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薩摩に馳せる

作者: Xsara

『時戸透、薩摩に馳せる』

鹿児島生まれ鹿児島育ち、ラ・サール高校の3年生、時戸透。周囲からは“眼鏡の数学鬼”と渾名され、受験勉強と歴史書に没頭する日々を送っていた。


ある晩、図書室で島津義弘の逸話を読みふけっていた時、突如として周囲の空気が歪んだかと思うと、透の身体は眩い光に包まれた。


──目を覚ました透は、戦国の薩摩にいた。

天正5年、1577年。まだ島津四兄弟が九州制覇の途上にあった時代だった。


透は己が置かれた状況を把握するや否や、秀吉の前に屈した島津家を全国に飛雄させたいという野望の元に行動を開始する。

目を付けたのは島津家の老臣・樺山久高。その幕下に身を寄せ、自らの知識と能力を売り込んだ。天文・地理・測量・算術、果ては帳簿の組み方に至るまで、透の技術は当時の常識を超えていた。


「お主、何者じゃ?」


「…時戸透と申します。薩摩の地を豊かにすることを天命と心得ております」


少年の眼差しに嘘は無く、久高は彼を直臣として取り立てた。


やがて天正6年、耳川の戦いが勃発。透は補給線と野戦倉庫の合理化を行い、兵站の円滑化に貢献。島津軍は大友軍を撃破し、透は“陣中目付”として名を知られる存在となっていた。


島津義久の側近・町田久倍は「彼は我らの“蕭何”じゃ」と冗談交じりに語った。


天正9年、透が21となる頃には、農政・商業・水利の整備を主導。城下町の再配置や道路計画を設け、南九州は次第に“島津の奇跡”と呼ばれる活況を見せ始めていた。だが透の野心はそこでは止まらなかった。


彼が注目したのは、織田信長の急伸だった。


「殿。毛利攻めに加担するのは得策ではありません。織田との関係強化はむしろ交渉の余地を持って…」


だが重臣たちは、算術屋の分際が外交に口を出すなと反発した。透の言葉は風に消えたかに見えた──


──しかし、天正10年、京都で本能寺の変が勃発。織田政権は崩壊し、毛利攻めも頓挫。結果的に透の判断は正しきものとされた。以後、透の発言力は飛躍的に増し、義久や義弘も彼を“書院の軍師”と呼んで重用した。




天正12年、沖田畷の戦い。後方支援を任された透は、補給路を巧みに操ったが、焦燥は隠せなかった。


「俺のやってることは、島津の地力を上げてるだけだ…このままじゃ秀吉の大軍に呑まれる」


それは現代人として、未来を知る者だからこそ感じる限界だった。透は九州統一を急ぐべきと主張した。加えて、秀吉との敵対を避けるべく、外交にも自ら手を出すようになる。


「豊臣に大友を取らせる前に、こちらから懐柔せねば」


その年の冬、透は義久に従い上洛。聚楽第にて茶会が開かれ、千利休の点てる茶を義弘、義久、そして透が味わう機会を得る。


茶の香が漂う中、秀吉はじっと透を見据え、にやりと笑った。


「おぬしが時戸透か。ええ働きをしておるそうじゃな。薩摩の在京連絡役として、わしの下に来ぬか?」


「お気持ち、ありがたく。ですが…私はただの事務方にございます」


「戯けたことを申すな。おぬしの算術は、国を動かせる力を持っておるぞ」


透は丁重に断った。だが、その時感じた“秀吉の圧”は、異様な熱気を孕んでいた。


──この男の時代は、長くは続かない。




天正13年、島津軍は肥後の阿蘇惟光を破り、九州をほぼ平定。透の内政改革は旧大友領にも広がり、検地制度、倉庫経営、港湾整備が行われた。だがそれが豊臣の目を引いた。


筑後・筑前へ進軍する島津軍の前に、豊臣より惣無事令が届く。


「この程度の命令、黙殺すべし!」と叫ぶ重臣たちの声に、透は孤立した。


「これ以上の戦は、滅びを呼びます」


「臆病者!」


「薩摩ん兵子じゃなか!」


罵声が飛んだ。


結果、戦は続き、大友家は滅亡。透は敗北を感じていた。まつりごとは整っていても、時の潮流は変えられなかった。


天正15年、豊前に豊臣軍10万が上陸。透の構築した補給網は機能し続けたが、島津軍は後退を繰り返し、ついに降伏。

戦後処理の場で、透は交渉を担当した。



「薩摩一国を安堵、義弘公に大隅、久保公に日向諸縣郡──これが最終案です」


その裁定に、家中からは不満が爆発。伊集院忠棟への肝付一郡の宛行いには特に強い反発があった。新領主に移動を拒否する旧家臣たち、混乱する支配構造。透は、現実に敗北していた。


「…これが、歴史というものか」


義弘には羽柴姓と豊臣姓が与えられ、政権との折衝は彼が担うようになった。義久は後に羽柴姓のみを拝受し、政治の表舞台から遠ざかっていく。




天正20年、文禄元年。透は32歳となっていた。朝鮮出兵が決まり、義弘に従って海を渡る。


船上、義弘は言った。


「透、そなたの言う通りじゃった。秀吉の風は強い。だが、持たぬ」


「殿。秀吉が崩れれば、天下は再び乱れます」


「して、薩摩はどうなる?」


「…耐えるしかありませぬ。武力ではなく、民と地に根を張るしか」


海風が吹き抜ける。透は振り返ることはなかった。歴史を変えることはできなかったが、それでも彼は、確かにこの国の礎を築いたのだ。


その生き様が、誰に知られずとも。

連載にしようかと迷いましたが短編になりました。

透の能力を信◎の◎望風に表現すると統率65武力30知力81政治87程度でしょうか。

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