第2話「泥中の宝石を買い叩く」
学園の門をくぐった瞬間、鼻を刺すのは香水と湿った石畳の匂いだった。雨上がりの空気は澄んでいるのに、ここだけは別だ。人の欲と序列が濃く漂っている。
貴族の子女たちは、色とりどりの傘をくるくる回しながら談笑していた。笑い声は鈴の音みたいに高く、どこか薄い。誰かが誰かを値踏みし、誰かが誰かを切り捨てる音が混じっている。
私はその輪の中心に入らない。入る必要がない。今日の買い物は、表舞台ではなく裏庭にある。
「イザベラ様、おはようございます!」
甲高い声が飛んできた。振り向くと、金糸みたいな髪を揺らした令嬢が、取り巻きを連れてこちらへ歩いてくる。目尻の角度、顎の上げ方、こちらを見下ろす視線。覚えている。覚えすぎるほど覚えている。
フローレンス・リヴィエール。王子派の典型。十年後、私が落ち始めた時に一番最初に石を投げた女。
「おはよう、フローレンス。今日は随分早いのね」
「ええ。だって噂を聞いたんですもの。モンテスキュー伯爵家はもう……ね?」
取り巻きがくすくす笑った。嗤いの音は雨粒みたいに冷たく、服に染みる。
「それでも学園に通えているだけ、ありがたいと思うべきですわ。……あら? その箱は何? まさか、昼食を持参? 貧乏って大変ですのね」
視線が、私の抱えている木箱に刺さる。銀貨の入った貯金箱。昨日までなら、私は反射的に隠していたはずだ。
でも今の私は、隠す気がない。
「そうね。大変。だからこそ節約してるの」
「節約しても、借金は減りませんわよ?」
「借金はね。減らすんじゃなくて、切り取るの」
フローレンスは意味が分からない顔をした。私は微笑み、すっと彼女の肩を通り過ぎる。取り巻きが「あっ」と声を漏らしたが、気にしない。
値下がりする株に群がっている暇はない。私はもっと価値のあるものを拾いに行く。
――裏庭。
学園の華やかな校舎から離れた場所に、誰も近づきたがらない区画がある。庭というより、放置された空き地だ。雑草は腰の高さまで伸び、古い倉庫と、さらに粗末な小屋がぽつんと建っている。
それは、寮ではない。誰かが住む場所として設計されたものでもない。
「……まだ、あるのね」
記憶と一致する光景に、胸が熱くなる。私は足を進めた。靴がぬかるみに沈み、泥が裾を汚す。構わない。泥は洗えば落ちる。価値は落ちない。
小屋の近くに近づくほど、匂いが変わる。湿った木、腐った布、そして――飢え。人が飢えている匂いは、甘酸っぱくて嫌に生々しい。
「誰だ」
低い声がした。小屋の陰から、少年が現れる。
痩せている。頬はこけ、唇は乾き切ってひび割れている。髪は黒に近い濃紺で、雨水と泥で束になって額に張り付いていた。制服は汚れ、袖口は擦り切れている。年齢は私と同じくらいのはずなのに、背は少し低く見える。栄養が足りていないのだろう。
でも――目。
目だけが、異様に澄んでいた。空腹の獣が獲物を見つけた時の目ではない。獲物を見つけた獣を、逆に観察する目。冷たいのに熱い。
私はその目を見て、確信した。
(カシアン)
未来の征服王。狂犬公爵。帝国の皇子。今は呪われた人質。
「……あなたが、カシアンね」
「違うと言ったら帰るのか」
「帰らないわ。違っても買うもの」
少年の眉が僅かに動いた。聞き慣れない単語を警戒するように。
「買う?」
「そう。あなたを」
口にした瞬間、背後で乾いた笑い声が起きた。
「やめとけよ、モンテスキュー」
倉庫の横から、上級生らしい男子が数人出てきた。靴は磨かれ、制服も整っている。貴族の息子たちだ。彼らの視線は、少年を“人”として見ていない。道端の石か、踏んで音を鳴らす玩具か、その程度だ。
「その呪われた犬は触ると不幸になるんだぜ」
「近づくと災いが降りかかるって噂だ」
「どうせ金がないなら、こいつに施しでもするか? せいぜい餌でもくれてやれ」
言葉と一緒に、固いものが投げられた。乾いたパンの欠片。泥に落ち、踏まれていく。少年――カシアンは動かない。拾いもしない。目も逸らさない。まるで、屈辱に慣れ切っているみたいに。
私はパンの欠片を一瞥し、ゆっくりと息を吐いた。
