第1話「処刑台の笑みと、10年前の貯金箱」
「ひどい顔ね。せっかくの晴れ舞台なんだから、もう少しマシに化粧してほしかったわ」
雨が、容赦なく降っていた。断頭台の板は黒く濡れ、足首に絡む鎖も冷たい。頭上の空は鉛色で、神がいるなら今日は不在だろう。
私を囲む民衆の叫びは、雨音に混じって波のように押し寄せた。
「稀代の悪女!」
「強欲の魔女!」
「王国の吸血鬼!」
ふふ。どれも悪くない。むしろ的確だ。
イザベラ・ド・モンテスキュー。没落予定の伯爵令嬢であり、王都の金と噂を吸い尽くした女であり――王国の“正義”が必要とした生贄。
正面に立つ男が、かつての婚約者だった。
エリック王子。濡れた金髪を苛立たしげに払う仕草は昔と変わらない。変わったのは目だ。あの目には、怒りよりも、安堵よりも、もっと薄暗いものが滲んでいる。
恐れ。
王子の隣で、白いドレスの令嬢が震えていた。涙を浮かべ、唇をかみしめ、“悲劇のヒロイン”を完璧に演じている。聖女。王子が「真実の愛」と呼び、私から婚約者の座を奪った女。
……聖女(笑)。
「最期まで反省の色もないのか、イザベラ!」
エリックが叫ぶ。正義の仮面を被った声だ。あまりに必死で、滑稽で。
私は肩をすくめた。縄が食い込み、痛むのに、笑いがこみあげる。
「反省? してるわ。あなたをもっと高く売れたはずだって」
民衆がどよめく。聖女が息を飲む。エリックの顔が赤くなり、次に青くなった。
「執行せよ!」
重い刃が持ち上げられる。木の滑車が軋み、雨粒が鉄の縁を伝って落ちた。あの刃の冷たさだけは、何度夢に見ても鮮明だった。
首筋に、鋭い冷気が触れる。
(……ああ、楽しかった)
私は笑った。人生の終わりにふさわしい、最高に皮肉な笑みで。
(次はもっと上手く買い叩いてあげるわ)
刃が落ちる。
世界が暗転し――
衝撃は、来なかった。
代わりに、耳をつんざく声がした。
「お嬢様! いつまで寝ているのですか。今日は大事な登校日ですよ!」
私は息を呑み、目を開けた。
視界いっぱいに広がったのは、豪奢な天蓋ではない。ひび割れた天井。染みだらけの壁紙。雨漏りを受けるため置かれた金属の桶。古い木の匂い。
そして、目の前には――。
「……乳母?」
そこにいたのは、死んだはずの乳母だった。丸く太い腕で腰に手を当て、眉間に皺を寄せている。怒鳴り声も、視線の刺さり方も、記憶そのまま。
「何を寝ぼけているんです。モンテスキュー伯爵邸に決まっているでしょう。さあ早く起きなさい。学園の馬車が来てしまいます!」
学園。
その単語が、頭の中の何かを乱暴にこじ開けた。
私は跳ね起き、自分の喉元に手を当てた。皮膚の温度。脈。確かにある。首は繋がっている。血の匂いもない。
(……戻った?)
