第6話「征服王の条件、悪女の条件」
軍は動く前に金で動く。
兵の腹を満たすのも、槍を研ぐのも、馬の蹄鉄を打つのも、全部金だ。金が詰まれば進軍は止まり、止まった軍は腐る。腐った軍は勝てない。
だから私は、戦争の前に市場を整える。
帝国国債は予定通り売れた。聖環院は債権者として首輪を付けられ、王国へ流れる資金は目に見えて細くなった。だが代わりに、別の管が膨らみ始めた。軍需商会。軍が動く気配を嗅ぎつけ、武器と糧秣の値を吊り上げている。
戦の前に吊り上げるのは、売り手の常套手段だ。
そして買い手が焦れば、売り手は神になる。
私は神を嫌う。高いから。
「王妃殿下。ラグレン軍需商会が、鉄材の供給を絞っています」
財務官が青い顔で言った。
「ラグレン?」
「皇帝派の大商会です。摂政派のときも軍に納めていましたが、今は陛下に忠誠を――」
「忠誠が本当なら、供給は絞らないわ」
私は机の上の帳簿を閉じ、指で軽く叩く。
「価格は?」
「通常の二倍です」
「やるわね。三倍にする前に潰す」
財務官が怯えた声を出す。
「潰す……と申されましても、軍需商会は帝国軍の生命線です。供給を止められれば――」
「止められないようにするのよ。供給を“奪う”」
私はマリアへ視線を送った。
「ラグレンの帳簿、持ってきて」
「はい。もう整えてあります」
マリアは平然と紙束を差し出した。包帯の腕が痛むはずなのに、目が揺れない。彼女は仕事で立っている。
「ラグレンの裏口座は三つ。うち一つは王国国境へ送金。名義は慈善。内容は武器の前払い」
財務官が目を剥く。
「皇帝派の商会が、王国へ?」
「皇帝派の仮面を被った商売人よ。勝つ方に賭ける。勝ち馬に乗るってやつ」
私は立ち上がった。
「陛下に会う」
謁見の間ではなく、作戦室だ。地図と兵站図が壁一面に貼られ、矢印が増えていく。そこにカシアンがいた。鎧の試着をしている。赤い外套は脱ぎ、鉄の冷たい光を纏っている。
「どうした」
私の足音を聞かずに彼が言った。
「軍需商会が値を吊り上げてる。しかも王国へ資金を流してる」
カシアンの手が止まった。
「どこだ」
「ラグレン。皇帝派の顔をした虫」
カシアンの目が鋼になる。怒りが温度を奪う。
「斬る」
「斬らない」
私が即答すると、彼の視線が刺さる。
「なぜ」
「斬ったら供給が止まる。止まったら軍が腐る。腐ったら勝てない」
「ではどうする」
「買う」
私は地図の上に紙を広げた。
「ラグレンの主要倉庫と鉱山、製鉄所、輸送路。全部、担保を抱えてる。借金よ。借金は売れる。私が買う」
「借金を?」
「ええ。債権者になれば、命令できる。価格も供給も。彼らの首に、契約の首輪を付ける」
カシアンは黙って紙を見る。理解は早い。だが苛立ちが消えない。斬れば終わるのに、なぜ回りくどい、という顔だ。
私は続ける。
「その上で、裏口座の送金を公表。信徒と市民の怒りをラグレンへ向ける。商会は信用で生きる。信用が落ちれば株が落ちる。落ちたところを、買い叩く」
「……市場で殺す」
「そう。血は流さない。金だけ流す」
カシアンが低く言った。
「お前は血が嫌いか」
「嫌いじゃない。でも安い血は嫌い。流すなら高くしなさい」
「高い血とは」
「意味のある血。契約で止められない時の血」
私は彼の胸の鎧を指で叩く。
「あなたの血は高い。安売りしないで」
カシアンの目が一瞬揺れる。触れられるのが嫌なのではない。触れられた場所が熱くなるのを嫌がっている。
「……分かった。お前のやり方でやる」
その返事が出た瞬間、私は机の上の別の紙を差し出した。書類。契約書。
「じゃあ、次。あなたと私の条件」
カシアンが眉を寄せる。
「条件?」
「出征の条件よ。征服王の条件と、悪女の条件」
私はペンを取り、紙の上に線を引いた。
「まずあなた。征服王としての条件。戦の目的を“領土”にしない。目的は港湾と鉱区、通行税と条約。余計な虐殺は禁止。略奪は禁止。捕虜は契約労働へ転換。暴走した兵は即刻処罰」
「兵を縛れば動きが鈍る」
「動きが鈍るのは悪。暴走するのはもっと悪。暴走は利息が高い。あとで反乱と憎悪を生む」
カシアンが黙って聞いている。嫌がっているが、否定できない顔だ。彼は未来で征服王となり、王国を滅ぼした。その滅ぼし方が、今世では彼自身の足枷になる可能性がある。彼も薄々分かっている。