(この国は、よくもまあ……)
数年後、自分たちが滅ぼされるとも知らずに。
私は木箱を抱えたまま、男子たちに向き直った。
「あなたたち、名前は?」
「は? 何だよ」
「今、私に話しかけたわよね。なら、名乗るのが礼儀でしょう。……私、忘れたくないの。将来、誰がいくらで破滅したか」
男子たちの顔が歪む。取り巻きの一人が怒鳴り返した。
「調子に乗るな! 没落寸前の家の娘が!」
「没落寸前だから、学ぶのよ。価値のないものに関わると損をするって」
私は視線を外さず、淡々と言った。そのまま、ポケットに手を入れる。そこから取り出したのは、銀貨が二枚。
――たった二枚。
けれど、今この場で最も鋭い刃になる。
「ねえ、あなたたち。ここを管理しているのは誰?」
「……管理? そんなの、用務員だろ」
「呼んできて」
命令口調ではない。提案でもない。支配者の口調だった。銀貨が、その声に重みを足す。
男子たちは一瞬戸惑い、しかし好奇心に負けて走っていった。噂好きの貴族の子は、火種を放って燃え広がるのを見るのが好きだ。
残されたのは私と、少年だけ。
カシアンは私を見ていた。警戒、疑念、そして僅かな――侮蔑。
「慈善のつもりか」
「違う。投資よ」
「投資?」
「価値が低い時に買って、高く売る。簡単でしょう」
少年の瞳が細くなる。理解しようとしているのに、受け入れたくない顔だ。自分が“売買されるもの”だと認めた瞬間、心のどこかが折れるから。
私はその折れ目を、わざと指でなぞった。
「あなたは今、誰からも見向きもされない。だから安い」
「……安い?」
「ええ。銀貨数枚で買えるくらいにね」
カシアンの喉が小さく動いた。唇が震えたのは、怒りか、羞恥か。いや、両方だろう。
その時、足音が戻ってきた。
現れたのは、用務員ではなかった。学園の事務官だ。腹の出た中年男で、雨除けの外套を着ている。後ろには、さっきの男子たちが得意げに並んでいた。
「どうしたね、ここは立ち入り禁止だぞ」
「立ち入り禁止? そんな規則、初めて聞いたわ」
「危険だ。あの人質……いや、あの少年は問題を起こす。だから隔離して――」
私は話を遮り、銀貨を指先で鳴らした。
「あなたが、この区画の管理責任者?」
「……そうだが」
「なら、交渉できるわね」
私は木箱を胸に抱いたまま、冷静に言った。
「私は、カシアンの生活環境を改善したい。具体的には、学園施設内の清潔な小部屋、適切な食事、最低限の衣服、教育の機会」
「は? あの呪われた――」
「呪い? 噂でしょ。あなたは“規則”で動く人間のはず。噂で仕事をしているの?」
事務官の額に汗が浮かぶ。周囲には生徒がいる。自分の職務を揺さぶられるのは嫌だろう。
私はさらに続ける。
「それに、彼は人質。粗末に扱って死なせたら、外交問題になる。学園が責任を取るの?」
「それは……」
「取れないでしょう。だから私は、買うの」
事務官が眉をひそめる。
「買う、とは……」
「契約よ。学園が彼を“管理”するのではなく、私が“保護責任”を持つ。学園の手間が減る。あなたのリスクも減る。互いに得」
私は銀貨二枚を、事務官の前に差し出した。
「これを、あなたの“手続き費用”として渡すわ」
事務官の目が銀貨に吸い寄せられる。たった二枚だ。だが、彼にとっては“今ここで確実に手に入る利益”。人は未来より目先の金に弱い。
「ふん……。モンテスキュー伯爵家も落ちたものだな。そんな金で――」
「足りないなら、もう一枚」
私は躊躇なく銀貨を追加した。
「ただし、その代わり条件がある」
「条件?」
「今日からカシアンは私の管轄。勝手に殴ったり、飢えさせたりしたら――学園の責任者を通して王都の役所に訴える。外交案件としてね」
事務官の顔色が変わった。訴えられたくはない。責任を取らされたくない。だから最善は、面倒ごとを全部私に押し付けて金だけ受け取ること。
彼は咳払いをし、周囲の生徒に聞こえるような声で言った。
「……よろしい。今後、カシアンの処遇はモンテスキュー嬢に一任する。正式な書面は後で渡す」
