098.私がなりたいのは
「ふぅ…………疲れたぁ…………」
日もどっぷりと沈んでいく夜の入り口。
まだ辛うじて耐えている陽の光を浴びながら店にたどり着いた俺は、カウンターにたどり着くこともなく手前のソファーに倒れ込んでしまう。
昨日今日と色々あって……本当に疲れた。
体力というより精神が。しかし精神は肉体に直結するというのは本当のことだろう。
横になって息を吐くと、身体は元気なはずなのに起き上がる気力が一切湧いてこない。
帰る時タクシーを使わせてもらって本当に良かった。もしこれが電車だったりしたら立っている間に気を失うか、座ってても終電まで起きることはなかっただろう。
「でも……起きなきゃなぁ…………」
ここでウダウダと時間を潰すのも考えたが、そんなことをしていたら絶対寝入ってしまって気づけば朝になってしまう。
それに奈々未ちゃんが泊まってから2日もお風呂入ってなかったからな。シャワーは浴びたものの湯船はからきしだ。夏だし湯船でしっかり汗やら疲れやらを根こそぎ落としたい。
それに店も、数日閉めちゃったからな。たとえ客が来ないとはいえあまりサボりすぎるのは俺のプライド的に良くない。
亀より遅い速度で名残惜しむようにゆっくりと立ち上がっていくと、ふと背もたれのせいで見えない扉からチリンチリンと誰かが来店したことを告げる鈴の音が鳴る。
おかしいな。ライトは付いているとはいえCLOSEの看板は変えていない。となると、同じタクシーで帰った優佳が引き返して来たか?
「どちら様……って、奈々未ちゃん?」
「ん……。おかえり、マスターさん」
扉前でちょこんと立っているのは白い肌に白い髪。そして綺麗な瞳をこちらに向ける奈々未ちゃんだった。
彼女は外を歩いてきたにも関わらず人目を引きすぎる容姿を隠すことなくワンピース姿で俺と対峙する。
「こんな時間にどうしたの? いつもの変装は?」
「家とここなら人も歩かないし、変装しなくても平気。 それと、仕事の帰り道に明かりが見えたから」
「帰り道って……ここ通らないよね?」
「愛の力なら……通らなくてもわかるよ?」
どういうことなの…………。
「っていうのは冗談で、マスターさんは病み上がりだから、心配して見に来てた」
「なるほど。大丈夫だよ。 今日は用事で外行ってただけだしね。 どうする?せっかくだしコーヒーでも淹れようか?」
「いいの?」
「もちろん」
そっか。奈々未ちゃんも心配してくれてたんだね。
昨日の今日のことで善造さんとの件は知らないようだけど、それでも気持ちは嬉しい。
俺はダルい身体に鞭打ってカウンターへと向かっていく。正直俺も、今日の分のカフェインを摂ってなくて欠乏症だ。この怠さもきっとそのせいだろう。
彼女の好みと俺の好みは似通っている。
だから適当に今の気分の豆をセレクトして二人分の豆をガリガリとミルで挽いていく。
あぁ……この漂ってくる香り。やっぱりコーヒーの香りは落ち着く。それだけで辛い身体も癒やされていくものだ。
「はい、おまちどお」
「ありがと…………ん、おいしい」
今日も彼女の好みに合わせて夏だけれどホットのコーヒー。
その美味しさにほんのりと緩む表情を目に収めつつ、俺も暖かなコーヒーを口に運ぶといつものアイスコーヒーとは違う、芳醇な香りが口いっぱいに広がる。あぁ、今日も美味しい。
「あれから……泊まった翌日のおじいさんは大丈夫だった?」
「おじいちゃん? 帰ったら二日酔いで辛そうだったけど、今はもう平気だよ。 私の悲報を聞いて安心してたし」
「悲報で安心?」
「マスターさんが手を出してくれなかったっていう、悲報」
「…………」
うん。まぁ……それは悲報じゃなくて吉報だね。
奈々未ちゃんもまだ若いんだし自分を大事にしないと。それにアイドルっていうイメージ先行しがちな職業でもあるんだし。
「それよりマスターさん。……なにかあったの?」
「えっ……なにって…………」
ふと。これまでコーヒーの美味しさに身を委ねていた彼女はカップを置いて問いかけてくる。
まさしく真理を突くような、タイムリーの問いかけに思わず動揺しかけてしまうが彼女は気にすることなく言葉をつなげる。
「なんだか、すごく疲れてるけど吹っ切れたような感じがする。心の荷がひとつ降りたような……」
カウンターから身を乗り出して頬に触れてくる彼女の瞳は、深く、輝くような蒼だった。
まるで暗い海の底まで届くように輝く、思慮深い瞳。その内には心配と、安心が両立するように込められていた。
俺は頬に感じる暖かな感触に手を触れ、身を委ねるように笑顔を見せる。
「それは……うん。 色々あったけど、なんとかなったよ。」
「そっか。 よかった」
つられるように柔らかく微笑む彼女は、いつも以上に大人びて見える。
さっきも思ったが、きっと彼女は昨日今日のことをまだ知らないだろう。けれど全てを理解し、そして受け入れようとする姿は慈愛に満ちていた。
「んしょっ……んしょっ……」
「奈々未ちゃん?」
「マスターさん……じっとしてて……」
姿勢を変えて椅子に正座し、いっそう前のめりになった彼女は俺との距離を近づけてそっと手を伸ばす。
何事かと目を瞑って身動き1つ取らずにその行く末を待っていると、頭上に暖かな感触が。彼女は腕を持ち上げて頭に乗せてきたようだ。
「マスターさん、頑張ったね。 えらいえらい」
「ぁっ…………」
まるで幼子のように頭を撫でてくる彼女の姿に、俺はとある夢を思い出す。
以前彼女を泊めた日。朝食の夢の中での、母に撫でられる夢。
今の胸に満ち足りるような気持ちは、あの朝のそれと同じものだった。
まさしく母にも似たその微笑みと手に、思わず胸の内が熱くなる。
「突然ごめんね。 私もほとんど覚えてないけど、昔ママにこうしてもらってた憶えがあるから」
「…………ううん、ありがとう」
ゆっくりと離れていく手に一抹の名残惜しさを感じたが、グッと堪えて椅子に座り直す彼女を見つめる。
そんな彼女は、遠くを見つめるかのように真っ暗になった窓を眺める。
「私もね、夢を見たの」
「夢?」
「うん。昔の……ママがいたときの夢。ほとんど記憶が無いから想像かもしれないけど、ママが私の頭を撫でてくれてすごく安心したの。だから、もしかしたらマスターさんも求めてるのかなって」
「…………そっか」
俺も、さっき撫でられてものすごく安心した。
きっと心のどこかで無意識的に求めていたのかもしれない。
「だからね、寂しくなったらいつでも言って。 いつでも、撫でてあげるから」
「それは恥ずかしいなぁ。 でも、ありがと」
「ん。 でもマスターさん、1つだけ勘違いしてほしくないことがあるの」
彼女はそこで一旦区切り、カップに残ったコーヒーを一気に傾ける。
そうして一呼吸おいてから、アイドル以上の、とびきりの笑顔を俺に見せつけた。
「私がなりたいのはマスターさんのお母さんじゃなくって……お嫁さん、だからねっ!」