心臓が、信じられない速さで鼓動する。
私は震える手で鏡を掴み、顔を映した。
そこにいたのは、まだ頬に張りがあり、目の下の影が薄い――十六歳の私だった。処刑台の女ではない。まだ“悪女”として完成する前の、学園の制服が似合う年齢の顔。
(戻った……十年前)
そうだ。ここは、モンテスキュー伯爵邸。
かつて栄えたが、今は傾き始めている屋敷。借金が雪だるま式に膨らみ、庭の噴水は止まり、使用人の数も減り――それでもまだ、貴族の体裁だけは保っていた頃。
私が“金”の味を覚え、手段を選ばなくなり、そして王子と聖女に嵌められ、処刑台に送られる……その始まりの地点。
私は視線を落とし、ベッドの下に手を伸ばした。
触れたのは、小さな木箱。
誰にも見つからないよう隠し、夜ごと少しずつ貯めた貯金箱だ。蓋を開けると、銀貨が数枚、乾いた音を立てた。
たった数枚。だが、今のモンテスキュー家にとっては冗談ではなく“命綱”に近い。
「ふふ……ふふふふ……っ」
笑いが漏れた。喉がひきつるほど、嬉しくて仕方がない。
乳母が一歩後ずさる。
「お嬢様……? 顔が怖いですよ」
「怖い? 当然よ。私は今、世界を一度終わらせたところなんだから」
乳母は意味が分からない顔をしたが、そんなことはどうでもいい。
私は知っている。
この十年で、どの商会が伸びるか。
どの街道が戦で使われるか。
どの鉱山から金が出るか。
どの貴族が賭博で破滅するか。
どの令嬢が“聖女”を名乗り、どの噂を使って人を殺すか。
そして何より。
(カシアン)
胸の奥が、熱くなる。
隣国――帝国から送られてきた質子。負けた側の皇子。王国は彼を“呪われた人質”と呼び、貴族たちは面白半分に虐げる。学園の裏庭にあるボロ小屋に押し込め、食事も満足に与えず、殴られても見て見ぬふりをする。
だが、未来の彼は違う。
数年後、自力で帝国へ帰還し、裏切った親族を皆殺しにして皇帝の座を奪い取る。そして冷酷無比な征服王として、この王国に侵攻し――滅ぼす。
私は、その未来を見た。
そして私は、その男が好きだった。
“好き”といっても、恋愛のそれではない。もっと歪で、もっと危険で、もっと救いようのない感情だ。
推し。
滅亡の王。狂犬公爵。私の世界で唯一、心臓を跳ねさせた存在。
(彼が王になることは確定している)
なら、話は簡単だ。
彼が絶望している今、恩を売っておけば、国が滅びても私だけは助かる。
どうせなら、私の財力で彼を最短ルートで王に押し上げて――最強の後ろ盾になってもらう。
打算。計算。利益。
そしてそこに混ざる、どうしようもない執着。
私は木箱を抱きしめ、窓の外を見た。雨は小降りになり、雲の切れ間から薄い光が差している。まるで世界が再起動したみたいだ。
廊下の奥から、馬車の車輪の音が聞こえる。学園の迎えが来たのだろう。
乳母が慌てて言う。
「さあお嬢様、支度を! 遅れますよ!」
「ええ、行くわ」
私は立ち上がり、鏡に映る自分を一度だけ確かめた。
十六歳の顔。
だが中身は、処刑台で笑った悪女だ。
私は微笑む練習をするように口角を上げた。上品に。無害に。誰もが安心して背を向けられる顔。
そして、その裏側で牙を研ぐ。
「その前に、乳母」
「なんです」
「エリック王子との婚約、今日から“売り物”にするわ」
「……は?」
「ゴミは叩き売るのが礼儀でしょう?」
乳母が頭を抱えた。だが私は止まらない。
婚約は、守るものではない。利用するものだ。王子の名は高い。価値があるうちに換金する。彼のプライドと政治的立場を、価格表に乗せてやる。
そしてその金で、買う。
この世界でいちばん価値がある“商品”を。
私は木箱の銀貨を指先で鳴らし、呟いた。
「私の全財産は、世界で一番価値のある『未来の王』に投資する」
乳母が青ざめる。
「お嬢様、それは……」
「安心して。私は正気よ。だからこそやるの」
――悪女の二度目の人生は、投資と育成から始まる。
学園へ向かう馬車に乗り込むと、窓の外で屋敷の門が遠ざかっていった。雨に濡れた石畳が、後ろへ流れる。
私は目を閉じ、未来の王の顔を思い浮かべる。
痩せた少年。
泥をすすり、誰にも期待されず、それでも折れない目をした少年。
(待っていて、カシアン)
私があなたを買う。
救うためじゃない。慈善でもない。善人のふりもしない。
ただ――
あなたが王になったとき、私が世界でいちばん得をするから。
そしてその瞬間を、誰より近くで見たいから。
馬車は速度を上げ、王都へ向かって走り出す。
私の笑みは、雨上がりの空よりも薄く、刃よりも鋭かった。




