第3話「悪女の投資術」
王都の朝は、鐘の音と噂話で始まる。
学園から戻った翌日、私はまだ暗いうちに起きた。屋敷の廊下は冷え切っていて、靴音がやけに響く。乳母は私の寝不足に気づいているはずなのに、何も言わなかった。昨日、私が連れ帰った“購入品”が食卓でパンを一枚余分に食べた瞬間、乳母は一度だけ天井を仰いだが、文句は飲み込んでいた。
その代わり、私の隣で黙って座る少年――カシアンを、何度も盗み見ていた。
貴族の家の食卓に、汚れた人質の少年がいる。常識なら許されない光景だ。けれど常識は、私を処刑台へ運んだ鎖でもある。
私は紅茶を一口すすり、薄く笑った。
「今日、街に出るわ」
「お嬢様、学園は?」
「休む。学園は逃げないけど、相場は逃げるの」
乳母がため息をつく。
「相場なんて、あなたは商人じゃありませんよ」
「貴族が貧乏になったら、商人になるの。生きるためにね」
それは嘘ではない。だが半分だ。残り半分は――楽しいから。
カシアンはパンを手にしたまま、私を見ていた。昨夜、風呂に入れて服を替えさせたせいで、泥の匂いは薄れた。だが目の奥に沈む冷たさは変わらない。
「俺も行く」
「当然。あなたは私の資産だもの」
「……資産は勝手に動かないのか」
「勝手に動く資産は困るわね。管理できないものに価値はない」
カシアンは言い返さず、パンを噛み切った。少しずつ食べ方が“人間”に戻っている。その様子を見て、私は満足した。投資は順調。まずは基盤整備だ。
馬車は出せない。うちの財政でそれは贅沢すぎる。私は外套を羽織り、木箱を抱え、カシアンを連れて徒歩で街へ向かった。王都の石畳を歩くと、貴族の屋敷と商人の店が混ざり合う境界が見える。金は階級を越える。越えられると知った者だけが、そこを行き来できる。
最初に向かったのは、質屋だった。
薄暗い店内には、銀食器、古い絵画、宝飾品、そして“落ちた家”の誇りが並んでいる。モンテスキュー家も例外ではない。うちの倉庫にも、質に入れられるものがいくつかある。だが私は今日、それを持ち込まなかった。
持ち込むのは、もっと効率の良いものだ。
「いらっしゃい」
店主は老獪な目をした男で、私の顔を見るなり口元を歪めた。
「おや、伯爵家のお嬢さん。今日は何を“処分”に?」
「処分じゃないわ。投資の準備」
「はは。貴族が投資とはねえ」
私は木箱を開け、銀貨を数えて机に置いた。合計で――七枚。私の全財産の大半だ。胸が少しだけ痛む。
でも、それでいい。全財産を“眠らせる”のは愚か者のすることだ。動かして増やす。増やした上で支配する。それが私のやり方。
「この銀貨で、証文を切って」
「証文? 何を担保に?」
「私の“情報”。それと、来月までに必ず返すという信用」
店主は吹き出しかけ、しかし私の目を見て笑うのをやめた。貴族の娘の目ではない。もっと、飢えた獣の目。金の匂いを嗅ぎつけた者の目。
「……面白い。どれくらい必要だ?」
「銀貨二十枚分」
「七枚しかないのに?」
「だから証文。利息込みで返す。来月。必ず」
店主は舌打ちし、計算板を弾いた。
「利息は高いぞ」
「構わない。高い利息は、勝った時の快感を増やす」
カシアンが、私の横で小さく息を飲むのが分かった。彼はまだ、“借りる”という行為に恐怖があるのだろう。借りた者は弱者。返せなければ奴隷。帝国の政治闘争では、借金は首輪になる。
私は彼に向けて、わざと明るく言った。
「大丈夫。負けないから」
「……負けたら?」
「負けたら、私はあなたを売る」
「……っ」
「冗談よ。今のあなたはまだ安い。売るなら高くしてから」
カシアンは眉間に皺を寄せた。怒っているのに、どこか安心した顔でもある。冗談を言えるほど、私は余裕がある。余裕がある者は強者だ。
店主は証文を切り、銀貨二十枚相当の札を私に渡した。紙一枚が、銀貨十三枚分の価値を生み出す。世界はこうして回っている。
次に向かったのは、酒場の裏だった。
