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処刑台で笑った悪女は、10年前に戻って「推し」に全財産を賭けることにした ~没落予定の貧乏貴族ですが、未来知識で婚約破棄も国難も買い叩きます~  作者: 綾瀬蒼
第2章「国の値段」

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第2話「安売りの難民、最高値の技術」

帝国の国境は、線ではなく“匂い”で分かる。


焼けた木の匂い。汗と恐怖の匂い。家を捨てた人間の匂い。国境の風は、王国が崩れていく音を運んでいた。


難民の列は、初日は小さかった。十人、二十人。荷車ひとつ。泣く子ども。黙った男。目が死んだ女。


三日目には百人を超えた。


一週間で、千人を超えた。


帝国の国境守備隊は慣れていない。敵国の民が押し寄せる経験はあっても、それが“助けを求める群れ”として来るのは、彼らの常識ではない。常識が崩れると、人は槍を構える。槍は思考停止の道具だ。


「止めろ! これ以上入れるな!」


国境の木柵の上で、守備隊長が叫んでいた。槍先が揺れる。難民が怯え、さらに押し合いへし合いになる。押し合えば倒れる。倒れれば踏まれる。死体が出れば、暴動になる。


私は馬車を降り、泥の中へ足を踏み入れた。


外套の裾が汚れるのを気にする気分はない。汚れは洗えば落ちる。だが機会は洗っても戻らない。


背後には、影がついてきた。


カシアンだ。帝国の赤い外套を纏い、剣を帯び、目を細めて人波を見ている。皇帝の護衛というより、群れを監視する獣だ。


「ここは臭い」

彼が低く言った。

「価値がある匂いよ」

「……お前にとってはな」


私は笑わず、隊長の前へ進んだ。


「誰の命令で止めているの」

隊長が私を見て目を丸くする。王妃を泥の中で見る経験などない。


「お、王妃殿下……! これは危険で……!」

「危険なのは混乱よ。今この場で死体が出たら、国境が市場じゃなく戦場になる」


隊長の眉が寄る。

「市場……?」


私は扇を開かずに言った。


「この人たちは敵じゃない。商品でもない。労働力よ。欲しい者がいる。帝国は人手不足。港も道路も鉱山も、兵站も――全部足りてない」

「だからといって、敵国の民を……!」

「敵国? いま王国は内乱。国家として機能してない。つまり彼らは国の所有物じゃない。自由に契約できる人間よ」


私は隊長の背後にいる書記官を指差した。

「帳面を用意して。契約所をここに作る」


「契約所……」

隊長が唖然とする。

「入国の許可と同時に、雇用契約を結ばせる。仕事、期間、賃金、食糧配給、住居、医療。全部明記。明記しないと暴動の火種になる」


隊長は反論しようと口を開くが、開いた瞬間に喉が詰まった。なぜなら、難民の群れの中から一人の男が倒れ、呻き声が上がったからだ。子どもが泣き、周囲が一斉に押し合う。


私は即座に命じた。


「水を配って。医療班を前へ。柵の内側に仮設の列を作る。動けない者から運び入れなさい」

「し、しかし……!」

「命令よ」


隊長の顔が引きつる。だが命令の形を取れば、軍は動ける。軍は思考が苦手だが、命令は得意だ。


隊長が叫び、兵が走り始める。槍が下がり、代わりに水桶が運ばれる。難民の群れがざわめきながらも、押し合いが少し収まった。


私はそこへ歩み寄り、群れの前で声を張った。


「帝国はあなたたちを無償で保護しない。慈善じゃない。契約で雇う。働く者は食わせる。働けない者は、働ける者が支える仕組みを作る。逃げる者には食糧は渡さない。約束を守る者には、帝国の庇護を与える」


厳しい言葉だ。だが甘い言葉は毒になる。甘くすれば群れは膨らみ、膨らめば管理できずに死体が増える。死体が増えれば憎悪が生まれる。憎悪は戦争の利息だ。


私は利息を払う側にはならない。


ざわめきが収まり、難民たちの目がこちらへ向く。怒り、恐怖、期待。混ざり物の目。市場の目だ。


その中から、ひときわ目が生きている女が前へ出た。


痩せている。頬がこけ、服は破れ、髪は乱れている。だが、姿勢が崩れていない。逃げるだけの人間ではない。


「……契約する」

女は言った。

「条件は?」

「子どもを先に。ここで死なせないで」

「契約書に“医療優先枠”を付ける。あなたは何ができる」

「帳簿」

私は目を細める。

「……帳簿?」

「商会で金庫番をしてた。数字なら読める」


私は内心で舌を鳴らした。


(当たり)


