中には砂糖菓子が一つだけ入っていた。庶民の菓子だ。高くはない。だが、カシアンにとっては見たこともない“甘さ”だろう。
私はそれを彼の掌に置く。
「褒美」
「……何の」
「今、理解したことの褒美」
カシアンが固まった。菓子を握りしめ、目を伏せる。理解が追いついていない顔。
私は軽く肩をすくめた。
「甘やかすわよ。徹底的に。だって育成は、恐怖より甘さの方が効率がいいもの」
「……効率」
「あなたは私に依存する。私はそれを利用する。お互い得。美しい関係でしょう?」
言い切った瞬間、乳母が庭の端で咳払いをした。聞こえてしまったらしい。私は無視した。
カシアンは菓子を見つめ、恐る恐る口に運んだ。噛んだ瞬間、眉が動く。甘さが舌に広がった時の、戸惑いと驚き。
「……甘い」
「そう。あなたが今まで奪われてきたものの味よ」
その言葉に、カシアンの目が暗く沈んだ。怒りが沈殿する。帝国への憎悪。王国への憎悪。自分を捨てた血縁への憎悪。
私はその沈殿を、掻き回さない。今はまだ発酵させる段階だ。
夕方、私は街から取り寄せた古着を彼に渡した。サイズは少し大きい。伸びる余地があるから。成長の余白は、投資家にとって快感だ。
「これ、着ろ」
「……命令か」
「命令。ちゃんと清潔にして、私の隣に立てるようになりなさい」
カシアンは受け取り、黙って部屋へ向かった。数分後、着替えて戻ってくる。布は粗いが、汚れた制服よりずっとましだ。少年の輪郭が少しだけ整う。見える。宝石の形が。
夜、私は自室の机に座り、帳簿を付けていた。鉱山の件で支出が増えている。食費も増えた。乳母のため息が増えた。だが、私は笑っている。
扉の向こうで、カシアンが立っている気配がした。昨夜命じた通り、番をしている。外の物音はしない。だが静けさは、油断を生む。
私は扉を少し開け、廊下の影にいるカシアンを見た。
「眠らないの?」
「眠れるか」
「そうね。人質は眠れない」
私は一歩廊下へ出る。廊下の窓から、月明かりが差し込んでいた。カシアンの横顔は、年相応に幼いのに、目だけが大人だ。
私は彼の頬に手を伸ばした。触れた瞬間、彼の肩がびくりと揺れる。触れられることに慣れていない。
「冷たい」
「……触るな」
「命令する立場は私よ」
私はわざとそう言い、指先で頬の汚れを拭った。彼の皮膚は薄く、骨が近い。栄養が足りていない身体。
「あなたはこれから太る」
「……太る?」
「肉をつけるの。筋肉も。そうしないと王にはなれない」
カシアンは低く笑った。
「……俺を王にしたいのか」
「したいに決まってる」
「なぜ」
「得だから」
「それだけか」
「それだけよ」
私は即答した。嘘ではない。少なくとも、嘘として扱える範囲の真実だ。
カシアンが私を見つめる。目の奥に、試す色がある。私の言葉の裏に、別の何かを探している。
私はその視線を受け止め、さらに踏み込んだ。
「でも、覚えておきなさい。得っていうのはね、数字だけじゃないの」
「……?」
「私があなたを見て、面白いと思う。それも得。あなたが笑うと、もっと得。あなたが生きると、得。あなたが死ぬと、損」
カシアンの喉が動いた。言葉を飲み込んでいる。感情を飲み込んでいる。彼はまだ、自分が何を欲しているか、言葉にできない。
私は彼の顎を指先で持ち上げた。
「だから生きなさい。私のために」
「……命令か」
「そう。絶対命令」
カシアンの瞳が、静かに燃えた。火が灯る。彼の中にある獣が、私を主人と認識し始める。
危険だ。甘い。気持ちがいい。
私は手を離し、扉を閉めた。
その夜、私は夢を見た。
炎。帝国の宮殿が燃えている。血の匂い。悲鳴。剣が肉を裂く音。
そして最後に、玉座に座る男がいた。濃紺の髪。冷たい目。私を見下ろし、笑う。
――イザベラ。
目が覚めると、まだ夜だった。胸が熱い。喉が渇く。
扉の外に気配がある。カシアンだ。彼は今も立っている。守っている。命令だから。だけど命令だけではない。
私はベッドから降り、扉をそっと開けた。
廊下に立つ彼は、月明かりを浴びていた。眠気のない顔。獣の顔。
「……まだいるのね」
「命令だ」
「そう。でも、命令だけ?」
「……」
カシアンは答えない。代わりに、低い声で言った。
「ここにいれば……殴られない」
「そうね」
「飢えない」
「そうね」
「……捨てられない」
その最後の言葉が、ひどく幼く聞こえた。
私は胸の奥が少しだけ痛んだ。嫌な痛みではない。油断すると溶けてしまいそうな痛み。
私は笑って誤魔化す。
「捨てないわ。資産だもの」
「……資産」
「そう。だから明日も食べさせる。教育する。剣も振らせる。あなたは私に依存する。私はそれを育てる」
カシアンが、ほんのわずかに口角を上げた。笑顔ではない。でも、表情の氷が一枚だけ割れた。
「……飼育だな」
「そう。飼育」
私は指先で、彼の額に触れた。
「狂犬の飼育方法は簡単よ。飢えさせない。殴らせない。甘やかす。そして――」
「そして?」
「噛みつく先を、私が決める」
カシアンの目が細くなる。従う獣の目。危険な獣の目。
私は満足した。
(順調)
明日、鉱山へ人を送る。噂を潰す。事故の原因を探る。敵の手を折る。
その間、私はここで“王”を育てる。
そしていつか。
この狂犬が鎖を引きちぎって王になる時、私がその鎖の端を握っていられるように。
廊下の冷たい空気の中で、私は小さく笑った。
悪女の飼育は、甘くて残酷で、最高に効率的だ。