表通りの華やかな店ではなく、労働者と下級商人が集まる薄汚れた酒場。ここには金よりも早く、情報が流れる。私は前世でここを使っていた。捕まえた噂を王宮に売り、貴族に売り、商人に売った。悪女と呼ばれる所以だ。
私は酒場の主に銀貨一枚を滑らせる。
「最近、売りに出た鉱山の話を」
「鉱山? ああ……グラナート鉱山か。事故続きで呪われてるってやつ」
「値は?」
「紙くず同然さ。買い手がつかねえ。誰も死にたかねえからな」
グラナート鉱山。
前世の記憶が鮮明に蘇る。暴落寸前。事故。呪いの噂。投げ売り。誰もが避ける。だからこそ――私は知っている。
あそこから出るのは、金じゃない。
希少魔石。
王国の魔導炉を動かす燃料。武器に仕込めば軍事力が跳ね上がる、血より高い石。数年後、発見されて一気に相場がひっくり返る。だがその時にはもう遅い。権益は王家に吸われ、商会に奪われ、私の手には入らなかった。
だから今度は、先に買う。
私は酒場を出ると、すぐに馬車を呼ぶこともせず、徒歩で鉱山の権益を扱う役所へ向かった。役所の石造りの建物は冷たく、受付の男は私を見るなり面倒そうに鼻を鳴らす。
「モンテスキュー家? 借金の相談なら別口だ」
「借金じゃないわ。買い物よ」
私は証文と銀貨を机に置いた。
「グラナート鉱山の権益を全部」
「は?」
受付の男が目を丸くした。周囲の役人たちも顔を上げ、こちらを見る。
「……あの呪われた鉱山を? 事故続きで、働き手も逃げて、採掘は止まってるぞ」
「だから安いのよ」
「安いが……無駄だ。あそこはもう終わってる」
「終わってるなら、なおさら買いやすい」
役人は笑いかけたが、私の目を見て笑うのをやめた。今日、何人目だろう。人はみな、理解できないものを笑い、理解した瞬間に恐れる。
手続きは驚くほど早かった。買い手がいない権益は、役所にとって厄介者だ。責任だけが残り、事故が起きれば批判される。なら、金を払って引き取ってくれる人間がいれば、喜んで手放す。
私は印章を押し、書面を受け取った。
「これで――グラナート鉱山は、私のもの」
紙一枚。だが、未来の山が丸ごと私の懐に入った。
役所を出た瞬間、背後から笑い声が聞こえた。
「やっぱり頭がおかしいんだわ、あの女」
振り向くと、フローレンスと取り巻きがいた。学園にいるはずの時間なのに、わざわざ追ってきたらしい。噂の火を嗅ぎつけて。
「呪われた鉱山を買うなんて。没落貴族の最後の悪あがき?」
「それとも、あの人質を養うための自殺かしら」
取り巻きが笑う。私は笑い返さない。笑う価値もない。
代わりに、淡々と言った。
「あなたたち、投資を知らないのね」
「投資? 貴族が口にする言葉じゃありませんわ」
「貴族だからこそよ。あなたたちは“持っている”ことに慣れすぎている。“増やす”方法を知らない」
フローレンスの頬が引きつる。
「増やす? どうせ事故で人が死ぬだけよ。あなたの汚い金で買った山が、あなたの首を絞めるわ」
「首を絞めるのは、山じゃない。無知よ」
私は歩き出した。背後の嘲笑が石畳に落ちる。気持ちいい。嘲笑は配当金の前払いだ。笑われるほど、勝った時の顔が歪む。
カシアンが、隣でぽつりと言った。
「……なぜ、あれを買った」
「未来が見えるから」
「未来?」
「あなたの未来も、鉱山の未来も」
カシアンは沈黙した。彼はまだ信じていない。いや、信じたくないのだろう。未来が決まっていると言われるのは、鎖になる。人質として生きてきた彼にとって、鎖は恐怖だ。
私は歩きながら言葉を選んだ。
「未来は決まってるんじゃない。決めるの。私は知識を武器にして、先に手を伸ばすだけ」
「……知識で、金が生えるのか」
「生えるわよ。畑より確実に」
カシアンが小さく鼻で笑った。初めて見た表情だった。まだ微笑みとは言えない。でも、嘲笑ではない。興味だ。
屋敷に戻る途中、私は一度だけ、わざと遠回りをした。裏路地の角にある、古い掲示板の前で足を止める。
そこには、鉱山の事故記事が貼られていた。血文字みたいな赤いインクで書かれている。
――“呪いの鉱山、再び崩落。死者二名。”