こういう人間を待っていた。王国が崩れると、技術と知識が安売りされる。安売りされるうちに買い取れば、帝国は一段階上に行ける。


「名前は」

「マリア」

「マリア。あなた、今日から帝国の臨時徴税局に配属。仮の役職を渡す。働き次第で正式にする」


女――マリアの目が大きくなる。

「……そんなの、信じていいの?」

「信じなくていい。契約を信じなさい」


私は書記官に視線を投げ、紙と印章を出させた。現場で契約を切る。言葉の約束は腐る。紙の約束は残る。


マリアが震える手で署名した。


その背後で、カシアンがじっと群れを見ている。目が冷たい。だが、その冷たさは人を殺す冷たさではない。人を測る冷たさだ。


「……お前は選別している」

彼が小声で言った。

「当然。全員救うなんて言ったら嘘よ。嘘は高くつく」

「救う救わないではなく、使う使わないか」

「使うことで救う。帝国の利益になるから守る。守る理由がある方が強い」


カシアンは黙る。理解はしている。だが、腹の奥に嫌悪が残っている顔だ。人を“材料”として扱うことへの嫌悪。自分がずっと材料だったから。


私は彼を見上げ、囁いた。


「あなたも材料だった。でも今は違う。あなたは材料を選ぶ側」

「……選ぶ」

「選ぶ力を持つ者が王よ」


その時、国境柵の向こうで怒号が上がった。


帝国側の貴族の一団が到着したのだ。絹の外套、金の指輪、香水の匂い。泥の匂いを嫌い、群れの匂いを嫌い、そして“王妃の権限”を嫌う連中。


先頭の男が声を張り上げた。


「王妃殿下! ここは軍の管理区域です! 勝手に難民を入れるなど――帝国の品位が落ちますぞ!」


品位。便利な言葉だ。何も守れない者ほど、品位を盾にする。


私は振り返り、微笑んだ。


「品位は金にならないわ。あなたたちが守っているのは品位じゃなく、既得権よ」

「なんだと!?」

「難民を入れれば、賃金が下がる。労働者が増える。あなたたちの農園と工房の利益が減る。そうでしょう?」


男の顔が赤くなる。図星だ。


私はさらに言葉を重ねた。


「安心して。賃金は下げない。下げたら暴動になる。代わりに――あなたたちの税を上げる」

「は!?」

「帝国は国庫が空。再建には金が必要。難民を働かせて生産を上げ、税で回収する。あなたたちは今まで抜いてきた分、利息を付けて払うだけ」


男の口が開く。だが言葉が出ない。王妃が税を上げると言っている。普通なら笑いものだ。だが今の帝国は普通じゃない。皇帝がそれを許せば、現実になる。


私は横に視線を送った。


カシアンが立っている。無言。だが、貴族を見つめる目が“喉元”を捉えている。貴族の背筋が、目に見えて固まった。


男が無理に笑顔を作る。


「……陛下のお許しがあると?」

カシアンが一言だけ言った。


「ある」


それだけで、貴族の一団の勢いが萎んだ。彼らは品位を語るが、命の値段は知っている。


貴族は唇を噛み、苦し紛れに言う。


「ならば……難民の中に“危険な者”が混じっていたらどうする。王国の残党、盗賊、疫病持ち――」

「混じってるわよ」

私は即答した。

「だから選別する。契約書には身元確認と健康検査を入れる。違反した者は追放。追放する場所も用意してある。あなたたちの農園の外れにね」

「なっ……!」

「冗談よ。でも、もし協力しないなら本気にする」


貴族の顔が引きつる。冗談と本気の境界を測れない時、人は従う。私はそれを知っている。


その日の夕方までに、仮設の契約所は三つできた。医療班が動き、子どもが泣き疲れて眠り、倒れていた老人が湯気の立つ粥を口にした。


難民の群れは、ただの群れではなくなっていく。


“労働者”という形を与えられ、契約という枠を与えられ、帝国の歯車として組み込まれ始める。歯車は摩耗するが、回り始めれば止まらない。


私は泥で汚れた裾を気にせず、帳簿に目を落とした。マリアが隣で手早く数字を書き写している。彼女の手は震えていない。仕事が人を立たせる。


「王妃様」

マリアが小声で言った。

「何?」

「……難民の中に、変な噂があります」

「噂?」

「“印”がある人間が混じっていると。腕に、黒い痣みたいな……それを持つ者は、近くにいると運が悪くなるって」


私はペンを止めた。


黒い痣。印。運が悪くなる。


懐かしい単語だ。


(呪い)


