クラス委員長 その2
保健室が遠い。
「碇矢くん。私、本当に熱なんてないから」
廊下で俺の後ろを歩く荒井さんが、また同じことを言った。
俺たちは保健室に向かっている途中なのだ。
正確には保健室に向かう俺と、それを阻止しようとする荒井さんだけどね。
「そうはいっても体温計が壊れているんだ。このままというわけにはいかないだろ? そして俺はクラス委員長だ」
俺は、ウンともスンとも言わない体温計のトリガーを、カチっとクリックする。
「ひゃ! それなら、私もですよ」
荒井さんは体温計が放つカチカチ威嚇音におでこガードしながら、そう応えた。
こんなに元気な荒井さんを見ていれば、女子に疎い俺でも流石にわかる。
荒井さんの顔が赤かったのは体調のせいじゃないね。
怒りにうち震えていたのさ。
使命感も無くクラス委員に立候補した、この俺を見透かしていたに違いない。
そんな荒井さんに尊敬の念を抱いた俺は、頭を垂れて許しを請う以外に出来ることは無いだろう。
カチ
「ぴゃ」
クリック音に再び、おでこガードの姿勢をとった荒井さんを眺める。
僅かにお尻を引いたへっぴり腰。
申しわけ程度に額にそえられた小さな手。
その手の下には、長い前髪からのぞき込む大きな目。
頬はぷぅと膨らみ、僅かに紅潮している。
お怒りである。
ごめんね、荒井さん。
「私だって、立派なクラス委員長にならなきゃ駄目なんです」
ふーん。
ポーズこそ弱々しいが、その声には強い決意を感じる。
「だったらさ、俺に何かあったら荒井さんが助けてよ」
*
廊下には俺たちの他にはほとんど人の気配が無い。
それにも関わらずときおり視界の端に人の姿が映り込む。
レッサーパンダの散歩をしている男子生徒の姿だ。
「ここは鏡が多いな」
大きな姿見の前で立ち止まると俺たちが映っていた。
「連理女学院の生徒さんは、常にみなりを整えるからなんですって」
鏡の中で俺の脇に映っている荒井さんが応えてくれた。
こうやって並ぶと、彼女の身長は頭ひとつと半分くらい俺より小さい。
連女について教えてくれた荒井さんは、なんだか悲しそうだ。
荒井さんを鏡越しにじっと見つめる。
ブレザーの制服がとても似合っていた。
「荒井さんは、俺と同じ制服なんだな」
その一言に、荒井さんは隠れてしまった。
俺の後ろに。
それは隠れていることになるのだろうか?
「お恥ずかしながら、連女の受験に失敗しまして」
ちょっと角度を変えると、鏡越しに悲しそうな荒井さんの顔が見えた。
これは申し訳ないことを言ってしまったと、俺は反省する。
「ごめん。無神経だった。本当は俺も連女に入りたかったんだ」
「そうなんですか?」
「本当だよ。だから仲間だな」
……。
「あれ?」
ヤバい、ばれた。
「碇矢くんは、男子じゃないですか!!」
ぷっと頬を膨らませると、再び俺の陰に隠れてしまった。
試しに避けてみると、荒井さんは再び俺の影に隠れる。
それからの道中、荒井さんは鏡とみれば俺の影に隠れる。
対して俺は身を翻し、新井さんの姿を鏡に映す。
それを何度か繰り返すうちに楽しくなってくる。
俺はなぜか、この単純で子供っぽい遊びに懐かしさを感じた。
ちらちら見える荒井さんの顔は、もうお怒りではなかった。
「あれ?」
だがしかし、そんな戯れも長くは続かない。
うきうきでかくれんぼしていた荒井さんが急に固まったのだ。
「やっと、思い出したか?」
夢中で遊んでいた荒井さんが、俺を保健室に向かわせない使命を思い出したのだ。
*
保健室に向かう廊下で、俺の覇道に立ちふさがる存在が居た。
その名は荒井さん。
その小さな体から両手をいっぱいに広げて俺の行く手を遮っている。
その姿はまさに怒れるレッサーパンダ。
この戦い、先に動いたほうが負ける。
試しに一歩間合いを詰めてみると、荒井さんはへっぴり腰でさっとおでこを隠した。
行く手はスカスカで通り放題である。
ぴろりーん、ぴろりーん
だが、その勝負に水を差す無粋な電子音が鳴った。
他に誰も居ない廊下なのだから、音源は俺か荒井さんしかない。
俺は一歩下がりポケットの折りたたみタブレットを取り出す。
開けばタブレット、たためばスマホの便利な機種だ。
通知を示すランプはついていない、耳をつければ確実に鳴っていないのも分かった。
「俺のじゃないぞ?」
荒井さんもブレザーのポケットから畳んだタブレットを取り出す。
そのあいだも、左手はひたいをガードしたままだ。
「第三の目を隠しているなら、絆創膏を貼っておけばどうだ?」
荒井さんは俺の親切心に小首をひねりながら、通知を確認する。
その直後にパッと俺に背を向けるとスマホを操作しはじめた。
誰も居ない廊下でさらされる、無防備な女子の背中。
うーん、悪くない。
*
荒井さんは「よし!」と一言満足気にうなづいて、俺に向き直る。
「お待たせしました。さぁ、保健室に行きましょう」
なんだか急に抵抗しなくなった。
それどころか手で俺を促すしまつだ。
「さぁさぁ」
ところが、数歩進むと今度はこう言い出す。
「あ、碇矢くん。私ちょっとお花を摘みにいかなくてはなりません」
折しもそこはトイレの前だ。
「女性専用」と張り紙がしていある。
なんで張り紙かって?
一部を男子に開放しているためだ。
荒井さんは恥じらう事も無く、トイレに入っていった。
そうか。俺の人生最初の女子トイレ待ちは荒井さんか。
初体験を奪われてしまった。
感慨にふけっていると、またも通知音が鳴った。
さっきとは聞こえ方が違う。
今度こそ俺のスマホだ。
………さっさと荒井さんを保健室に送り届けてからチェックするとするか。
「碇矢くん、鳴りましたよ?」
「うぉ! びっくりした」
トイレから荒井さんがひっこりと顔を出す。
「ああ、そうだな」
「え、あの、見ないんですか?」
「荒井さんの体温を測ってからね」
「駄目ですよ! この情報化社会を一歩リードするためにはスピードが肝心ですよ」
お前は通信会社の営業かなにかか?
それっきり荒井さんは「さぁさぁ、どうぞ」とばかりに俺が確認するのを待っている始末だ。
まぁ、荒井さんがいいなら別にいいけどな。元気そうだし。
俺がポケットからスマホを取り出すと、荒井さんは再び女子トイレに消えた。
俺はスマホの通知を確認する。
『おやぶん、デコっぱちでヤンスよ』
登場したでヤンスよ?
してないでヤンスね。謝るでヤンス。
うがい、手洗い、ブックマークと評価をお願いするでヤンス。
……そして、生徒会長の設定を考えている作者のために、時間稼ぎをしている荒井さんにエールを。
頑張れ荒井さん!!