第3話「聖女の亡霊と、王国の火種」
帝都の朝は、王都より忙しい。
馬車の数が違う。兵の足音が違う。商人の声が違う。金の回り方が違う。だから噂の回り方も、当然速い。
難民の受け入れを始めて十日。帝都の掲示板には、私の名が日に三回は貼られるようになった。
「王妃は王国民を入れて帝国を汚す」
「王妃は人を売買している」
「呪いの印を集めている」
最後の一文だけ、質が違う匂いがした。悪口ではない。狙いがある噂だ。誰かが意図して火をつけている。
私は朝の茶を一口だけ飲み、机の上の紙束を叩いた。
「……出てきたわね」
侍女が怯えた声で言う。
「王妃様、どうか外出は控えてください。街が……荒れております」
「荒れてるのは街じゃない。相場よ」
私は外套を羽織る。侍女が止めようとするが、視線だけで黙らせた。黙らせるのは簡単だ。王妃の肩書きは便利だ。
回廊を抜け、別室へ向かう。そこは私が“臨時”で作らせた小さな執務室だった。机が二つ、椅子が三つ。装飾は最低限。必要なのは豪華さじゃない。作業効率だ。
中には、マリアがいた。王国から来た元金庫番。いまは帝国の臨時徴税局の補助官として、顔を上げる暇もなく帳簿を追っている。彼女の指先は早い。早い指先は、帝国の延命に直結する。
そしてもう一人。
リオが、椅子に座らされていた。腕には包帯。印は隠してある。怯えは消えないが、目が死んでいない。子どもが目を死なせないのは、怒りが残っている証拠だ。怒りは燃料になる。
「王妃様」
マリアが紙束を差し出す。
「今日の入国者数です。技術者が三十七、職人が九十二、元官僚が十一。……それと、問題が」
「問題は歓迎よ」
私は紙を受け取りながら言った。
「金になる」
マリアの顔が引きつる。
「……街で、“聖女の神託”が流れています」
「聖女の亡霊?」
マリアが頷いた。
「王国の内乱は、神が望んだ浄化だ。帝国が難民を受け入れるのは神への反逆だ、という……」
「神託が便利なのは、責任が不要だから」
私は机に腰掛け、指先で書類の端を揃えた。
「出所は?」
「難民の中から……と言われています。でも、語り口が妙に整っていて……」
「整っているなら、作ってる人間がいる」
私はリオを見る。
「あなた、街の噂を聞いた?」
リオは唇を噛み、頷いた。
「……俺みたいな印持ちは、神が捨てた奴らだって。近づくと運が悪くなるって」
「誰が言ってた」
「……布を被った女。顔が見えなかった」
布を被った女。聖女の象徴。王国では白。帝国でも白は“清廉”の色だ。色が一つで人を操れるなんて、安い投資だ。
私は立ち上がった。
「行くわ」
マリアが慌てる。
「どこへ!?」
「神託の現場。噂は現場でしか潰せない」
侍女が悲鳴に近い声を上げた。
「王妃様、危険です! 街では難民と市民が衝突して――」
「衝突させたい人間がいるのよ。衝突したら、私の契約政策が失敗に見える。失敗に見えたら、難民の価値が下がる。価値が下がったら、誰かが安く買える」
私は微笑んだ。
「そんな美味しいこと、させない」
外へ出ると、帝都の中心広場は熱を持っていた。商人が集まり、兵が警戒し、群衆が円を作っている。中心には木箱が置かれ、その上に――白い布を被った女が立っていた。
顔は見えない。声だけが澄んでいる。
「神は告げています……! 外から来た者を受け入れるな……! 呪いを抱えた者は帝国を腐らせる……!」
群衆がざわめき、頷く者がいる。恐怖が伝染していく。恐怖は理性より速い。
私は群衆の外側から観察した。
声の調子は良い。言葉の選び方も上手い。だが、上手すぎる。素人の煽りではない。訓練された演説だ。
(宗教屋か、政治屋か。どちらにしても金の匂い)