「ええ。お願いします」
私は微笑んだ。事務官は銀貨を握りしめ、足早に去っていく。男子たちは呆気に取られた顔で立ち尽くし、次第に面白くない表情になった。
「おい、イザベラ! そんな犬に入れ込んでどうする!」
「犬? そうね。ならしつけが必要ね」
私は振り返らずに言い捨てた。
ようやく、二人きりになった。
カシアンは、動けないでいた。目の前で起きたことを理解できない、といった顔だ。自分が“買われた”という現実を、飲み込む場所がない。
私は一歩近づき、彼の前にしゃがみこんだ。泥がスカートにつくが構わない。私の視線は、彼の目線と同じ高さになった。
「契約は成立よ、カシアン」
「……俺は、物じゃない」
「物じゃないわ。資産よ」
「同じだ」
「違う。物は壊れたら終わり。でも資産は、育てれば増える」
彼の唇がきゅっと結ばれる。怒りに燃えているのに、体が震えている。寒さだけではない。飢えと屈辱と、突然差し出された手の重さ。
私は木箱の蓋を開け、銀貨を一枚取り出した。そして彼の掌に置く。
「これは前金」
「……何の」
「あなたが今日、生き延びた分の価値」
カシアンの指が、銀貨を握りしめた。わずかに、掌が震える。銀貨を握る力は強い。逃がしたくないという本能だ。
「次に言うことは、命令よ」
私は穏やかな声で言い、しかし瞳だけは鋭くした。
「あなたは私の資産。だから傷一つ付けることは許さない。勝手に殴られるな。勝手に飢えるな。勝手に死ぬな」
「……命令だと?」
「そう。私はあなたを買った。なら、あなたの生存は私の利益」
それは真実だ。嘘ではない。だが、その言葉の裏にあるものを、私はまだ言語化しない。言語化した瞬間、弱みになるから。
カシアンは、銀貨を握ったまま、私を見上げた。
「……お前は、何が欲しい」
「未来」
「未来?」
「あなたの未来よ」
私は立ち上がり、手を差し出した。
「来なさい。まずは食事。次に風呂。次に服。そして勉強。あなたに投資するの」
「……もし、逃げたら」
「逃げてもいいわ。だけど覚えておいて。あなたをここで踏みつけていた連中は、あなたが価値を持った瞬間、群がってくる。私はその前に買う。安い時にね」
「……」
「あなたは今、泥の中。でも宝石は泥の中にあるから輝くのよ」
カシアンは、数秒間動かなかった。
その沈黙は長かった。私にとっては、十年分くらい。
やがて彼は、ゆっくりと私の手を取った。ひどく冷たく、骨ばった手。人の手というより、長く握られることを拒んできた手。
私はその手を、強く握り返した。
「いい子」
その一言に、カシアンの目が僅かに揺れる。
彼は、私の手を握ったまま、かすれた声で言った。
「……イザ、ベラ」
「なに?」
「……名前。呼べと言っただろ」
「呼んだわ」
「違う。……俺が、呼んだ」
一瞬、息が止まった。
少年の声で私の名が呼ばれたことが、胸の奥を刺した。打算だけで動いているつもりなのに、こんなところで反応してしまう自分が厄介だ。
私は笑って誤魔化す。
「そう。じゃあ、契約成立ね」
「……契約」
「ええ。これからあなたは、私のもの」
カシアンの瞳に、何か黒いものが沈む。拒絶ではない。むしろ――所有されることを受け入れた者だけが持つ、危険な静けさ。
未来の王の目だ。
私は、その目がたまらなく好きだった。
「さあ、行くわよ。まずは腹ごしらえ。投資は、エサから始まるの」
カシアンが小さく眉をひそめた。
「……エサ?」
「そう。あなたは今、痩せすぎ」
私は歩き出す。彼が遅れてついてくる。背後から感じる視線は、まだ信用のそれではない。監視だ。値踏みだ。
いい。
値踏みされるのは慣れている。むしろ、値踏みの応酬は私の得意分野だ。
私は前を向いたまま、心の中で呟いた。
(これで、最初の投資は完了)
銀貨数枚で買えた未来。
安すぎる。
だから私はもっと、上手く買い叩く。
次は鉱山。次は人脈。次は――王国そのもの。
そして最後に、私の推しが王になった時。
私がいちばん高い場所で笑う。
雨上がりの空の下、学園の石畳を歩く私たちの影は、長く伸びて絡み合っていた。




