第5話「大戦前夜の買収合戦」
帝都の空気が、ひとつ重くなった。
ディセル商会の倉庫を差し押さえた翌日から、街の噂が二種類に割れたからだ。
ひとつは、私を讃える噂。
「王妃が呪い商売を潰した」
「難民が救われた」
「聖環院が黒い」
もうひとつは、私を殺すための噂。
「王妃は皇帝を操る」
「王妃は帝国を売る」
「王妃が呪いをばら撒いた」
讃えられる噂は勝手に広がる。殺す噂は金で広がる。金で広がる噂には、必ず口座がある。口座があるなら、叩ける。
私は王妃の執務室で、聖環基金の流れを追っていた。マリアが片腕に包帯を巻いたまま、平然と帳簿をめくる。顔色はまだ悪いのに、目だけが鋭い。
「王妃様、凍結した資金の一部が、別の名義で逃げています」
「当然よ。逃げ道を用意してない詐欺師はいない」
「名義は……複数。貴族の慈善団体、修道院、孤児院」
「全部“善意”の仮面ね。善意は財布の隠し場所に最適」
私はペン先で紙を叩いた。
「逃げた資金の終着点は?」
マリアが指を止める。
「……王国国境です。戦費の形で流れています。内乱勢力へ」
「つまり、王国は燃料を補給された」
火種が火になり、火が戦になる。その前に燃料庫を潰すべきだ。
扉がノックされる。侍女が入ってきて頭を下げた。
「王妃様。陛下がお呼びです。軍務会議が始まります」
「行くわ」
会議室へ向かう回廊で、私は窓の外を見た。帝都の街はいつも通り動いている。人は危機の直前ほど日常にすがる。日常は安定の幻想だ。幻想を売る者は儲かる。
だからこそ、ここで幻想を買い叩く。
軍務会議室には、軍務官、財務官、外務官、そして有力貴族の代表が揃っていた。地図が広げられ、赤い印が国境沿いに打たれている。
カシアンは地図の前に立っていた。冠は被っていない。代わりに、戦の顔をしている。静かで、冷たく、決断が早い顔だ。
私が入ると、室内の空気が一瞬揺れた。王妃が軍務会議に出ること自体が、貴族にとって脅威だ。戦は彼らの利権であり、王妃が利権に触れるのは気に入らない。
軍務官が報告する。
「王国国境の内乱勢力が拡大。旧王子派残党が周辺領地を掌握し、徴発を開始。難民の流入は増加傾向。さらに、王国の新体制は帝国に援軍と融資を要請――」
「要請じゃない。投げ売りよ」
私は口を挟んだ。
貴族の代表が眉を吊り上げる。
「王妃殿下、発言は――」
カシアンが一言だけ言う。
「聞け」
それだけで黙る。皇帝の許可は、議論の通貨だ。
私は地図の上の赤印を指した。
「ここが燃えている。なら消火ではなく、燃料庫を奪う」
「燃料庫?」
財務官が問い返す。
「戦費の流れよ。聖環院の口座が王国へ金を送っている。資金源を断てば、内乱勢力は瓦解する」
外務官が渋い顔をした。
「聖環院は宗教組織です。正面から叩けば、帝国内の信徒が反発し――」
「だから正面から叩かない。市場で叩く」
私は紙束を広げた。国債の設計案。利率。担保。購入窓口。発行タイミング。
「帝国国債を発行する。担保は希少魔石利権と港湾税。買い手は大商会と、聖環院の関連団体も含める」
軍務官が顔をしかめる。
「敵に買わせるのか」
「買わせる。買った瞬間、彼らは帝国の債権者になる。債権者は帝国が潰れると困る。つまり、戦争を煽る側から、抑える側に回る」
貴族代表が嘲るように言った。
「理屈は綺麗だが、信徒は理屈で動かない。神で動く」
「信徒は神で動く。でも聖職者は金で動く」
私は微笑んだ。
「神は無償。でも神託の流通は有償。そこを突く」
カシアンが私を見る。
「具体的には」
「国債を聖環院に買わせた上で、同時に“寄付金の横流し”を証拠付きで公表する。信徒の怒りが聖環院を焼く。だが聖環院は帝国国債を抱えるから、帝国に刃を向けられない」
「……焼きながら縛る」
「ええ。火は鎖にもなる」
財務官が唸る。
「証拠の公表は、帝国の信用にも傷が――」
「信用は傷がつく前に、別の信用で上書きする」
私は別の紙を出した。
「国債発行と同時に、“帝国再建計画”を掲示する。難民労働で港を増強し、鉱山の採掘量を上げ、魔導炉を改修する。数字で示す。信用は感情じゃない。期待で作る」
マリアが小声で付け足す。
「帳簿は嘘をつきません」
軍務官が彼女を睨むが、私は睨み返して黙らせた。
貴族代表が咳払いをして言う。
「仮に資金源を断てても、王国国境は不安定なままだ。帝国の軍を動かすべきだ」
「動かすわ」
私は即答した。
「ただし全面戦争じゃない。限定戦。目的を“領土”にしない」
軍務官が眉を上げる。
「目的を領土にしない戦争など――」
「ある。目的を“契約”にする戦争よ」
私は地図の港を指す。
「王国北部の港湾。ここを押さえる。兵站と輸送路を帝国が握れば、王国側の新体制は戦えなくなる。戦えなくなれば、融資の条件を呑むしかない」
外務官が言う。
「それは実質的な支配だ」
「ええ。安く買って高く使う。投資の基本」
議論が熱を帯びる。貴族たちは戦を“名誉”として語り、私は戦を“契約”として語る。噛み合わない。だが噛み合わない方が勝てる。相手が感情で動くなら、こちらは数字で動けばいい。