背後で、カシアンの気配が濃くなる。彼は私の後ろに立ち、群衆を見下ろしている。皇帝がここにいると気づけば、群衆は散る。だが今はまだ散らさない。散らす前に、根を掴む。
私は人波を割って前へ進んだ。兵が止めようとするが、私の顔を見て退く。王妃の顔は、ここでも通貨だ。
木箱の前まで来ると、布の女が声を強めた。
「王妃は王国の女! 皇帝を惑わせ、帝国を売り――」
「口が悪いわね」
私が言うと、群衆がざわめく。女が一瞬止まる。想定外の接近だろう。
私は続けた。
「あなたの神は、ずいぶん細かいことまで知っているのね。契約の条文まで読んだの?」
「……神は全てを見通します」
「じゃあ質問。神は“寄付金の流れ”も見通す?」
女の気配が揺れた。
私は笑った。
「神託を売るなら、帳簿も用意しなさい。あなたの背後の財布をね」
群衆がざわつく。帳簿、財布。現実の言葉が混じると、神託は汚れる。
女が声を荒げる。
「冒涜です! 神を金で測るなど!」
「私は金で測るんじゃない。金で“見える化”するの」
私は扇を開き、兵に合図した。兵が一歩前へ出る。群衆が後ずさる。
「その布を取って。顔を見せなさい」
「……!」
女が後退る。木箱から降りようとする。
その瞬間、群衆の中から石が飛んだ。私ではない。女に向かってだ。
石は外れたが、石を投げた者の怒号が響く。
「嘘つき! お前らの神託で税が上がったんだ!」
別の声。
「難民が来て仕事が奪われるって言ったのはお前らだろう!」
群衆の中で、対立が生まれる。火種が燃え始める。誰かが仕込んだ火は、誰かの怒りで勝手に広がる。
女は焦って声を張る。
「神の怒りが――」
その瞬間、彼女の背後で小さな光が走った。
布の隙間から、指先が光っている。淡い青。魔石の光だ。魔導具を隠している。
私は目を細めた。
(偽装)
神託を“奇跡”で補強している。人は言葉だけなら疑うが、光が走ると信じる。安い。
私は扇を閉じ、冷たく言った。
「あなた、魔石持ってるわね」
女が息を呑む。
「……何を」
「神託じゃない。魔導具の発光。人を騙すための演出。王国の聖女と同じ手口よ」
群衆がどよめく。聖女。王国の事件は、帝国にも噂として流れている。寄付金横領。密会。偽善。そこに“同じ”と言われれば、イメージが重なる。
女が叫ぶ。
「違う! これは神の――」
「神は魔石で光らないわ。光るのは財布よ」
その時、低い声が広場を切った。
「やめろ」
カシアンだ。
彼が一歩前へ出ただけで、群衆の音が半分消えた。恐怖が空気を縛る。皇帝の存在は、それだけで規律だ。
「皇帝陛下……」
誰かが膝をつく。続いて何人も膝をつく。群衆の中心から秩序が戻ってくる。
女は震えながら後退った。逃げようとする。
私はその逃げ道を塞ぐように、木箱の横へ回り込んだ。
「逃げないで。あなたの神託、値札を付けてみたいの」
「……近づくな!」
女が袖から何かを投げた。小さな粉。煙が立つ。刺激臭。目が痛む。
(煙幕)
私は咄嗟に口元を袖で覆った。だが、その瞬間に腕を掴まれた。
カシアンが私を引き寄せ、背後へ下げる。剣は抜かない。抜けば群衆が暴発する。彼は戦の勘で、最小の動きで最大の効果を出す。
煙が晴れた時、女は消えていた。
群衆が騒ぎ出す前に、カシアンが一言だけ落とした。
「解散しろ。騒げば処罰する」
それで群衆は散った。恐怖で散る群衆は、あとで別の火種になりやすい。だが今は散らすしかない。現場の火は消えた。問題は根だ。
私は咳き込みながら言った。
「……逃したわね」
「殺すか」
「殺さない。捕まえる」
「同じだ」
「違う。捕まえた方が高く売れる」
私の声に、カシアンの目が僅かに動いた。理解している。だが苛立ちもある。私が危険に飛び込むことへの苛立ちだ。
「お前は前に出すぎる」
「前に出ないと相場は動かない」
「相場より命だ」
「命も相場よ」