カシアンがその紙を見つめ、低い声で言った。
「死者……」
「そう。だからこそ、安い」
私は冷たく言い切った。残酷に聞こえるだろう。だが投資は残酷だ。死者が出れば値が下がる。値が下がれば買える。買えれば支配できる。
それが現実。
ただし――。
私は紙を指先で撫で、心の中で計算した。
(死者二名。予定より早い。誰かが“噂”を作っている)
前世では、事故は偶然だと思っていた。呪いだと笑っていた。けれど今世の私は、あらゆる“偶然”を疑う。
事故が続くのは、鉱山の価値を下げたい者がいるからだ。
つまり――私が買った瞬間、敵が生まれた。
屋敷に戻ると、乳母が出迎えた。私が権利書を見せると、顔色が真っ白になる。
「お嬢様……! 本当に買ったんですか、あんな……」
「ええ。今日からうちは鉱山主よ」
「借金は!?」
「増えるわ。先にね」
乳母が倒れそうになるのを横目に、私はカシアンに向き直った。
「あなたは今日、何を見た?」
「……金が、紙になるのを見た」
「違う」
「……貴族が、泥を踏んで交渉するのを見た」
「それでもない」
私は彼の顎を指先で持ち上げ、目を覗き込んだ。
「価値が低い時に買う。それだけ」
「……俺も?」
「もちろん。あなたもそのうち、笑われるほど安くなくなる」
カシアンの瞳が揺れた。怒りでも羞恥でもない。今まで彼が感じたことのない種類の感情――期待と恐怖が混ざった揺れ。
私は笑った。
「さあ、明日から勉強よ。帳簿の付け方。契約書の読み方。嘘の見抜き方。あなたが王になるなら、必要でしょう」
「王……」
「ええ。あなたは未来の王。だから私は投資する」
カシアンは何か言いかけて、飲み込んだ。
その夜、私は机に権利書を置き、灯りの下で眺めた。紙は薄いのに、未来は重い。
窓の外で風が鳴る。
ふと、屋敷の門の方から、微かな物音がした気がした。足音。金属の擦れる音。誰かが、屋敷の外壁を確かめるような――。
私はペンを置き、静かに立ち上がる。
(来た)
私が鉱山を買ったことは、もう広まっている。笑い者として。愚か者として。
でも、愚か者が手に入れてはいけないものを掴んだと気づいた者は、必ず動く。
暗がりの中で、私は唇を歪めた。
「……配当金の前に、妨害が来るのね」
面倒。でも、嫌いじゃない。
私は扉の向こうにいる護衛代わりの使用人を呼ぼうとして――やめた。
代わりに、廊下の影にいる少年を見た。最近、夜になると彼は眠らない。いや、眠れないのだろう。人質の習性。背中を見せると死ぬ世界で生きてきた目。
カシアンがこちらを見ていた。
「……外に誰かいる」
「ええ」
「殺すか」
「まだ。殺すのは、価値が確定してから」
カシアンは眉をひそめた。
「……お前は、怖くないのか」
「怖いわよ。だから準備するの」
私は彼に近づき、囁いた。
「いい? あなたは私の資産。資産を守るのは管理者の義務。あなたはまだ安いけど――」
「……けど?」
「盗まれたくない」
その言葉が、意図せず柔らかくなった。
カシアンの目が一瞬だけ丸くなる。次の瞬間、彼は視線を逸らし、低く言った。
「……命令なら従う」
「命令よ。今夜、私の部屋の前に立ちなさい。誰も通すな」
「分かった」
彼は静かに廊下へ溶けた。足音が消える。夜の番犬。未来の狂犬。
私は机に戻り、もう一度権利書を見た。
明日、鉱山へ人を送る。採掘再開の準備。雇い入れ。監督。噂の鎮圧。事故の原因の調査。
やることは山ほどある。
でも、私は笑っていた。
嘲笑はまだ耳に残っている。フローレンスの顔も浮かぶ。
(もっと笑いなさい)
笑われた分だけ、配当金は甘くなる。
私はペンを取り、帳簿の最初のページにこう書いた。
――投資先:グラナート鉱山。
――投資先:カシアン。
――目標:世界の富と王を手に入れる。
そしてその下に、小さく付け足した。
――敵:既に発生。
インクが乾く前に、窓の外で何かが落ちる音がした。
石か、合図か。
私は顔を上げ、暗闇に向かって微笑んだ。
「さあ。次はどこを買い叩いてあげようかしら」