その時、扉が開き、伝令が飛び込んできた。
「陛下! 急報です! 王国側の旧王子派が声明を――」
伝令が紙を差し出す。封蝋は粗雑。筆跡は乱暴。
私は紙を見て、口角が上がった。
「皇帝暗殺宣言ね」
軍務官が顔色を変える。
「何ですと!?」
私は読み上げた。
「“呪われた血筋の皇帝を討ち、帝国を浄化する。王妃を処刑し、神の秩序を取り戻す”――だそうよ」
室内が凍る。貴族代表が息を呑む。軍務官が拳を握る。外務官が頭を抱える。
カシアンだけが、静かだった。
彼の目が、氷みたいに冷える。怒りが温度を奪う。
「……面白い」
彼が低く言った。
「面白くないわ」
私は言い返す。
「面白い。俺を“呪い”で縛る気だ」
「鎖を売る連中ね」
「鎖は斬る」
「斬る前に、買い叩く」
私は紙を畳み、机の上に置いた。
「暗殺宣言は値札よ。彼らは私たちに値札を付けた。なら――私たちは彼らに値札を付け返す」
貴族代表が言葉を荒げる。
「王妃殿下、暗殺宣言を受けてなお市場だ値札だと――!」
「あなたは“名誉”という言葉で死体を増やしたいの?」
私は冷たく返した。
「私は死体を減らす。減らすために、金と契約で潰す」
カシアンが一歩進み、会議室の中心に立った。
「決める」
短い宣言。皇帝の宣言。
「国債を出す。聖環院に買わせる。資金流出を止める。国境は限定戦で押さえる」
貴族代表が言いかける。
「陛下、それは――」
カシアンが睨む。
「逆らうなら、家を差し押さえる」
沈黙。貴族の喉が鳴る。皇帝の言葉は、剣より鋭い。
会議が終わり、皆が散った。軍務官は地図を持ち、財務官は計算を始め、外務官は条約案を抱えて走る。貴族代表だけが不満げに去っていく。だが不満は金で黙る。
私は廊下へ出た。冷たい空気が頬を撫でる。戦の前の空気だ。
背後からカシアンが近づいてきた。足音がない。影のように近づくのは、昔の癖だろう。今でも時々、学園の裏庭の少年が顔を出す。
「イザベラ」
「なに」
「暗殺宣言を軽く見るな」
「軽く見てない。重く見てる。だから値札を付けるの」
「……お前は、どこまで平気なんだ」
私は立ち止まり、彼を見上げた。
「平気じゃないわ」
カシアンの目が僅かに揺れる。
「平気じゃない。でも、怖いからって黙ったら殺される。なら先に相手の財布を折る。怖さを使うのが私のやり方」
カシアンが私の手首を取った。きつくない。だが離さない。確認するみたいに。
「お前が死ねば、俺は――」
「帝国が困る?」
「違う」
彼は低く、噛みつくみたいに言った。
「俺が壊れる」
その言葉は、国債の利率より重かった。私は一瞬、息を止める。感情は市場で扱いにくい。扱いにくいからこそ、本物だ。
私は手首を引かずに言った。
「壊れないで。あなたが壊れたら、私の投資が焦げる」
「焦げる?」
「焦げた投資は回収できない。だから守って。私を。あなた自身を」
カシアンの喉が鳴った。
「……守る。だが条件がある」
「なに?」
「戦の間、お前は前線に出るな」
「前線に出ないと情報が――」
「情報は俺が持ってくる」
「あなた、交渉は下手でしょう」
「交渉はお前がやれ。だが――俺の背中の後ろで」
私は笑いかけて、やめた。真面目に頷く。
「いいわ。妥協してあげる」
「妥協は嫌いだ」
「でも学びなさい。帝国は妥協で回る。私たちは、その妥協を高く売る」
その夜、帝都の掲示板に帝国国債の発行が貼り出された。
利率は高い。担保は魔石利権。目的は帝国再建。
大商会が食いついた。貴族も渋々買った。市民も少額で買った。信徒も買った。聖環院も買った。買わなければ、帝国再建の敵と見なされるからだ。
翌朝、私が次に貼り出したのは、聖環基金の流れと、寄付金の横流しの証拠だった。
信徒の怒りが、聖環院へ向かう。
だが聖環院は帝国国債を抱えている。帝国を焼けば、自分も焼ける。
鎖は、巻き付いた。
大戦前夜。
私は机の上で帳簿を閉じ、窓の外の帝都を見下ろした。街は騒がしい。怒りと恐怖と期待が混ざる音。市場の音だ。
「王妃様」
マリアが包帯の腕で紙を差し出す。
「聖環院が動きました。王国へ流す予定だった資金が止まっています」
「いい子」
私は微笑む。
燃料庫の扉が閉まった。
あとは火種を潰すだけ――と思った、その時。
情報官が駆け込んできた。顔が青い。
「王妃殿下! 聖環院ではありません! 別口の資金源が――」
「なに?」
「帝国内の軍需商会です。名義は……皇帝派のはずの……」
私は息を止めた。
(内部か)
国難は外から来るとは限らない。市場はいつだって内部に虫がいる。
カシアンが背後から言った。
「裏切りは」
「買い叩く」
私が答えると、彼の声が低くなる。
「斬る」
「斬るのは最後よ。まず財布」
「財布の後に喉だ」
「順番だけ守って。価値が上がるから」
カシアンの目が細くなる。征服王の目だ。
「……分かった。お前の順番でやる」
その言葉を聞いた瞬間、私は背筋がぞくりとした。
戦は始まっていないのに、もう血の匂いがする。
大戦前夜の買収合戦は、まだ序章だった。