言った瞬間、しまったと思った。言葉が冷たすぎた。
カシアンの顔が硬くなる。感情が閉じる。こうなると厄介だ。獣は命令に従うが、心は遠のく。
私は息を吐き、言い直した。
「……でも、あなたが嫌がる形では死なない。約束したでしょう」
「約束は契約じゃない」
「契約にしてもいいわ」
カシアンの視線が私に刺さる。熱い。苛立ちと独占欲が混じる目。
「今すぐか」
「今すぐは忙しい。あとで」
「逃げるな」
「逃げない。交渉の順番があるだけ」
その時、遠くから馬蹄の音が近づいた。帝国の情報官――私が臨時で雇った噂屋兼連絡役が駆けてくる。息が上がっている。
「王妃殿下! 報告です!」
「言って」
「王国側で“神託”が再燃しています。内乱の指導者が『聖女の声が戻った』と宣言。帝国に難民を送るのは神の意思だが、帝国が受け入れるのは神への反逆だ、と……」
私は目を細めた。
「矛盾してるわね」
「はい。でも群衆は矛盾を気にしません。奇跡があれば……」
「奇跡は魔石で作れる。さっき見た通り」
情報官がさらに言う。
「そして、帝都でも同じ煽動が複数箇所で始まっています。布を被った女は一人ではありません」
「……組織ね」
宗教組織か、政治組織か。あるいは両方。どちらでも同じだ。資金源がある。資金源があるなら口座がある。口座があるなら追える。
私は回廊へ戻る途中、マリアとリオを思い出した。
リオの腕の印。布の女の魔石。神託の再燃。
点が線になる匂いがする。
「王妃様!」
王宮の裏口で、マリアが駆け寄ってきた。顔が青い。
「どうしたの」
「難民の中で……喧嘩が起きました。印のある者が疫病を持っているって噂が広がって……殴られた子が」
「リオ?」
「いえ、別の子です。でも……リオも狙われています」
私は舌を鳴らした。
(狙いは印持ちの隔離と排除。価値を下げて奪うため)
私はカシアンを見る。
「今日の夜、動くわ」
「どこへ」
「噂の根を掴みに。布の女たちの集金場所――つまり財布の場所へ」
「危険だ」
「危険だから価値がある」
カシアンの目が細くなる。
「俺も行く」
「当然。あなたは私の後ろ盾でしょう」
「違う」
「なにが」
「お前の隣だ」
その言葉は熱かった。政治の言葉じゃない。市場の言葉でもない。私の胸の奥を、少しだけ乱す言葉だ。
私は笑って、誤魔化さなかった。
「じゃあ隣で守りなさい。噛みつくのは、私が合図した時だけ」
「……分かった」
夜。
帝都の裏路地は、昼より静かで、昼より危険だ。灯りの届かない場所に、金が流れる。金が流れる場所には、必ず虫が湧く。
私は黒い外套を羽織り、頭巾で髪を隠した。カシアンも同じように姿を変えているが、隠しきれない。背が高く、気配が鋭い。獣は布を被っても獣だ。
情報官が先導する。
「この先です。布の女たちが“祈りの会”を開き、寄付を集めている」
「寄付。いい言葉ね」
「実態は資金集めです。王国の内乱指導者へ流している疑いが」
路地の奥、古い倉庫の扉から灯りが漏れていた。中から、祈りの声が聞こえる。女の声。複数。あの澄んだ声を真似している。
私は扉の隙間から覗いた。
中には十数人の市民。膝をつき、手を合わせ、怯えながら金を差し出している。布を被った女が受け取り、木箱へ入れる。その木箱の横に、魔石が置かれていた。淡く光り、奇跡の演出をしている。
(やっぱり)
私は息を吐き、情報官に囁いた。
「箱の移動先は?」
「まだ掴めていません。ここで回収した後、別の者が運び出している」
「運び出す者を捕まえる」
私は扉から離れ、壁に背をつけた。
「カシアン。合図したら扉を蹴る。でも殺さない。逃げ道を塞ぐ」
「……殺さない方が難しい」
「難しい方が価値が高い」
カシアンの口元が僅かに歪む。笑いではない。諦めにも似た表情だ。
