第三話 魔軍の侵攻
土煙が見える。
なんだろう?
父親の肩に乗った少年は、背伸びして遠方を眺めた。
「どうした?
ミウ」
下から、父の声。
「なにか‥‥見えるんだ」
少年が答える。
穏やかな休日。
日差しもめっきり春めき、陽気に誘われるように親子三人で王都アイリーンの外へ出た。
西湖まで行くのは無理でも、ピクニックがてら街道をそぞろ歩くのも良かろう。
そう提案した両親は、とても明るかった。
金銭的な重圧から解放された、というのもひとつの理由だろう。
ある人が、彼ら一家に援助してくれたから。
飢えているときに食物を与えてもらった恩は、一生かかっても返さなくてはならない。
そんなことわざがアイリン王国にはあるが、むろんミウはそれを実行するつもりだった。
あのときお世話になった優しい人々に。
あの優しいお姉さんは言っていた。
「がんばってね。
必ず幸せはくるから。
ありふれた、誰でも言う言葉だけど。
でもきっとみんなそうだったから経験上言うのよ」
それは、少年にとって道を照らす灯りとなった。
けっして挫けないと誓った。
今、ミウは学業のかたわら、アルバイトをしている。
一〇歳ではたいした仕事もないが、読み書きができることが幸いして、中央図書館の分室のひとつで写本の手伝いなどをやっているのだ。
恩を返すため。
両親の負担を減らすため。
「なんだろ‥‥いったい‥‥」
不安げに街道を見渡すミウ。
朝の街道を歩く人々のなかにも、すでに少年と同じようにしているものもいる。
なにか、なにか不吉なものが近づいているような、そんな嫌な感じだ。
「お父さん。
降ろして」
「あ‥‥ああ」
父が少年を地面に降ろす。
同時だった。
幾万の矢が、街道に降り注ぐ。
「なっ!?」
驚愕の悲鳴を上げ、次々と倒れ伏してゆく人々。
戦うとか逃げるとか、そういう次元の話ではない。
唐突に空から無数の矢が降ってきたのだ。
何の遮蔽物もない街道で。
母も父も、身体に矢を生やして倒れている。
「‥‥なんで‥‥なんで‥‥?」
呆然と立ちすくむ少年。
彼は無傷だった。
体勢的に、父が盾になってくれたのだ。
「に‥げろ‥‥ミウ‥‥」
声と、血の塊をはきだす父。
「お父さんっ!?」
「にげ‥るんだ‥‥」
それが、父の最後の言葉だった。
「‥‥やだよ‥‥お父さん‥‥お母さん」
ぽろぽろと。
両の瞳から流れる。
「起きてよ‥‥起きてよ‥‥」
うわごとのように繰り返しても、むろん父も母も、ぴくりとも動かなかった。
どれくらいそうしていたのか。
あるいは、ほんの数秒の事だったかもしれない。
弾かれたように少年が立ちあがる。
拳を握りしめ。
ここにいちゃいけない。
はやく街に戻って、衛兵さんに知らせないと。
駆け出そうとする足。
しかし、それは一歩たりとも進むことはなかった。
少年の前に立ち塞がる影。
「ぁ‥‥」
「すまないが。
目撃者を出すわけにはいかんのだ」
降りかかる声は、女のもの。
その腕が、少年の肩の高さで左から右へと動く。
剣光をともなって。
ころり、と。
滑稽なほど軽い音を立てて、少年の首が地面に転がる。
ミウが最後に見たもの。
それは、金と青のコントラストが鮮やかな髪だった。
倒れている小さな身体を踏み越え、押しつぶし、魔王軍が進む。
「やられたな。
こいつは」
王都アイリーンの大本営。
赤の軍司令官たるガドミール・カイトス中将は、大きく息を吐き出した。
時刻は正午過ぎ。
いきなり出現した闇の軍勢が、王都アイリーンを包囲してしまったのである。
しかも、王国軍には総指揮を執るものがいない。
王国軍最高司令官たるトッド大将と最高顧問たる花木蘭大将は、国王マーツに随従してフォアロックヒルズ市を視察中だ。
当然、それに王都に駐留する部隊の多くも随伴している。
いま王都にいるのは、王都守備隊の赤の軍が六万と、黒の軍や白の軍の一部兵力があわせて一万程か。
それですべてだ。
対する闇の軍勢は、オークやゴブリンなどの鬼族を中心としてざっと二〇万。
「まったく見事なタイミングだ。
こっちの行動計画を知っていたとしか思えん」
苦々しく呟くカイトス。
完全に先手を取られてしまった。
王都を包囲されるとは。
警邏中の部隊は何をやっていたのか。
こういうときのための哨戒部隊ではないか。
もっとも、
「何の連絡も入らないって事は、全滅してしまったのかもな」
遠くを見つめる。
連絡が入らなかった。
通報すらもなかった。
それがなにを意味するか。
カイトスにはわかっていた。
あるいは知りすぎていたというべきか。
闇の軍勢が、人間を捕虜だの人質だのという形で生かしておくはずがない。
「何人死んだかな‥‥いや‥‥過去形で言うのははやすぎるか」
本番は、むしろこれからなのだ。
七万の混成部隊で、二〇万の大軍から王都を守らなくてはいけない。
「なかなか難題だがやるしかないな。
弓兵と魔法使いを全員、城壁の上にあげろ。
補給も優先的にまわすんだ」
指示をくだす。
王都アイリーンの城壁の総延長は五〇キロメートルに達する。
これが東側を除く三方を完全に囲んでいるのだ。
城壁のない東側とは、すなわち海である。
世界最大の都市というのは伊達ではない。
城壁の高さは一五メートルに達し、簡単に越えられるものでもない。
この上から弓と魔法でひたすら攻撃を加える。
むろんこれだけで敵を退けられるわけもない。
「北門と南門は絶対に破られるな。
バリケードでも何でも良いから組んで防御を固めろ。
弓兵と魔法兵は戦後のボーナスを楽しみに気合いを入れていけ。
地上は、一万ずつを北と南に配置。
残りの二万は西門に集結。
完了次第、門を開くぞ」
その指令に、幕僚たちが目を丸くする。
この状態で門を開いたらどうなるか。
子供にでも想像がつくだろう。
不敗の名将とたたえられる男が、この危地に及んでおかしくなったのか。
そう思った部下もいたかもしれない。
むろん、カイトスは正常そのものだった。
一カ所だけ門を開けるのは、敵にそこを攻撃させるためだ。
相手の方がずっと多いのである。
同時多発的に複数の門から乱入されては、勝算など立てようがない。
ここは、一点突破の可能性を見せびらかしつつ、城門を利用した縦深陣によって敵に損害を強いるべきだろう。
いくら城門が広いといっても、横に並べるのはせいぜいが一〇騎が限度だ。
「入ってきたやつを各個撃破する。
それしかない」
名将が笑い、それによって幕僚たちを安心させた。
将というものは、常に虚勢を張らなくてはいけないのだ。
この作戦で当分は凌げるはずだ。
だが、あくまでも当分である。
籠城というのは、援軍があることを前提としておこなう。
この場合の援軍とは、王たちと一緒にいる青の軍ということになる。
彼らが駆けつけるのがはやいか、アイリーンが陥落するのがはやいか。
「他人事なら、なかなか見物な競争だがな」
口に出さずに呟き、
「いいか!
市民に一人たりとも犠牲を出すなよ!!」
朗々と告げる。
二月二九日。
王都アイリーンにとって、長い長い午後が始まろうとしていた。