私は続ける。
「次に私。悪女の条件」
私は紙の下半分に書きつけた。
「私は前線には出ない。代わりに、戦費の調達、条約交渉、港湾買収、難民の再配置を担当。あなたは軍の指揮。役割を混ぜない」
カシアンが言う。
「前線に出ないのは守れる」
「それだけじゃない」
私は顔を上げ、彼を見る。
「戦の間、あなたは私を疑わない。私もあなたを疑わない。疑うなら問いただす。裏切る前に交渉する」
「……それは以前言った」
「言っただけ。紙にする」
「紙は万能じゃない」
「でも紙は逃げない」
カシアンが息を吐く。苛立ちと納得が混じる。
「署名しろというのか」
「ええ。皇帝の署名が必要」
彼はペンを取った。躊躇は一瞬。署名する。帝国の最も重い文字が、紙の上に落ちた。
私も署名した。
これで、戦は“契約”になる。契約になれば、制御できる。制御できれば、勝てる。勝つだけじゃない。高く売れる。
扉が開き、軍務官が入ってきた。
「陛下! 出征準備が整いました。港湾制圧部隊、国境へ向けて――」
カシアンが立ち上がる。
「行く」
軍務官が一瞬、私を見る。王妃がここにいることがまだ信じられない顔だ。
「王妃殿下も……?」
「私はここに残るわ」
私が言うと、軍務官がほっとしたように息を吐く。だが次の瞬間、私が続けた言葉でその息が止まる。
「代わりに、あなたたちの財布を持つ」
軍務官が咳き込みそうになりながら礼をして退いた。
カシアンは鎧を纏い終え、外套を肩に掛けた。戦装束の彼は、学園の少年ではなく、帝国の王だ。
彼が扉へ向かう前に、私は呼び止めた。
「カシアン」
「何だ」
「勝って。私が回収できるように」
「回収?」
「ええ。私の投資。あなたは私の最高額の資産でしょう」
カシアンの口元が僅かに歪む。
「……金の話に戻すな」
「戻すんじゃない。繋ぐの。怖い話を金に繋げば、手が震えない」
「お前は震えてる」
「震えてない」
「嘘だ」
カシアンが一歩戻り、私の手首を掴んだ。強い。熱い。
「俺は戻る」
「当然。契約よ」
「契約じゃなくても戻る」
「……じゃあ何?」
「約束だ」
それだけ言って、彼は去った。
扉が閉まる音が、やけに大きく響いた。
私は一瞬だけ立ち尽くし、次に机へ戻った。感情に浸る時間はない。戦の間に市場は動く。動く市場は、弱者を潰す。弱者は私の資産を減らす。
私はペンを取り、ラグレン軍需商会の債権買い取り書類に署名した。
その日のうちに、帝都の掲示板に新しい告示が貼られた。
「ラグレン軍需商会の監査開始。債務の再編。供給の公的管理」
翌日には、ラグレンの株価が落ちた。
市民が噂をし、商人が引き、貴族が距離を取り、信徒が怒り、信用が崩れる。
崩れたところを、私は買った。
買った瞬間、供給は戻る。価格は下がる。軍は腐らない。
市場で勝てば、戦場でも勝てる。
けれどその夜、情報官が持ってきた報告が、私の指先を止めた。
「王妃殿下。聖環院が動きました」
「国債を抱えてるのに?」
「はい。別口の手段です。……“呪い”を使います」
呪い。
私は息を止めた。
「どういうこと」
情報官が言葉を選ぶ。
「陛下の出征に合わせ、帝都で“呪われた血筋が戦を呼ぶ”という神託が拡散。さらに……王妃殿下が呪いの印持ちを集め、魔導炉跡地で何かをしている、と」
私は目を細めた。
(私を悪にする。皇帝を呪いにする。戦の正当性を潰すために)
聖環院は鎖を焼かれた。なら別の鎖を作る。噂という鎖。呪いという鎖。最も安い鎖。
私は立ち上がった。
「リオを守る。印持ちを守る。……そして聖環院の“核”を掴む」
情報官が躊躇する。
「核とは」
「呪いを作っている場所。回路を刻み、噂を流し、人を集める場所。魔導炉跡地――そこが臭い」
私は窓の外を見る。帝都の夜空。遠くで狼煙が上がっている。出征の合図だ。カシアンはもう動いている。
私は独りで動くわけにはいかない。契約がある。前線には出ない。だが帝都の背後が燃えれば、前線は無意味になる。
私は扇を閉じ、決めた。
「明日、魔導炉跡地を調べる。密かに。財布より先に、“鎖の工房”を潰す」
征服王が戦場へ向かった今、悪女は帝都で別の戦を始める。
血を流さずに、首を落とす戦を。