祈りの声が高まる。寄付が集まる。木箱が満ちる。十分だ。魚は餌を食べた。
私は合図を出した。
――指を一本立てる。
次の瞬間、扉が砕けた。
カシアンが突入し、壁際の男を押さえ、出口を塞ぐ。兵ではない。情報官と私の私兵だ。金で雇った者たちが流れるように動き、逃げ道を閉じる。
市民が悲鳴を上げる。布の女たちが叫ぶ。
「冒涜者!」
「神の怒りが――」
私は中へ入り、木箱の前に立った。
「神の怒りは飽きたわ。財布を見せて」
布の女が私に飛びかかろうとした。だがカシアンが腕を掴み、床に押さえつける。剣は抜かない。拳も振るわない。圧だけで押さえ込む。獣の制圧だ。
私は布を引き剥がした。
女の顔が露わになる。帝国の女だ。若い。目がぎらついている。信仰ではない。利益の目だ。
「あなた、どこに送金してるの」
女が唾を吐く。
「知らない!」
「嘘。知らないなら、どうやって仕事をしてるの?」
「神が――」
「神は口座を持たないわ」
私は女の首元に下げられた小さな札を見つけた。印章の刻まれた金属片。商会の刻印だ。帝国の、古い商会の印。
私は息を止めた。
(商会が絡んでる)
宗教ではない。政治でもない。商会。つまり、金が動く仕組みがある。
私は札を摘まみ上げ、女に微笑んだ。
「あなたたち、神託を売ってるつもり? 違うわ。呪いを売ってるのよ。怖がらせて、印持ちを隔離して、価値を下げて――安く買い叩く」
女の目が揺れた。図星。
私はカシアンに視線を送る。
「この商会の名、調べて。帝国内の取引記録を全部押さえる」
「命令か」
「命令。今夜中」
「……分かった」
情報官が近づき、耳打ちする。
「王妃殿下。捕まえた男が一人、王国訛りです。運び出し役らしい」
「連れてきて」
男は震えていた。汗が滲み、目が泳ぐ。
私は椅子を引き寄せ、男の前に座る。視線を合わせる。
「誰の命令で運んでる」
「し、知らねえ……! 俺は金をもらって――」
「金は誰から」
「……白い女から……!」
「白い女はどこから金をもらう」
「……商会……」
「どの商会」
男が口を閉ざす。
私はため息を吐いた。
「カシアン」
「何だ」
「怖がらせて」
「殺せと言ってないな」
「殺さない。怖がらせるだけ」
「得意だ」
カシアンが男の顎を軽く持ち上げた。力はほとんど入れていない。だが男は息を止めた。獣に喉を触られる恐怖は、それだけで膝を折る。
男が叫ぶ。
「ディセル商会だ! ディセル! 帝都の北、石畳の倉庫街! そこに運べって――!」
ディセル商会。
私はその名を頭の中の棚に置いた。そこから繋がる線を想像する。魔石の流通。印の刻印。王国の内乱資金。帝国の反皇帝派。
「よく言えたわ。褒美に生かしてあげる」
男が泣きながら頷く。
倉庫の外へ出ると、夜風が冷たい。けれど私の頭は熱い。市場が見えてきた。呪いは商売だ。なら潰し方は簡単だ。
供給を断ち、信用を落とし、資金を凍結し、首魁を安く買い叩く。
背後でカシアンが言った。
「王国の聖女の真似事をする連中が、帝国にもいる」
「ええ。亡霊ってやつね」
「亡霊は斬れば消える」
「亡霊は斬っても消えない。財布を焼かないと」
私は歩きながら、指先で扇を弄んだ。
「ディセル商会を叩く。そこから王国の内乱指導者へ繋がる線を掴む。……そして、印の正体も」
「印」
「ええ。リオの印。難民の印。あなたの呪いの噂。全部、同じ市場に並んでる」
カシアンの横顔が硬い。彼は呪いを憎んでいる。自分を縛った噂だから。噂は鎖だ。鎖は、どんな王でも嫌う。
私は囁くように言った。
「鎖を売ってるのは誰か。次はそれを買い叩く」
「……お前は本当に」
「悪女よ」
帝都の夜はまだ深い。だが私たちは、もう火種を握った。
あとは燃やすだけだ。
――燃やす相手を選んで。