王国では“聖女”がそれを利用した。帝国では“呪われた血筋”がそれを利用された。呪いはいつだって、誰かの財布を太らせる。


私は顔を上げた。


「その“印”を見た人は?」

「何人か……。隠してるみたいで」

「隠す理由があるなら、掘る価値がある」


私は立ち上がり、外套の襟を正した。


カシアンが近づく。


「どうした」

「面白い商品が混じってる」

「商品と言うな」

「じゃあ“火種”と言うわ。どっちが好き?」

「……どっちも嫌いだ」


私は肩をすくめる。


「嫌いでも、握るしかないの。火種は放置すると燃える。燃えたら国境が焦げる。焦げたら――あなたの帝国が傷つく」

「俺の帝国は傷つかない」

「傷つくわよ。あなたが傷つくもの」


その言葉に、カシアンの目が一瞬だけ動いた。怒りでも冷笑でもない。確認の目。私はそれが気に入った。


日が落ちる前、私は難民の列の奥へ歩いた。兵が道を開け、怯えた目がこちらを見る。泥と汗の匂い。弱者の匂い。けれどその中に、確かに違う匂いが混じっている。


――血の匂いではない。魔石の匂い。


私は立ち止まり、布の影にいる一人の少年を見つけた。年は十歳前後。腕を抱えて震えている。周囲の大人が妙に距離を取っている。


「あなた」


少年が顔を上げた。目が怯えている。でも、ただの怯えじゃない。怒りが混じっている。自分が“印”で避けられていることを理解している目。


私はしゃがみ込み、少年の腕をそっと掴んだ。


「触るな!」と少年が叫ぶ。

「触るわ。私は損をするのが嫌いなの」


布をめくる。


腕に、黒い痣――いや、痣ではない。まるで焼き印みたいに、細い線が絡み合って模様を作っている。


その模様は、魔導炉の回路図に似ていた。


私は息を止めた。


(……呪いじゃない)


呪いと呼ばれているだけの、何か。誰かが意図的に付けた印。人を遠ざけ、価値を下げ、安く買い叩くための印。


つまり――市場だ。


背後でカシアンの気配が濃くなる。彼もそれを見たのだろう。彼の声が低い。


「……それは」

「あなたの“呪い”と似てる」

「俺のは血筋の噂だ」

「噂は印から生まれる。印は誰かが作る」


私は少年の腕を離し、微笑んだ。


「いい? あなたは呪われてない。値札を下げられてるだけ」

少年が震えながら言う。

「……じゃあ、どうすればいい」

「簡単よ」


私は立ち上がり、周囲の大人たちに聞こえる声で言った。


「この子は私が引き取る。契約する。医療と保護を与える代わりに、検査に協力させる。拒む者がいれば――その者は帝国の保護を失う」


大人たちがどよめく。恐怖と安堵が混じった音。彼らはこの子を怖がっていた。だから誰かが引き取ってくれるなら助かる。弱者は自分より弱い者を排除して安心する。醜いが、利用できる。


少年が私を睨む。


「……俺を買うのか」

「買わない。雇う。あなたの印の真相を売ってもらう」

「売る……」

「そう。あなたの価値は、ここから上がる」


カシアンが私の横に立った。少年を見下ろし、低い声で言う。


「お前は、王妃に守られる。誰も触れない」

少年が唇を噛む。

「……本当か」

「本当だ」


その断言は、契約書より強い。皇帝の言葉は、世界のルールを変える。


私は少年の名前を聞いた。


「リオ」と少年は答えた。


私は頷いた。


「リオ。今日からあなたは帝国の“問題”じゃない。帝国の“資産”よ」


背後で、遠くの柵の向こうから新しい難民の列が見えた。まだ来る。もっと来る。王国の崩壊は加速する。


私は泥の中で外套の裾を引き上げ、足を踏み出した。


安売りの中に最高値が混じっている。


それを拾えるのは、汚れることを恐れない者だけだ。


そして私は――恐れない。

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